太宰府天満宮・天神伝 / 地

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たまたま訪れた「太宰府天満宮」。
最近は、侘びた風情よりも、異国語飛び交う国際観光地としての様相が印象的な当社ですが、この日は違った騒々しさがありました。

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慌ただしく走る神職と巫女さん。

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何事か?と足を向けると、境内から白煙が立ち昇っているではありませんか!

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か、火事だ~っ!!

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神職の方々が勇ましく、消火活動に勤しみます。
そう、これは防災訓練の模様。
背後の建物では、太宰府幼稚園の園児たちも応援しています。

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楼門前では水のカーテンが降り注ぎます。

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これには道真さんも、にんまり微笑んでおられることでしょう。

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ところで今、太宰府天満宮楼門横の宝物殿では、灰原薬氏が描くコミック「応天の門」の画展が開かれていました。

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帝の女にも手を出す、平安きっての色男「在原業平」(ありわらのなりひら)と、奇異な縁でペアを組むことになる若き秀才「菅原道真」が、都で起こる妖しげな事件を解決していくというストーリー。

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登場する女性たちも美しく、絵も綺麗で話にも深みがあり、楽しく読ませていただいているコミックの一つです。

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在原業平と菅原道真、確かに同時代の人ではありますが、果たして交流はあったのか、全くのフィクションなのか。

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『長岡天満宮略縁起』によれば、二人は親交が深く、当時遊女(あそびめ)を求めてたびたび遊び歩いた旨の記載があるようです。

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ただ他に歴史的根拠となる資料は無く、そのようなことがあったかもしれませんね、程度にとどめておいた方が良さそうです。
作中にある「紀長谷雄」(きのはせお)とは、実際にも親友関係にありました。

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宝物殿は今更ながら、応天の門展につられて初めて入館したのですが、中に入ってみると、むしろ常設の充実した展示物に興味そそられました。

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中でも八幅からなる「天満宮縁起画伝」(満盛院本)は、道真の生誕から死後まで全114に分割された絵図が描かれており、見応えがあります。

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いち文官(学者)から右大臣にまで昇り詰め、讒言により大宰府に左遷された菅原道真。
そして死後は祟り神となり、天神となる様まで、そこには記されていました。

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左遷を言い渡された菅原道真が大宰府に向かう途中、公は叔母に別れを告げるため、河内の国府「道明寺」に立ち寄ります。

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二人は一晩中語り明かしましたが、意地の悪い役人が鶏をわざと早く鳴かせ、慌てて出発させたと云います。

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道真は瀬戸内海を西下し、筑紫の大宰府を目指しますが、立ち寄る所々で、道真の人柄を知ってか村人は丁寧に歓待したそうです。
山口の防府では道真がたいそう気に入り、「死後、私の魂はここに戻る」と言い伝えたことが、防府天満宮建立の由来となっています。

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やがて博多の港に着いた道真。
長い旅路は彼を疲弊させました。

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その姿を見た浜辺の漁師は舟の綱を巻いて、道真に座って休んでいただきました。
その場所は綱敷天満宮として伝えられ、また川に映った自分の姿に落胆したことから、水鏡天満宮が建てられました。

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大宰府で待っていた道真の暮らしは哀れなもので、浄妙院という場所に軟禁生活を強いられました。
毎日の食事にも事欠くという道真の暮らしぶりを哀れんだ浄明尼が、梅の枝に粟餅を巻き付けて差し入れたのが「梅ヶ枝餅」の由来です。

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903年、左遷されてから2年後に道真は大宰府でその生涯を閉じます。

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彼は生前、自分の死後は遺体を牛に引かせ、たどり着いた場所を墓所とするように遺言を残していました。

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道真の遺言どおり、牛に公の遺体の乗った車を引かせると、森の中に差し掛かった時に牛は立ち止まって動かなくなります。

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そうしてその場所に道真の墓を建てることになりますが、そこは今の太宰府天満宮の本殿がある場所だと云うことです。

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さて、道真公は死の前に、大宰府の南に位置する「天拝山」に登り、自分の無実を一心に祈ったと伝えられます。
その祈りは天に届き、神より「天満大自在天神」(てんまだいじざいてんじん)の神号を与えられました。
これが菅原道真をして「天神」様と呼ぶ所以となります。

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さて、菅原道真の死後、京では異変が相次ぎます。
各地で干ばつや飢饉が広がりつつある頃でした。
まず道真の政敵であった「藤原時平」が延喜9年(909年)に39歳で病死します。
続いて延喜13年(913年)、道真失脚の首謀者の一人とされる右大臣「源光」が狩りの最中に泥沼に沈んで溺死しました。

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これは菅原道真の祟りであると感じた醍醐天皇は、919年、菅原道真を鎮めるため、墓の上に社を造らせました。
これが太宰府天満宮の始まりです。
つまり太宰府天満宮は、当初は菅原道真の怨霊の祟りを鎮めるために建てられたものだったのです。

