御頭御社宮司総社(ミシャグチ社):八雲ニ散ル花 蝦夷ノ王篇08

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桓武帝の御代、奥州に悪事の高丸という朝敵がいて、人々を苦しめていた。
帝は田村丸に将軍として高丸を征伐するよう命じた。
田村丸は清水寺の千手観音に願掛けをし、その七日目の夜半にお告げを受けた。

「鞍馬の毘沙門は我が眷属である。この天王に願え。奥州に向う時は山道寄りに下るようにせよ。そうすれば兵を付き副わせよう」

田村丸将軍は鞍馬に参詣すると「堅貪」という三尺五寸の剣を授かった。
お告げに従い山道寄りに奥州へ向うと、信濃国伊那郡で、梶の葉の水干に萌黄縅の鎧、藍摺の水干に黒糸縅の鎧の二武者に出会った。

高丸の居城戦で田村丸将軍は苦戦したが、そこへ二武者が駆けつけ、助勢した。
田村丸が海上の船から誘いをかけると、 それを見た高丸の左目を梶葉水干の武者が見事射抜く。
その時、田村丸が抜いたが堅貪の剣は、高丸に切り掛かりその首を切り落とした。
その後は城内に乱入し、高丸の八人の子供もついに討ち取った。

凱旋の途上、信濃国伊那郡に着いた時、梶葉水干の武者が話した。

「我は諏訪の明神である。清水観音の計らいにより将軍に随行した。我は狩猟を好むので、狩の祭を望む」

「なぜ菩薩でありながら殺生を好むのか」

田村丸が問うと、明神は

「我は殺生を生業とするものに利益を施し、畜生は神前の贄とする事で成仏が叶う」

と答えた。
田村丸は諏訪の地を明神に寄進し、秋山の祭りとして深山の狩を始めた。
その縁日は悪事の高丸を亡ぼした七月二十七日である。

その後、藍摺水干の武者も「我は王城守護の住吉大明神である」と云って姿を消した。

・・・

さて、諏訪大明神は高丸の十六歳の娘を捕らえていたが、やがて娘は身篭り、一人の王子を産んだ。

「我には姿がない。我の代わりにこの子に”神”の氏を与え祝となす。」

これが、大祝の始めであると云う。

『神道集』第十七 信濃鎮守諏訪大明神秋山祭事

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茅野市宮川、諏訪大社上社の本宮と前宮のちょうど中間あたりに、神長官「守矢史料館」があります。

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ここに「大祝」(おおほうり)と神長官たる「守矢氏」の関係の秘密があるように思われます。

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タケミナカタが諏訪盆地にやって来た時、先住の民族「洩矢族」が抵抗し、争いになったと云います。
しかし言葉による説得で領地を広げることに長けた出雲族出身のタケミナカタは、やはり洩矢神(王)も説得し、彼らを重用することで共に諏訪に王国を築くことを了承させたと思われます。
そうして洩矢の子孫「守矢氏」は、諏訪において祭祀を司る豪族として勢力を高めていきました。

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ある時、一人の子供が生き神「大祝」として出現します。
その子はタケミナカタの子孫として「神」(みわ)の姓を賜り、やがて「諏訪氏」となっていきます。
そして大祝に神を降ろしたり上げたり、祭祀の一切を司る神長官として守矢氏が就任するのです。

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冒頭の『神道集』に語られる田村丸は「坂上田村麻呂」をモデルとしていることがその内容から知れます。
そして悪事の高丸とは蝦夷の「阿弖流為」(アテルイ)がモデルだと云います。
とするなら、初代大祝といわれる「有員」(ありかず)はアテルイの孫だと云うことになるのでしょうか。
「神氏系図」によると有員はタケミナカタの末裔と記されており、また他に桓武天皇の皇子とする説もささやかれています。

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有員は8歳の時に大祝に任命されました。
『諏訪大明神絵詞』には「祝は神明の垂迹の初、御衣を八歳の童男にぬぎきせ給ひて、大祝と称し、我において躰なし、祝を以て躰とすと神勅ありけり。是則御衣祝有員神氏の祖なり」と記されています。

