穂高神社:八雲ニ散ル花 蝦夷ノ王篇03

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海を離れ、彼らが辿り着いた場所は、清き水湧く日本アルプスの麓「安曇野」でした。
安曇族の聖地「穂高神社」本宮を訪ねてみます。

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穂高神社本宮は、長野県安曇野市穂高にあります。
他に、松本市安曇の上高地に「奥宮」、奥穂高岳山頂に「嶺宮」があり、当社は「日本アルプスの総鎮守」と呼ばれています。

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参道を歩くと、清らかな水の気を感じます。

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鳥居の先には社殿が見えますが、その前に少し寄り道。

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鳥居の左手には神船「穂高丸」が、

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右手の厩戸には正装した馬の像、

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ものぐさ太郎の銅像があります。

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当社若宮相殿に祀られる「信濃中将」(しなのちゅうしょう)はものぐさ太郎のモデルとされることから、置かれているようです。

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では、神域へ足を運びます。

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神楽殿の先に見える、均整のとれた美しい拝殿。

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祭神は中殿に「穂高見命」(ほたかみのみこと)を祀ります。
別名を「宇都志日金拆命」(うつしひかなさくのみこと)といい、綿津見命の子と伝えられます。
左殿に「綿津見命」(わたつみのみこと)、安曇氏の祖神を祀ります。
右殿は「瓊々杵命」(ににぎのみこと)を祀ります。
また別宮として「天照大御神」も祀っています。

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さて、この祭神の中に、安曇族の正体が隠されていると、僕は直感しました。
安曇族の祖神、「綿津見命」の誕生シーンを日本神話で見てみます。

イザナミと黄泉で別れて帰ってきたイザナギは禊をしました。
その時、水の底に潜った時に生まれたのが「底津綿津見神」と「底筒之男命」、中ほどにいた時生まれたのが「中津綿津見神」と「中筒之男命」、水の表面で生まれたのが「上津綿津見神」と「上筒之男命」だと云います。
この「綿津見三神」が「綿津見命」であり、「筒之男三神」は「住吉大神」であるとされます。

「筒之男三神」の「ツツ」とは星を意味するそうです。
3つ並ぶ星とはオリオン座の3つの星を表しており、海人族には欠かせない指標となる星でした。
そしてこの星神を日本に持ち込んだのは、道教の道士「徐福」であったと富家は伝えています。

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この徐福は1度目は2000人、2度目は3000人の童男童女を連れて、日本に渡来しました。
しかし日本への舟旅は決して穏やかなものではなく、そして二度と故郷に帰ることは許されない旅でした。
計5000人の、海に消えた者、陸地で寿命を迎えた者、そうしたかつての童男童女をまとめて子孫は「海童神」として祀りました。
この海童神を祀る神社が、徐福が二度にわたって上陸した出雲方面佐賀方面に、「海童神社」として残っています。

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海童は「わだつみ」と読み替えることもできます。
わだつみとは、「海神」「海祇」「綿津見」と書き換えることができます。
そう、つまり徐福とともに日本へ旅立った童男童女の霊が綿津見神だったのです。
記紀は綿津見大神を龍宮の神(豊玉彦)と呼び、龍宮の姫に「豊玉姫」と「玉依姫」がいると伝えます。
玉依姫は創作された神ですが、豊玉姫は宇佐神宮に祀られる「豊王国」の女王の名です。
豊王国とはいわゆる「邪馬台国」のことであり、その女王とは「卑弥呼」を意味します。
徐福らの末裔「物部族」と豊王国は連合して磯城大和王朝に東征をしかけますが、その連合王国の末裔が安曇族であると僕は推測しています。
ちなみに当社右殿に祀られる「瓊々杵命」とは物部王イニエのことです。

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拝殿に向かって右側に境内社群があります。
その中の若宮では「安曇連比羅夫命」(あづみのむらじひらふのみこと)、若宮相殿にものぐさ太郎のモデル「信濃中将」が祀られます。

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この安曇連比羅夫は「白村江の戦い」の時に170艘の軍船を率いた軍人であったと云われています。

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勇猛な軍人であった比羅夫ですが、この白村江の戦いは、日本軍の惨敗に終わっています。
この知らせを聞いた時の大王「天智」は唐の日本侵略を恐れ、水城を含む膨大な数の城を1~2年のうちに築かせています。
それほどのことを為させた天智ですから、敗戦の責を安曇族に負わせたことも容易に想像できます。

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そのため、栄華を再びつかみつつあった安曇族は居場所を失い、この信濃の山間の小さな村に逃げ込んだのではないでしょうか。

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再びと書いたのは、安曇族は、実に栄枯盛衰を絵に描いたような一族だったからです。

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安曇族の大元の本拠地は北部九州、「志賀海神社」がある志賀島を中心とした一帯であったとされています。
険しい玄界灘を渡り、朝鮮半島を行き来する技術を持った安曇族は、当時も大和から一目置かれていたと思われます。
安曇族に転機が訪れたのは「神功皇后の三韓征伐」の時だったと僕は考えます。
この三韓征伐は、壱岐・対馬を経て、玄界灘を渡り、多くの軍船を三韓まで導いた安曇族の怪老「阿曇磯良」(あづみのいそら)の功績を無くしては語れないからです。
磯良の功績により安曇族は、大和畿内の各地へ進出したのだと思われます。

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安曇族が移住した地とされる場所は、阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・泉・熱海・飽海などの地名として残されたと云われており、これらは安曇が語源とされています。