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しかし惨劇はまだ続きます。
延喜23年(923年)醍醐天皇の皇子で時平の甥の「保明親王」が薨去します。
次いでその息子「慶頼王」(時平の外孫)が延長3年(925年)に病死。
延長8年(930年)には朝議中の清涼殿に雷が落ち、昌泰の変に関与したとされる大納言「藤原清貫」をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出てしまいました。

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そしてついには、それを目撃した「醍醐天皇」も体調を崩し、3ヶ月後に崩御したのです。

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これは道真の祟りだと、都中に噂になりました。
清涼殿落雷の事件から、道真の怨霊は雷神であると言われるようになります。
朝廷はさぞ血の気が引いたことでしょう、更なる祟りを恐れ、道真の罪を赦すと共に贈位を行います。
子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返されました。
朝廷は火雷神が祀られていた京都北野の地に「北野天満宮」を建立、しかし暫くは大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられたと云うことです。

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2件のコメント 追加

  1. たぬき より:

    菅原道真さま。
    ご先祖はかの野見の宿祢と伝わります。
    この野見の宿根さま。実は、出雲王国の元王家、富(トビ)家の御当主です。
    先代が出雲王国滅亡(いわゆる神武の東征と同時進行の別動連合軍により)に際して戦死。
    田和山の神殿(芯柱を持つ九本柱の神殿建造物の端緒らしい)も侵攻軍、特に田嶋守率いる但馬勢により完膚な迄に破壊されるなど

    この出雲侵攻、進駐軍の総司令官が物部十千根。元王宮の神魂神社に入城して戦後処理を行い、その子孫らが神魂神社の社家、秋上家。
    因みに、神魂神社の本殿は古の出雲王国富王家の王宮そのままの姿だとか?

    神武の東征。実際の歴史では物部イクメ大王=垂仁天皇が大和入りして先行王朝で同祖の親戚の磯城王朝を打倒して新主と成ります。
    が、共に同盟、連合して大和入りを果たした但馬勢(田島守)や豊国宇佐勢力(豊彦/豊来入彦。妹の豊姫/豊来入姫(キキは豊鋤入姫命。/月神の大巫女、稚日女命))らが我が物顔で跋扈するのを制止できずに困惑の極み。
    出雲を制圧、戦後統治していた物部十千根に救援を打診するも、その余裕はなく、やむを得ず(有ろうことか、まさかの)自ら滅ぼした元王家の富家に
    兵員を募り軍を組織して救援する事を依頼。

    富家の当主努美(富)彦は内心穏やかではないが、是非もなく要請に応じ、
    富家の名を伏せて野見彦と名乗り出雲人を糾合して大和に進軍。親戚の元王家やカモ族らの勢力と合流して、
    先ず、田島守ら但馬勢を大和から排除。さらに追撃して大阪湾岸に追い詰め 田島守らは淡路島に逃げて一件落着。
    その際、イクメ大王は同時進行で一方の豊国勢には旧王朝勢力の追撃掃討を命じて琵琶湖岸に至り、せっせと敵を追撃して居たところに、

    まさかの自分たちがイクメ王に裏切られ謀られたとは、、、
    友軍/援軍かと思っていた新大和軍(野見宿祢ら出雲軍が実状)に背後から攻撃されて総崩れ。

    退却を余儀なくされて丹後に落ち延びました。
    これらにより物部イクメ大王は名実共に大和王朝の新大王となりました。

    これらの戦功により野見宿祢と大和のカモ族(出雲族)らはイクメ大王から大和の出雲族の旧領地と旧磯城王家の領地の一部を回復。

    相撲の天覧試合の件は、以上のエピソードをイクメ大王らは全く手を汚さずに傍観、高見の見物をしていた事の比喩かと思います。

    戦功一番の野見の宿根さまは出雲への帰途、播磨で毒殺(暗殺)されています。
    祟る所以。
    先祖の八重波津身命も物部勢の祖先らにより非業の死(拉致誘拐~餓死)を遂げていて、大和の三輪山に大物主神=事代主神=スクナヒコ神(手間天神)

    祟る所以。
    子孫の菅原道真さま。も非業の死を遂げられて(権力側にはヤマシイ気持ちがあるゆえに)祟る所以。
    家系として強力に祟る所以です。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      僕も道真公が祟り神となったのは、出雲人であり、非業の死(無実の死)を与えられたからだと思います。
      しかしまた、道真公は本当に祟り神になったのか、と疑問を持つようになりました。
      実際に祟りを起こしたのは、道真公が出雲王家の血を引くものと知り、彼を貶めたのが、かつて出雲王家の歴史を消し去ろうとした藤原一族だったことに、怒りを感じた者ではなかったでしょうか。
      出雲王家、とりわけ東王家由来の人には、秘密組織に属していた人たちが存在したと伺っております。
      度が過ぎるくらいにお人好しさが伝わってくる出雲人は、非業の歴史と言って良いほど、悲しい死がつきまとってきました。
      しかし彼らがどんなに酷い、苦しい死を迎えたとしても、祟りを起こすほどの怨念を残したとは思えないのです。
      武力ではなく言葉で国々を統治した出雲王家の血は、酷死の間際においても、信じる仲間や家族に、未来を託したのではないでしょうか。
      そう思えてなりません。

      いいね

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