筑摩神社・有明山神社・魏石鬼岩窟:八雲ニ散ル花 蝦夷ノ王篇04

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神護景雲末から宝亀年間(770年前後)、安曇平一帯で、民家や蔵から雑穀財宝が盗まれるという事件がおきた。
これは顔を色とりどりに塗った8人の首領「八面鬼士大王」を中心とした「鼠」(ねずみ)という盗賊団の仕業だった。
憂いた仁科和泉守は、等々力玄蕃亮の子、4代目「田村守宮」に討伐を依頼した。

延暦8年(789年)2月23日、田村守宮は東の山に火を焚かせ、討伐部隊を率いて夜半に八面大王一派のいる裏山に登り、翌24日、夜明けとともにほら貝を吹かせ、時の声をあげながら一気に山を下った。
寝起きを襲われた鼠の一団は驚いて四散したが、多くの者は逃げ切る事ができなかった。

「鬼どもよ、よく聞け。我は田村守宮、勅命に従い討伐に来た。お前たちは盗賊を働き、人々の家の蔵を打ち壊して財宝を盗んだ。その罪は重いが、これまで人命は奪ってはいない。速やかに降参するなら、命だけは助けよう。手向かえば、一人残らず殺すが、返答はいかに。」

するとしばらくして、盗賊団の長老が進み出て武器を捨て、両手を地面に付けた。

「貴君のご高名は承知しております。私はともかく、手下たちの命だけはお助け下さい。」

それから鼠の一団は全員が縄にかけられ、城に連行された。

盗賊団の処遇は合議によって、長老一人を死罪とし、残りは耳をそいだ後に追放することとなった。
しかし、村の被害者たちは嘆願し、長老の死罪はやめて8人の首領の両耳を削ぎ、手下達は片耳を削ぐということですまそうということになった。
ただ、被害者達の嘆願とは、長老たちを思いやってのものではなく、自分たちの手で恨みを晴らしたいということだった。

耳そぎの執行の日、田村守宮は罪状と判決を述べた後立ち去った。
役人が耳をそぎだすと、恨みある村人が我も我もと集まって、70人あまりの盗賊達全員の耳そぎが執行された。
そがれた耳は、血に染まった土砂とともに塚に埋められて、耳塚となった。

さらに8人の首領は、村人たちに山の方に連れて行かれ、

「これまでは公儀の裁きであったが、これから先は我らの恨み、天罰であると思い知れ」

首領達は掘った大穴に落とし込まれ、上から石積みにされて殺されたと云う。
故に、この場所を「八鬼山」(八景山/やけやま)と呼ばれるようになった。

~『仁科濫觴記』

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松本市筑摩に鎮座する「筑摩神社」(つかまじんじゃ)、当社は松本屈指のパワースポットと噂される神社です。

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その理由は、全国63万4000人の「松本さん」のルーツが、この筑摩神社だからというもの。

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かつては国府八幡宮(こくぶはちまんぐう)の一社に数えられた当社。

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国衙(こくが/役所群)を鎮護する社だったそうです。

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境内はさほど広くはありませんが、重厚な雰囲気に包まれています。

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なぜ当社が松本さんのルーツと云われているのかというと、初代松本氏と思われる「松本彦太郎」が城を築き、その後松本氏が地頭となり、国府八幡宮(筑摩神社)の神官も兼ねたというのがその理由だそうです。

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もっとも、僕の姓は松本ではありませんので、さほど興味もなく、当社を訪ねたのは別の理由からでした。

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筑摩神社の道を挟んだ先の境内の杜にも小社があります。

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一つは「五條天神社」。

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天照皇大神に、少彦名命と大己貴命を合祀したとあります。

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そこから目線を横に向けると、もう一つの小社と、その背後に丸い塚のようなものが見えます。

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「飯塚」と刻まれた石碑。
背後の塚には、八面大王の首が埋められていると伝えられています。

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『信府統記』(しんぷとうき)によると、征夷大将軍に任命された「坂上田村麻呂」が、この地を荒らし回っていた「魏石鬼」(ぎしき)と呼ばれる八面大王を退治するために石清水八幡宮に参籠し、この地に八幡宮を祀れば大願成就するとの神託を受けて建てたのが筑摩神社であると云います。
そして見事に八面大王を退治した田村麻呂は、彼が再び蘇らないように遺骸を切り刻み、それぞれの遺体を数カ所に埋めたのですが、その首が埋められたのが筑摩神社の境内であったと云う事です。

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勇壮な日本アルプスを望む長閑な田園地帯、安曇野市穂高耳塚にポツンと浮かび上がったように存在する杜があります。

