北野天満宮

投稿日:

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福岡に住む僕にとって、天満宮といえば太宰府以外の何物でもないのですが、やはり日本三大天神は外すことはできないと、京都の「北野天満宮」を訪ねてみました。

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境内に入ってすぐに「影向松」(ようごうのまつ)という枝ぶりの見事な松があります。
当宮の創建からこの地にあると伝わる御神木で、立冬から立春前日までに初雪が降ると天神さまが降臨され、雪見を愛でながら詩を詠まれるという伝説があるそうです。

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弧を描くようにカーブした参道を歩きます。

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二ノ鳥居、

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三ノ鳥居をすぎると楼門が見えてきます。

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楼門手前に道真公の母君を祀る「伴氏社」があります。
この鳥居は京の三珍鳥居と呼ばれているそうです。

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境内には神使の「牛」の像が至るところにあります。

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菅公は承和12年(845年)の丑年に生まれたと云います。
貞観元年2月乙丑の日に元服しますが、その夜、白牛が角をくじいて死ぬ悪夢を見て、たいそう気にして自ら牛を画き、 酒を供えて尊拝したそうです。
寛平5年、癸丑の9月、公は北山に茸狩りの宴を催しますが、どこからともなく小牛が現れ、頭を垂れていかにも公を敬うがごとく寄り添ってくるので連れて帰り、可愛がりました。

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菅公が太宰府に左遷になり、道明寺からこもやの里まで向かう途中、時平の命を受けた笠原宿禰が後を追って切りかかろうとしました。
危ういその時、松原の中から荒れ狂った白牛が飛び出て、宿禰の腹を突き刺し、菅公は危機を逃れます。
よく見ると公が都でご愛育した、例の牛でした。
公は「都にて流罪極る前夜、不思議に逃げ去って姿を隠し、度々に凶非を告げ、今また此の危難を助けし忠義の牛、筑紫まで伴わん」と涙を流し、それから牛の背に乗って、御心安らかに旅立たれたと云います。
太宰府の地に着いてからはひたすらに謹慎の意を表していましたが、延喜3年(903年)2月25日の丑の日に薨去しました。
このような所以で、天満宮では牛が道真公の神使として扱われています。

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目に鮮やかな青松の先に楼門があります。

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菅原道真は忠臣として名高く、文学にも優れていましたので、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで出世しました。
しかしそれを妬んだ時の左大臣・藤原時平に讒訴され、太宰府へ左遷となります。
延喜3年(903年)、菅原道真が無実の罪で配流された太宰府で没した後、都では落雷などの災害が相次ぎました。
これが道真の祟りだとする噂が広まり、当時の御霊信仰と結びついて都中でとても恐れられます。

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没後20年目に当たる年、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈りました。
天慶5年(942年)、右京七条に住む「多治比文子」(たじひのあやこ)という若き巫女に「北野に社殿を造り自分を祀るように」と託宣があります。
5年後にも近江国の神官の幼児である太郎丸に同様の託宣がありました。

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道真の霊を鎮めるため、文子は当初、自宅の庭に瑞垣を造り祀っていましたが、北野の朝日寺の僧「最鎮」に相談し、天暦元年(947年)6月9日に現在の地に祀るようになったとされています。
後に「藤原師輔」(時平の甥で、父の忠平が菅原氏と縁戚であったと云われる)が自分の屋敷の建物を寄贈して、壮大な社殿に作り直されたと云います。

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永延元年(987年)に初めて勅祭が行われ、一条天皇から「北野天満宮天神」の称が贈られます。
正暦4年(993年)には正一位・右大臣・太政大臣が追贈され、以降も朝廷から厚い崇敬を受け、以来、北野天満宮は幕末の神仏分離令まで三院家(松梅院など)の社僧が、代々神官を務めたそうです。

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中世になっても菅原氏・藤原氏のみならず足利将軍家などからも崇敬を受けましたが、天正15年(1587年)10月1日に境内において催された、豊臣秀吉による「北野大茶湯」は有名です。

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「三光門」(中門)が見えます。

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三光門には見事な彫刻が数多く施されていますが、三光を示す太陽と月の彫刻はあるものの、星のそれはどこにも見当たらないと云います。
それは平安時代、帝が当宮に向かってお祈りをされる際、三光門の真上に北極星が輝いていたからだと言い伝えられているそうです。

