諏訪大社 下社春宮・秋宮:八雲ニ散ル花 蝦夷ノ王篇10

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「うむ、いつ見ても、なんと美しいことよ」

タケミナカタは北側から諏訪湖を見下ろす、この小高い山の景色がお気に入りだった。
その先には霊峰富士の、末広がりの姿がことさら美しく見れた。

「ここは威風ある山々に囲まれているというのに、あなたはあの遠山をいたくお気に入りですね」

傍にいるタケミナカタの妻、八坂刀売が言う。

「うむ、あの山は出雲にある大山に似ておる。ここから眺める景色は、子どもの頃美保の浦からよく見た、懐かしい景色にそっくりよ」

髪に白いものが混じり始めた夫の、子供っぽい瞳の輝きに、妻は優しく微笑む。

「あなたの国へ、移住を希望する者が増えてきたと伺いました」

タケミナカタが出雲と越の民を引き連れて諏訪入りして数年、先住の洩矢族とともに湖畔の土地を開拓してきた。
彼は先住民に稲作を伝え、山から採れる砂鉄から鉄を作る技術を伝えた。
辺境の地でありながら、理想郷と呼べる国が出来つつあると言う噂が、各地に伝わった。

「西には大和という国が、クシヒカタらの尽力で造られた。私は諏訪に、誰もが幸せに暮らせる大国を造り上げたいのだ。
移住を望む者は広く受け入れよう。例えば戦に負け逃げてくる者にも、安らぐ場所を与えられるような国になると良い」

「それではこの諏訪から人が溢れてしまいませぬか」

「なに、信濃の山々は懐が深い。何人にも十分な恵みを与えてくださる。それにいつかは私の子孫もさらに領地を増やし、やがてあの霊峰の麓にまで及ぶようになろう。それを思うと楽しみである」

屈託無く話す夫の姿を見つめ、八坂刀売はこの男がことさら愛しく思えた。
タケミナカタは身を寄せる妻の肩をそっと抱き促した。

「さあ、山を降りよう。下ではお主も楽しみの祭りの準備も整っておる頃よ」

二人が進む先の麓からは、春秋の祭りの音が響き始めていた。

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諏訪大社・下社秋宮へやってきました。

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境内の脇には「八幡社」と

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「恵比寿社」があります。
ことさら立派な社殿の恵比寿社がここにある重要性は、古事記・日本書紀しか知らない人にはわからない事でしょう。

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鳥居の先の参道は、背の高い木に囲まれて、天に吸い上げられるようです。

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参道に立つ御神木。
「根入杉」と呼ばれます。

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神楽殿に掛かる立派なしめ縄は、いかにも出雲的。

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神楽殿の裏には、4本の御柱に囲まれて、

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威風溢れる幣殿と宝殿が鎮座します。

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決して広い境内とは言えませんが、そこにある社殿の雅さに崇敬の念を抱かずにはおれません。
上社とはまた違った神気を感じます。

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下社の祭神は「建御名方神」(たけみなかたのかみ)、「八坂刀売神」(やさかとめのかみ)、「八重事代主神」(やえことしろぬしのかみ)。
上社が建御名方を主祭神とするのに対し、下社は八坂刀売を主祭神としています。

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東出雲王家「富家」の子孫、つまり事代主の直系の子孫ということになりますが、その「斎木 雲州」氏は彼の著書において、諏訪に移住したタケミナカタについては多くを述べていません。

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タケミナカタは父、事代主が渡来人によって殺害されたのち、母の沼川姫に付き添い、多数の出雲人を率いて母の実家である越国に移住します。
沼川姫は越国で亡くなりますが、彼はその後、中部地方に新しい国を建設しようと思い立ちました。

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タケミナカタは大勢の家来を集め、姫川を逆上って上田の下之郷にしばらく滞在します。
そこで、幸神(さいのかみ)を祀ったのが「生島足島神社」であると云われています。

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さらにタケミナカタらは足を伸ばし、古代に黒曜石の産地であった和田峠をこえて諏訪盆地に進出、その地に諏訪王国を造ったとあります。
氏は、その時以来、タケミナカタの子孫は江戸時代まで、この地の豪族として栄えたと記してあります。

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しかし僕は上社を訪れた当初、出雲を思わせる痕跡が希薄というか、全く出雲らしさを感じない空気に戸惑ったものです。

