萬松院

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日本三大墓所、対馬宗家累代の菩提寺「萬松院」(ばんしょういん)を訪ねました。

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萬松院は対馬の中心地「厳原」(いずはら)にあり、アクセスも容易です。

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当院は度々の火災によって焼失しており、今の本堂は明治12年(1879年)の再建となります。
唯一、安土桃山式の山門と、そこに置かれた仁王像は焼失から免れたそうで、対馬最古の建物とされています。

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ところで日本三大墓所の残り二つは、金沢の「前田家墓所」と萩の「毛利家墓所」なのだそうです。

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萬松院は、元和元年(1615年)に対馬藩二代藩主「宗義成」が初代「義智」の菩提のために創立したもので、以降、歴代藩主や正室、側室などの墓が建てられ、宗家の菩提寺となりました。

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対馬藩は朝鮮国との外交に携わっており、朝鮮通信使の饗応役を担っていました。

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本堂内に掛かる皇室から下賜された扁額は、後水尾天皇の第三皇女、鏡の宮の書で、「萬松精舎」と書かれたもの。

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また堂内には朝鮮国王から贈られた三具足や、

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徳川将軍の大位牌が安置されていました。

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本堂を出て左手に進むと、宗家一族の墓所である御霊屋(おたまや)に続く参道があります。

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その参道、石燈篭が並んだ百雁木と呼ばれる132段の石段に、誰もが圧倒されます。

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この石段を上った所が御霊屋であり、宗家の巨大な墓がずらりと立ち並んでいるのですが、

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そこでは爽やかな風が木の葉を揺らし、ノスタルジックな雰囲気さえあります。
僕はこれほど心地よいと感じた墓地を、他に知りません。

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ところで「宗氏」って誰?

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宗氏というのは、元々太宰府の官人で、それが後に武士化したものだそうで、平氏一族の「平知盛」を祖とするとしています。
僕が宗氏に興味を持ったのは、これ、

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「アンゴルモア」♪
ポンコツ姫っぷりが可愛い「輝日姫」(てるひひめ)の父親が「宗資国(助国)」公であるという設定です。
ちなみに壇ノ浦で入水した安徳天皇は実は生き延びていて、その孫が輝日姫であるという設定にもなっています。

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漫画はさておき、惟宗氏が対馬守護・地頭の少弐氏の代官として次第に島の実権をにぎり、武士化する際に「宗」を名乗ったのが一族の始まりと云います。

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アンゴルモアにも描かれているように、元寇の際には、元や高麗の侵攻から日本の国境を守るために、当主宗助国が指揮して戦いを挑みますが、討ち死にしたと伝えられます。

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二度の元寇で、対馬国内は壮絶な戦場となったことでしょう。

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その状況を詳しく伝える物はほとんどないようですが、兵士以外の島民も、惨殺または奴隷にされ、地獄絵図のような状況だったと想像できます。

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島民は全滅したと伝える話もあるようですが、後も宗家の系統は続き、対馬国内に影響力を保ったと伝えられています。

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宗貞茂は倭寇を鎮圧し、息子の宗貞盛は朝鮮貿易を独占していきました。

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秀吉が朝鮮を侵略した際には、宗義智(よしとし)は朝鮮を支援していた明との講和交渉に奔走し、秀吉の過大な要求との板挟みになったと云います。

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以後も交易力を武器に、宗家は時代の荒海を乗り越え、明治維新まで断絶することなく続き、維新後華族となって、明治17年(1884年)には伯爵に叙せられました。

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当院は墓所でありながらも、爽やかな空気が流れており、墓に眠る魂も既に成仏しているかのようでした。

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