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中門を過ぎたところにある奇抜な建物が守矢資料館です。
大祝になるのは、神・諏訪氏の子孫とされる8歳の男児が選ばれました。
この男児は即位式に先立って22日間、厳重な潔斎をおこなわなければなりませんでした。
それが終ると、「柊の宮」とか「楓の宮」と呼ばれる「鶏冠社」に赴き、神が降りるという大きな石の上に立ち、神長官が男児に山鳩色の装束をつけさせ、秘法を行います。
これにより男児は諏訪神の御正躰とみなされ、大祝の即位の式を終えるのです。
当然、男児の身に降ろされた神はタケミナカタであろうと思われましたが、実は違いました。
大祝に降ろされた神は洩矢の神「ミシャグチ神」だったのです。

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守矢資料館の先、小高い丘の上に「御頭御社宮司総社」(おとうみしゃぐちそうしゃ)と呼ばれる社が建っています。
諏訪各地に残るミシャグチ神を祀る社の総社とされます。

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あまり聞きなれない「ミシャグチ神」とはどのような神なのか。

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「ミシャグチ」の語源は「シャクジン・石神」であると考えられていて、樹や笹や石を通して生神大祝に降りてくる精霊のことだと云います。

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ミシャグチ神は「御作神」「御左口神」「御社宮神」「御社宮司」「御射軍神」「佐久神」「石神」「尺神」 「赤口」「裂口」、そして「洩矢神」などと表記され、その呼び方も「ミシャグジ」であったり、「ミサグジ」「サングージン」 「シャクジン」「オサモジン」などと呼ばれる場合もあるそうです。
ミシャグチは穢れた者を祟る「祟り神」としての一面もあり、その祟りは一族、家に飼う犬鳥にまで下るとされてきました。

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大祝は生き神・現人神であり、御神体そのものでした。
位はもちろん神長官より上でありますが、実際は神長官の傀儡だったと言えます。
ミシャグチを降ろされたり上げられたり、時には神が憑依しやすいように餓死寸前まで食事を制限されたようです。

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タケミナカタの血統であるという肉体を利用され、その身にはミシャグチを降ろされる。
幼い大祝を良いように利用し土着の祖神をまんまと祀り上げたのが神長官守矢氏ということになるのでしょうか。

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御頭御社宮司総社の先には大祝・諏訪家の墓所があります。

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ここは本来は神長官の廟所でしたが、諏訪氏にこの墓地が求められ、守矢氏は熊野堂と呼ばれる村の共同墓地へ移ったと云います。
これについて面白い説を「八ヶ岳原人」氏がそのサイトで解説されています。

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上社本宮の拝殿を参拝すると、その奥には「神居」と呼ばれる杜があるのですが、更にその先にはこの墓地に行き着くのだそうです。
つまり諏訪明神タケミナカタを拝したつもりが、神長官の先祖も同時に拝するシステムを造り上げていたということです。
しかも更にその先にはミシャグチの祭祀を行っていたと思われる前宮もあるのです。

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しかしある時、なんらかの権力が働き、当地を諏訪家に譲ることになりました。
ここに大祝の意趣を返すことができたのです。

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大祝の墓地を抜け出し、坂道を歩いていると、何かありました。

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まるでジブリに出て来そうな奇想天外な建物、「藤森照信」氏作の茶室「空飛ぶ泥舟」です。

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またアメリカのTIME誌で「世界でもっとも危険な建物トップ10」に選ばれた茶室「高過庵」もあります。

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氏の生まれは茅野市で、高校まで諏訪で過ごされたそうです。
建築家・建築史家であり、2010年までは東京大学の教授でした。
先ほどあった守矢史料館も、藤森照信氏のデビュー作だということです。