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下社に至り、その戸惑いは安堵に変わりました。
ここ、下社にこそ、出雲の匂いを感じています。

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農耕民族であった出雲族は、春分大祭と秋分大祭を重んじました。
諏訪大社下社の春宮と秋宮では、その季節ごとに祭神が宮を移動し、春祭りと秋祭りで祭りの場所も移動します。
この時、幸神の久那斗の夫婦神が、舟形の山車に載せられて遷宮するそうです。

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タケミナカタは諏訪開拓において、下社のあたりを自分たちの拠点とし、春秋の祭りを伝えたのではないでしょうか。
そして先住の洩矢族のために、彼らが古来から聖地とした上社の場所を、そのまま譲ったと考えられるのです。

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下社がある辺りは農耕地として栄え、後に城下町になったと云われています。

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下社秋宮から約1km、春宮へやってきました。

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鳥居をくぐる前に、車道を少し下ります。
そこにある古い橋、「下馬橋」。

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このあたりの道はかつて春宮の専用道路で、下社の大祝「金刺家」を始め多くの武士達が流鏑馬を競った馬場でした。
この下馬橋は室町時代の建立で、1730年代の元文年間に修築されましたが、下社では最も古い建物で、今も遷座祭の折に神輿がこの橋を渡るそうです。

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春宮と秋宮は社殿の形式は同じで、古くは秋宮・春宮間で建築の技が競われたと云います。
春宮を訪れた時は雨が降っていたこともあるのでしょうが、秋宮に比べてよりしっとりとした雰囲気を感じました。

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神楽殿にはやはり、出雲的などっしりとしたしめ縄が掛かっています。

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境内には「結びの杉」を始め、4本の御柱に囲まれた社殿が建っています。

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下社では2月~7月に春宮に、8月~翌1月に秋宮に祭神が移動します。

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王国時代の出雲では、春分・秋分の山から直射す朝日は特に神聖とされ、その日は季節を知る大切な日として都で大祭が行われました。
その祭りには陸奥国津軽から筑前国宗像に及ぶ各地から代表が集い、首長らの会合が催されたと云います。
そして美しい末広がりの「大山」に昇る太陽を、松江市の大庭「霊時」から皆で拝みました。

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その出雲の春秋の祭りの概念を、タケミナカタが新天地において残したものが、下社の春宮と秋宮の存在なのだと思われます。

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ところで、下社で大祝と神主を務めたとされるのは「金刺・金刺部氏」(かなさしべし)です。
では金刺氏はタケミナカタの子孫なのか、というと、そう簡単な話ではありません。

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阿蘇氏とのつながりのところで述べましたが、初期の大和王朝の3代大王「玉手看」(安寧帝)の兄「神八井耳命」の5世の孫「健磐龍」(タケイオタツ)に二人の息子がいました。
その一人「速瓶玉」が阿蘇氏の祖となり、「建稲背命」(タケイナセ)が金刺氏の祖となったと云うことです。

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建稲背の七世孫が「金弓君」であり、その子孫が諏訪大社下社の大祝「金刺氏」であると云われています。
また建磐龍の父「敷桁彦」(シキタナヒコ)は河内国を拠点とする「多氏」出身だったということです。
つまり金刺氏は神八井耳の子孫「多」一族が諏訪入りして、タケミナカタの子孫と血縁を結び、下社の地で権力を得たものと思われます。

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金刺氏は鎌倉期に木曽義仲に与し、武力を蓄え武士化していきました。
やがて平安時代の後期、「神家」(みわけ・諏訪家)が上社の大祝に就くと、それに対抗して下社の神主大祝はは「金刺家」であると、一族を主張し始めます。

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宝治2年(1248年)、諏訪上社と下社、どちらが本宮であるかという、両氏の争いが生じました。
しかしこの時、諏訪氏は、鎌倉幕府の得宗家御内人であり、且つ重臣であったため、裁定は上社有利に下されました。

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その後は戦国動乱の時代に両氏も翻弄され、上社と下社で武力を伴う抗争も度々起きています。

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かくして、代々下社大祝職を継いできた金刺氏でしたが、戦国時代末期に至り、ついに断絶となります。
以後は、支族の今井氏が「武居祝」と称し、祭祀を継承しました。

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さて、こじんまりとした境内を散策していると、

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タケミナカタの母「沼川姫」を祀る子安社と、

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「筒粥神事」が行われるの筒粥殿がありました。
筒粥神事とは1月14日の夜から1月15日の明け方にかけて行われ、葦筒を釜で一晩かけて炊き上げ、筒の中の状態でその年の農作物の収穫などを占う神事です。