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ここは地名にもなっている「耳塚」と呼ばれる場所です。

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社名は「大塚神社」となっていますが、八面大王らの耳を埋めた塚であると言い伝えられています。

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『信府統記』の内容は、坂上田村麻呂の年代に矛盾があったり、話の内容におとぎ話的な側面が多く見られることから、信ぴょう性に疑問が多いようです。
穂高神社の縁起では、光仁天皇のころ「義死鬼」という東夷が暴威を振るっていたのを、「田村(藤原)利仁」がこれを討ったと伝えています。

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信府統記に対し、冒頭にあげた『仁科濫觴記』(にしならんしょうき)の話は具体的で信憑性が高いとされています。
信府統記は仁科濫觴記の田村守宮と藤原利仁の話を合わせて、坂上田村麻呂の話に作り変えたと考えられていますが、

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何にせよ、ここに何某かの耳が埋められたということになるようです。

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信濃富士と呼ばれる有明山を御神体とする「有明山神社」を訪れました。

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と、境内駐車場前に雰囲気の良いお蕎麦屋さんがあったので、腹ごしらえ。

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信州と言えば蕎麦、と思い、張り切って大盛りにしました。
すると日本アルプスか!って盛りで出てきてびっくり。
普通盛りで十分腹を満たせます。
博多に比べてあっさりめのつゆ、安曇野と言えばわさびも香り豊かで美味しかったです。

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さて参拝します。

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とても重厚な雰囲気の神社です。

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山門(裕明門)は、日光東照宮の陽明門を模しているそうです。

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十二支や二十四孝の彫刻が全体に彫られています。

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それがどれも見事で、なかなか門から離れられません。

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二十四孝というのは、昔、中国で親孝行で有名だった24人の話のことで、そのうちの4つの話のシーンがここに掘られています。

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内部の格天井絵も見事で、首が痛くなるほど見上げていました。

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全てを紹介しているとキリがないので先へ進みます。

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狛犬も風格が滲みます。

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境内にある大きな「開運・招福の石」は、くぐると吉運になるそうです。

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立派な拝殿、

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祭神は「手力雄命」「八意思兼命」「大日貴命」などの他、多数の神が祀られています。

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実はこの有明山神社は、本来訪れる予定ではなかったのですが、次の目的地が当駐車場から歩いていかなければならず、ついでに立ち寄ったのでした。
しかし当社には坂上田村麻呂が大同2年(807年)に宝剣を献納して敬意を表していると伝えられていました。

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境内裏には雰囲気の良い滝もあり、つい大幅な道草になりました。

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さて、有明山神社から200mほど歩いたところに、目的地への入り口がありました。
「魏石鬼岩窟」(ぎしきのいわや)まで0.1kmとあります。

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0.1kmとはありますが、

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本当に道はあっているのか、なかなか目的地に着きません。

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鳥居の倒れた小社があり、

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目的の岩窟が見えてきました。

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岩窟の上には御堂が建っています。

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壁には、いくつもの仏様。

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この「魏石鬼岩窟」は八面大王が住んでいたと伝えられていますが、実際には古墳の横穴式石室であるとされています。

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石室は現在は立ち入り禁止になっていますが、ここに入ると祟りがあると地元では有名なのだそうです。

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ここが古墳であるとして、眠っているのはやはり八面大王なのでしょうか。
そして八面大王とは何者なのでしょうか。

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出典となった『信府統記』に読み仮名がないため、実は正式な読み方は不明であるそうです。
そこで「八面」=「やめ」と読み、八面大王を「八女の大王」(やめのおおきみ)であるとする説があるようです。
では八女の大王とは誰なのか。

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それは継体帝の御代に一大クーデターを引き起こした、かの「筑紫君磐井」(つくしのきみいわい)、その息子「葛子」が別名を「八女の大王」と言ったそうです。

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磐井が九州中を巻き込んで起こしたクーデターは「磐井の乱」と呼ばれています。
磐井は継体帝の命を受けた毛野臣の軍によって殺されたことになっていますが、『筑後国風土記』逸文には、「磐井は豊前国上毛野県に逃れ、山岳に単独で隠れてしまい見つからなかった」と書かれています。
磐井の子「葛子」は父の罪に連座となるのを恐れて、糟屋屯倉を捧げて、死罪をまぬがれました。

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葛子は逃れて、安曇平の当地にやってきたのでしょうか。
あるいは磐井本人が、生きて逃れてきたという可能性もあるかもしれません。
八面の文字を見た時、出雲族の聖数を思い浮かべましたが、磐井は出雲に心酔していた「大彦」の子孫だったそうです。
近い場所に大彦が眠るとされる「布制神社」もあります。
信濃は夢敗れた者を引きつける、特別な何かがある場所なのかもしれません。

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