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300年代後半には畿内に勢力を張っていたと思われる安曇族ですが、401年、事件が起こります。_
『日本書紀』履中天皇即位前条が記すところによれば、「仁徳天皇87年1月に天皇が崩御、皇太子で兄の去来穂別(いざほわけ/履中)が黒媛を妃にしようと思ったが、仲皇子が去来穂別の名を騙って黒媛を犯してしまった。仲皇子は発覚を恐れ、天皇の宮を包囲し焼いた。しかし去来穂別はすでに脱出しており、当麻径を通り大和に入った。」とあります。

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事の真相は分かりませんが、仲皇子(住吉仲皇子/すみのえのなかつみこ)が、去来穂別に対してグーデターを起こしたことは事実のようです。
この時、仲皇子に与したのが「阿曇連浜子」でした。
辛くも難を逃れた去来穂別は「瑞歯別」(みずはわけ/反正)に仲皇子の殺害を命じます。
瑞歯別によって仲皇子近習の隼人「刺領巾」(さしひれ)が寝返り、仲皇子は厠に入ったところを刺領巾に矛で討たれたと云う事です。

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仲皇子が討たれたのち、阿曇浜子は捕らえられます。
去来穂別は、大王即位後の4月に阿曇浜子を呼び出して、「彼の罪は死刑に値するが、恩を与えて、死を免じて墨(ひたいにきざむつみ)を与える」と、目の縁に入れ墨を入れさせ、死罪とはしませんでした。
しかし以後、安曇家は食膳に奉仕する伴造氏族としての地位を得るにとどまり、しばらく歴史から名を消すことになります。
そして推古女帝の時代あたりから再び名を轟かせ始めたのが安曇比羅夫だったのです。

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社務所に手ふりみくじなるものが掲げてありました。

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自分で振って出た番号のみくじをいただくシステムです。

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大吉でした。

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境内の御船会館では大きな2艘の山車の舟を見ることができます。

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毎年9月26日、27日に催される「御船祭り」は、武将・安曇比羅夫の追悼として始められた祭りであると云われていますが、この2艘の山車がぶつかり合う様はなんとも勇壮であるとのことです。

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また会館内、および境内では、たくさんの道祖神をみることができます。

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これら道祖神は、安曇地区で特によく見られます。

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道祖神信仰は、出雲王家の幸神信仰に端を発しています。

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つまり安曇地区は、安曇族が住み着く以前に、出雲族が定住していたということを示しています。

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諏訪神タケミナカタの痕跡が、ここにもありました。

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長野県は平成25年に日本一の長寿県に選ばれていて、境内にその記念の日本一大きなステンレス道祖神が建てられました。

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この手をさすってお参りすれば、家族の健康長寿が約束されるのだそうです。

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また「白松」と呼ばれる「三鈷の松」もありました。

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高野山のそれが有名ですが、普通二葉である松の葉が三葉あるというものです。
これを財布に入れておくと、金運が上がると云われています。

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境内の奥に杜に囲まれた池があります。

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そこは「嶺宮遥拝社」と書かれていました。

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奥穂高岳山頂に「嶺宮」を遥拝する場所です。
嶺宮参拝は、数日かけて登山する、上級登山コースにありますので、僕が参拝するのはちょっと無理そうです。

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また松本市の上高地再奥に「奥宮」があり、この世とは思えぬ絶景がそこにはあります。

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桓武天皇の792年にも「安曇宿禰継成が詔命を承けず、人臣の礼無しとして罰せられた」とあります。
この時も絞刑に処せられるべきところ特旨をもって死一等を減じられ、佐渡に配流されたとなっていますが、安曇族は大きく衰退の一途を辿っていきます。

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奈良時代の律令制度時代、藤原氏が大きく勢力を伸ばす中、他の有力氏族は政治の中枢から締め出され、蘇我氏・巨瀬氏、そして安曇氏ら古代氏族たちは衰退していきました。
そして藤原不比等が編纂に関わった『古事記』『日本書紀』の影響もあって、それら古代氏族の痕跡は偽られ、消され、現代には謎が深まるばかりとなっています。
穂高神社の神職は、古くは安曇氏だったと見られますが、中世には大伴氏が務め、のちには仁科氏に代わっていると云うことです。
泡と消えた安曇族の栄華、今はその末裔として、福岡志賀島の志賀海神社の宮司を「平澤憲子」さんが務めていらっしゃいます。
宮司の旧姓が「阿曇」なのだそうです。
平澤宮司は女性ならではの感性で、様々なイベントを志賀海神社で行われており、現代において注目を浴びている神社の一社となっております。
その志賀海神社に古来より伝わる「山誉め祭り」の神事の中で語られる、袮宜(ネギ)の言葉に、安曇族が我々日本人の礎に重要な役割を果たしていると窺えるものがありました。

「君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで

あれはや あれこそは我君のめしのみふねかや

志賀の浜長きを見れば幾世経ぬらん
香椎路に向いたるあの吹上の浜千代に八千代に

今宵夜半につき給う御船こそ、たが御船になりにける
あれはやあれこそや安曇の君のめしたまふ御船になりけるよ
いるかよいるか 潮早のいるか磯良が崎に 鯛釣るおきな」

神功皇后は三韓出兵の際、この神事を奉仕して「志賀島に打ち寄せる波が絶えるまで伝えよ」と賞賛されたと言い伝えられています。

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