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今は一つの諏訪大社として仲の良い(?)四宮の御朱印を全て受けると、記念に御神供と竹製のしおりが頂けました。

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諏訪湖の北側、塩尻市片丘に「高ボッチ高原」という、小高い山の上の高原があります。
そこからの景色が絶景であるというので、早朝、訪ねてみました。

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ススキが穂を揺らす高台からは、眼下に諏訪湖を見ることができます。
そしてその先には、富士山。

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日本屈指の高山「日本アルプス」が取り巻く諏訪において、その方向だけが谷となり、遠く富士山が姿を顕します。

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諏訪大社下社の地に、タケミナカタが拠点を置いたと、ここに至り僕は確信します。

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ここから望む富士山の景色は、タケミナカタが幼少期に過ごした、美保関から望む大山の景色となんと近似していることか。
往古には諏訪湖の湖面は諏訪平野一帯にまで上昇していたといいますから、その景色はさらに似ていたことでしょう。

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諏訪湖に流入する川沿いにある茅野市は、かつて沼沢地であり、沼生植物が繁茂していたそうです。
その植物の根の回りには、バクテリヤの働きによって、水中に溶けている鉄分が固まって吸着し、「鈴」(褐鉄鉱)と呼ばれる鉱物として採取されていたと云います。
その鈴には鉄分が50%ほど含まれていました。
諏訪先住の人々は、これを熔解して、鉄を造っていました。
そこに出雲から来たタケミナカタは、山から砂鉄を採取し、露天タタラで鉄を造りました。
山砂鉄から造られる鉄は良質で資源の枯渇の心配もありません。
タケミナカタの率いる集団が、砂鉄からの製鉄により多くの鉄を人々に与え、信州国を支配し、一大王国を築いていったことは、容易に想像できます。
やがてタケミナカタの子孫は、甲斐国を通り、富士川を下って駿河湾に出て、さらに伊豆に至った可能性が示唆されます。
そう、よりあの霊峰に近い場所を求めて。

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信州に来て、タケミナカタの痕跡を求めるも、多くの部族に埋もれて思わぬ迷宮に入り込んだ今回の旅でしたが、諏訪に造詣深く調査くださった「八ヶ岳原人氏」「紫竜氏」や、他サイト様の情報を参考にさせていただくことによって、なんとか僕なりの着地点を得ることができました。

懐の深い信州は大彦勢や安曇族、多氏の一族らを迎え入れてきました。
そして力をつける守矢家や金刺家に、タケミナカタの子孫は埋もれていったように思われます。
しかし守矢家や金刺家、他の豪族家が歴史の中で断絶していく中、タケミナカタの開拓精神は、確かに今も残り続けています。
彼のDNAはこの美しい景色の中で、今も理想を夢見て猛っているのです。

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2件のコメント 追加

  1. さいとう よしみ より:

    こんばんは。冒頭の会話に、『ほっ』としております。
    さらに、とても美しい富士山の画像。生きると言うこと。自分の一族が、ともにまわりに待って寄り添ってくれると言うこと。自分たちを偲び祀ってくれる人たちや、探し求めてくれる人たちがいると言うこと。

    なんと、幸せな、羨ましく凄い生き方だな・・・。と感じました。私事ですが、美保の浦と大山を背景にした恵比寿様の切り絵作品、本日、仕上がりできました。なんか不思議な一致?こんなこともあるのかな?。すいません、そんな思いも、空想?妄想?ですが、あります。
    今日のおわりに、『蝦夷の王篇10』ブログも拝見でき幸運でした。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      こんにちは、さいとう様。
      いつもこめんとありがとうございます。
      僕も励まされております!

      全く不思議な一致、ですね。
      昨日僕は、美保神社の諸手船神事を見てきました。
      勇壮で素晴らしい祭りです。
      私たちの国は、豊かな自然と偉大な祖先を、畏怖と崇敬の念をもって祀ることで育まれ、今に至っています。
      そのことを、この「八雲ニ散ル花」シリーズを書きまとめるにあたって、深く認識することができました。
      日本人とは何か、を知ることができて、僕も幸せです。

      切り絵、とても興味が湧きますね。
      機会があれば、写真を見せていただけると嬉しいです♪

      いいね

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