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「拝殿」です。
残念ながら、右側が工事中です。

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左にある樹は飛梅かと思いきや、桜だそうです。

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厳粛さ漂う拝殿。

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現存の拝殿と本殿などの社殿は、慶長12年(1607年)豊臣秀吉の遺命に基づき豊臣秀頼が片桐且元を奉行として造営したものだそうです。
拝殿は国宝に指定されています。

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本殿と拝殿は「石の間」で繋がっており、

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「八棟造」とよばれているようで、桃山建築の代表とされています。

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本殿と石の間も国宝です。

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本殿の裏に回ります。

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北野天満宮の本殿は、背面にも「御后三柱」(ごこうのみはしら)という御神座をもっています。

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道真公の御神座と背中合わせの形で北向き祀られているのは、道真公の先祖とされる「天穂日」、祖父の「菅原清公卿」、父の「菅原是善卿」の三柱です。
菅原道真の出生の由来は様々な説がありますが、出雲王家の血筋であるとも噂されます。
穂日は出雲王家を乗っ取った嫌疑がありますので、公の先祖が穂日というのはちょっと頷けません。

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境内には様々な摂社・末社があり、

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見所もたくさんありますが、

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本殿の裏手、北門を入ったところの門の傍に、北野天満宮の末社「文子天満宮」が建っています。

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菅原道真を祭神として北野天満宮を創建するきっかけになった巫女、多治比文子を祀っています。

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当初は西の京に祀られていたそうですが、明治6年(1873年)この道真公の側に遷宮したそうです。

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人から神になった稀人の聖地が、ここにありました。

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2件のコメント 追加

  1. たぬき より:

    菅原道真公のルーツは野見宿禰(=出雲東の元王家/亡国の当主、富(トビ)彦)との説を採ります。
    いわゆる、祟る大物主/事代主神=八重波津身の直系の子孫。
    野見宿禰(出雲国元王家当主の富彦(出雲王国を滅亡させたイクメ王の要請に(やむを得ず)応じて奈良盆地から田島守らの但馬勢や豊国勢を排除した後、出雲への帰途、播磨で暗殺される()))
    の末裔?が関東(武蔵野)に入って開発した云々。

    牛のウシは大人(ウシ/偉大な方の尊称)の事ではないか?
    また、角がある。「ツヌ(ツノ、ツミ、)」は出雲神(カモ)族らの名前に良く付与される称号?名称かと思います?

    北野などの京都市北部は出雲人らがしこたま居たと言われています。

    という事などを勘案すると、血筋から出雲族らの離反と、先祖と絡み祟りを恐れた。
    因みに、天満天神こと菅原道真公が有名に成る以前には
    単に天神さま。と言うとき、それは手間天神、少彦名神(=八重波津身命=事代主神/大物主神。)を指していました。
    我々の地元淡路島には字に天神。の地名があり、淡島明神/少名彦神をまつる式内社の志筑(シヅキ)神社が御鎮座なさりまして、
    地名(郷名)の志筑の由来と考えます。
    因みに、あの静御前の一族の領地で、静御前の墓(供養塚?)があります。
    「シヅ」は少名彦神に掛かる名称/暗号。
    何となれば、少名彦 八重波津身命が無念の落命をしたのが粟島のシヅの岩屋(洞窟)

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      太宰府天満宮の宝物館に立ち寄った時、菅原道真の略系図が展示してありましたが、それにも道真の祖先は野見宿禰と記してありました。
      このことは一般常識として認知されているのでしょうか。
      ただ、野見宿禰の祖先として天穂日も記されていましたので、その部分だけは眉をひそめてしまいました。

      牛は大人・ツヌを表しているとは、面白い解釈ですね。
      確かに京都北部は上賀茂・下鴨両社をはじめ、出雲人が移住した痕跡が残っています。
      天神がもとは事代主を指していたこと、粟島の静の岩屋が静御前に繋がることなど、これまた貴重な情報ありがとうございます!
      すごく興奮する話です。
      点だった情報が線で結びつき、大きな流れが見えてくる瞬間は、いつも興奮しますね。
      今、5月ごろに淡路島旅を検討中です。
      僕の旅は基本1泊2日ですので、2,3回に分けて行くことになるかもしれません。
      楽しみです!

      いいね

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