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さて冒頭の神道集の内容ですが、坂上田村麻呂に協力した「諏訪大明神」は狩を好むので狩の祭を行うよう強いています。
諏訪大社上社にある狩の神事に「蛙狩」と「御射山祭」があります。
蛙狩は名の通り、神官が蛙を捕らえ射殺し、神前に捧げるものです。
蛙は蛇の好物でもあることから、龍神(蛇神)信仰を持つタケミナカタに、洩矢神が忠誠の贄を捧げる儀式と見ることができます。
しかしそれが狩の祭りかと言われれば、いささか弱い気がします。

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それに対し御射山祭は、諏訪明神の御狩場と伝えられる八ヶ岳西南麓「神野」と呼ばれる原野で実際に狩が行われ、その首が前宮に捧げられたと云います。
また「御頭祭」という同じく狩の祭りでは捧げられた鹿・猪の首の数は、実に75首だったとか。
その首が捧げられた場所というのが本宮ではなく、前宮だったということがポイントでもあり、その祭祀はタケミナカタに対するものではなく、ミシャグチ神に対するものであったと云うことです。
この壮絶な狩が行われた山を御射山と呼んだことから、洩矢神をミシャグチと呼ぶようになったのではないでしょうか。

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とするなら、諏訪大明神とはミシャグチ神を表しているのではないかという疑惑が湧きます。
蝦夷の王アテルイを示す悪事の高丸は、『諏訪大明神絵詞』では、「安倍高丸」と称されているそうです。
するとアテルイ=高丸は「大彦」(長髄彦)の子孫であると言えるのかも知れません。
ひいては初代大祝「有員」は、タケミナカタの血族ではなく、大彦のそれだったと。

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蘇竜聖園』の紫竜氏は、有員について、蝦夷討伐の命を受けた桓武朝の大将軍「坂上田村麻呂」が、諏訪一族の血を引く少年を連れて来て、当時諏訪で力を持っていた「金刺氏」や「守矢氏」を納得させるために、桓武天皇の皇子と偽って上社の最高職に就けたのではないか、という可能性を説いておられます。
田村麻呂は蝦夷のカリスマ、アテルイの攻略において、蝦夷に農業技術や仏教を伝え、彼ら東北人を懐柔する戦略で臨み、結果、精神的にアテルイを追い込んで行くことになりました。
なので田村麻呂が大彦の子孫を見つけ、「神氏」(みわし)と称させ大祝とすることで、先住族「守矢氏」と下社の「金刺氏」を懐柔しようとしたという可能性は高いように思いました。

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こうして上社の大祝は、代々神氏・諏訪族の8歳の男児から選ばれるようになり、15歳頃に退位するまで、その厳しいしきたりの中で暮らすことになります。
上社大祝は諏訪郡の外には出てはならないという禁制もあり、それが古事記にタケミナカタの命乞いとして記されるようになったのかと思われます。
神長官・守矢氏はミシャグチ神を扱うことができる唯一の人物とされ、一子相伝にて信仰と政治の一体化した諏訪祭政の主体を担い続けました。
しかし明治5年、神官の世襲制が廃止され神長官の職も抹消、その栄華は「76代」を最後に幕を降ろすことになったのです。

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ところでタケミナカタの血族の存在はどうなってしまったのでしょうか。
御頭御社宮司総社の丘をずっと登っていった先に、タケミナカタの父親、事代主を祀る蛭子社がありました。

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諏訪に王国を築いたタケミナカタでしたが、元来人の良い性格の出雲族ですから、アクの強い先住族、後から入国して来た後入族に圧され、その存在は希薄なものとなってしまったのではないでしょうか。
ただ、決して血が途絶えたのではなく、他族との婚姻により混血していったと。

諏訪氏が受け継いだ大祝も、当社が明治維新で国家管理されるとともに、大祝の世襲制は廃止されました。
つまり、宮司は中央から任命され、大祝は神事に関わることができなくなりました。
そして「生き神」と称された大祝は、平成14年9月1日、「諏方弘」氏がお亡くなりになったことで、ついに断絶してしまったと云うことです。
少子化・後継問題が頻発する昨今、ここにも貴重な日本の血統が途絶えたことになります。

なだらかな丘を下っていると、初代大祝有員も眺めたであろう、諏訪平野の景色が広がっていました。

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