長野県西部、飛騨山脈南部を流れる梓川上流に位置する「上高地」(かみこうち)を、早朝散策してきました。
美しく、清々しい風が吹く景勝地です。
人気の観光地である上高地は、春から秋にかけて、年間150万人もの人が訪れているそうです。
中部山岳国立公園の一部であり、国の特別名勝・特別天然記念物に指定されている上高地は、自然保護のために、年間を通してマイカー規制がかかっています。
通常、観光客は、沢渡(さわんど)か、平湯温泉からシャトルバスに乗って上高地を訪れることになります。
上高地ではバスの停留所が数カ所あります。
くまなく上高地を散策するのであれば、最初に止まる「大正池」で下車します。
帰りのバスは「上高地バスターミナル」から乗ることになるので、下から登っていくのが効率的でもあります。
細い道を降りていくと、すぐに大正池が見えてきます。
グリーンの美しい水面。
この美しい大正池は、大正4年(1915年)6月6日、焼岳の大爆発による土砂流によって梓川が堰き止められてできました。
当初、梓川湖・大正湖などと呼ばれていましたが、今は「大正池」の名で呼ばれています。
梓川を堰き止めた土砂は、少しずつ流出していて、それは今も続いています。
現在は大正池ができた当時の1割以下の規模になっているといいます。
つまり大正池は、そう遠くない未来に消滅してしまう可能性があるのです。
やがて失われる儚さがあるから、この池はかくも美しいのかもしれません。
次の目的地、「田代池」までは大正池の縁にある自然研究路を歩いて行きます。
表情豊かな水辺の植物たち。
アップダウンはほとんどなく、とても気持ち良く歩いて行けます。
カメラのファインダーを覗けば、
全ての場所が撮影スポットになり得ます。
再び河原に出ました。
立ち枯れた大木が印象的な場所です。
「かみこうち」の名称は本来「神垣内」と表記されたと云います。
神垣内とは、穂高神社の祭神・「穂高見命」(ほだかみのみこと)が穂高岳に降臨し、この地に祀られていることに由来します。
上高地の再奥部には、その絶景の聖地があるのです。
林道の気配が変わってきました。
光が差し込み、
道の上を水が流れています。
そして真っ赤に燃える湿原に出ました。
田代湿原です。
その奥にあるのが「田代池」。
この澄んだ浅い池にはイワナが泳ぎ、いくつかの小さな島が浮かんで見えます。
地下に湧泉があり冬でも全面結氷しない田代池ですが、ここも霞沢岳から流れ込む土砂によって、年々小さくなりつつあるということです。
田代池もいつか、無くなってしまうのかもしれません。
再び自然研究路を歩き出すと、思わぬ出会いがありました。
それもかなりの数、猿の軍団です。
早朝散策であたりに人影はありません。
さりげなく撮影しつつも、彼らを刺激しないように気をつけます。
が、
道の真ん中で踏ん反り返る奴と目が合ってしまいました。
めちゃくちゃ威嚇され、5分ほど、前に後ろに歯をむき出して纏わり付かれました。
いつ襲ってくるか、久々にヒヤヒヤした瞬間です。
無事、猿エリアを脱しました。
長野県産のカラマツとヒノキだけが使われた木製の田代橋・穂高橋を渡ります。
清らかな水が流れ、
素晴らしい景観を作り出しています。
川沿いの遊歩道に出ました。
10月初旬、
上高地は、秋の装いに入りかけたところです。
「ウエストン碑」というものがありました。
ウォルター・ウェストン(1861~1940)は、イギリス人宣教師で、ケンブリッジ大学卒業後、英国国教会から派遣されて27歳で初来日しました。
登山家として日本各地の名峰を制覇し、その記録を『日本アルプスの登山と探検』に著し世界に紹介しました。
上高地をこよなく愛し、日本近代登山の父と呼ばれました。
レリーフが埋め込まれた岩は、苔やシミで、どことなくハートの形になっていました。
白樺の並木道になりました。
時折巨木に目を奪われます。
大正池から3.5km、
70分ほど歩いてきました。
そこで前半の最終地点、「河童橋」に到達しました。
河童橋の名の由来は、昔ここに河童が棲みそうな深い淵があったとか、橋のなかった時代に着ていた衣類を頭にのせて川を渡った人々が河童に見えたから、など幾つかの説が伝えられています。
眼前の穂高連峰から流れ来る山の気を一時受けながら、その光景に見惚れていました。
上高地には素晴らしい景色が広がってますね(^^♪神垣内の事は知りませんでした(^^)/
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二度目の上高地でしたが、変わらず美しい景色の中で、ゆったりと時間を過ごしました。
人の少ない早朝散策が正解でした。
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