1853年、奥地探検隊として調査に訪れた「ペリー提督」、彼がその美しさのあまり絶賛したという「中城城跡」(なかぐすくじょうあと)を訪ねます。
それは数ある沖縄のグスクにおいても、最も優美な城壁を持った城跡でした。
中城城跡は小高い山の山頂にあります。
城跡は細長く、歩いて往復するとかなりの距離があります。
入場門からは電動カートで再奥部にある正門まで送っていただき、入場門側の裏門まで歩いて散策するコースが順路となっています。
正門前の広場に着きました。
正門は首里城方面に向いていますが、その先には
妖しげな存在感を放つ廃墟が。。
これは、かつて「中城高原ホテル」と呼ばれていた建物ですが、昭和50年ごろに建設が始まって、1度も営業されることなく今に至ります。
それ筋の雑誌などでも紹介される、有名な心霊スポットです。
心霊スポットに背を向け正門を目指すと、ぽっかり口を開けたような横穴があります。
「ガンジャーガマ」と呼ばれる鍛冶屋跡になります。
ガンジャーガマの反対を迂回するように周ると、
中城城「正門」があります。
正門から先は、琉球石灰岩を加工して積み上げた、美しい城壁の世界が広がります。
中城城跡は、沖縄県に9つある世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の1つとして登録されています。
数多い沖縄のグスクの中でも沖縄戦による被害が少なく、当時の遺構が原形のまま多く残されている城跡でもあります。
正門から城壁伝いに階段を上ると、
いくつもの拝所・御嶽がある「南の郭」と呼ばれる広場に出ます。
階段を上がってすぐに目につくのが拝所「小城ノ御イベ」(クーグスクノオイベ)
アマミキヨが降り立った神の島「久高島」を遥拝しています。
右手奥、先ほどの廃墟の方向には首里遥拝所として、「御富蔵火神」(ウトウクラヒヌカン)という拝所があります。
ここで「富」の字が出てきて、軽い驚きがありました。
首里方面を背にして先に進むと見えてくるのは、
拝所「雨乞イノ御嶽」(アマゴイノウタキ)。
その名通り、雨乞いに使われた聖地であると思われます。
他にもこれといった案内板はないのですが、拝所・御嶽と思われる遺跡が集中して散見されます。
南の郭を後にして石の門の先へ進みます。
美しいアーチを描く石の門、
その先は中城城跡で最も広く、最も標高の高い「一の郭」となっています。
一の郭では定期的な城跡のメンテナンスが行われていました。
一旦取り崩した壁石の中には刻印が刻まれたものもあります。
これが何を意味しているのかは、未だ不明なのだそうですが、気の遠くなるような根気のある作業で、元の場所に戻されるそうです。
この一の郭には、琉球王朝時代に正殿があったそうで、歴代の先中城按司や中城按司「護佐丸」(ごさまる)が居城していたと伝えられています。
護佐丸は「阿麻和利」(あまわり)と並ぶ沖縄の歴史的ヒーローです。
彼らは按司(あじ・あんじ)でした。
1390年頃、護佐丸は山田城按司の三男として生まれます。
按司とは王族のうち、王子の次に位置する者で、按司家は国王家の分家にあたり、日本の宮家に相当します。
護佐丸の先祖は「今帰仁城」の按司でしたが、戦に敗れ山田グスク按司となります。
彼が青年期の時、仕えていた「尚巴志」と共に今帰仁グスクを攻め落とすことに成功、先祖の復讐を果たしました。
1439年、尚巴志が逝去し、尚忠が三代目の王になります。
これを機に、護佐丸は、中城城の按司となりました。
これは、中山で勢力を強めていた勝連城按司「阿麻和利」をけん制し、琉球王府のある首里を防衛するためだったと云われています。
中城城に入城した護佐丸は、城の増築・補強を行い、籠城に備えて水源の確保なども行います。
また「越来王子」(ごえくおうじ/尚泰久王)に娘を嫁がせ、地位を確立してきます。
やがて首里王府では王の交代や、「志魯・布里の乱」による首里城正殿全焼により、一気に情勢が不安定になります。
6代目の王となった「尚泰久」は、安定を図るため、自身の娘であり護佐丸の孫にあたる「百十踏揚姫」(ももとふみあがり)を阿麻和利へ嫁がせました。
しかし阿麻和利が尚も勢力を高める中、ついに「護佐丸・阿麻和利の乱」が起きてしまいます。
再び石のアーチ門をくぐると、「二の郭」に出ました。
後ろを振り返れば、とても優美な曲線を描く城壁に見惚れてしまいます。
城壁がカーブを描いているのは、グスクが丘陵地にあるため。城壁が一気に崩れ落ちてしまわないようにという計算で建てられているからなのだそうです。
二の郭中心に建つのは「忠魂碑」です。
我が国のために散った、英霊の魂を弔います。
二の郭の一角にある拝所、
その名にも「富」の字がありました。
いささか過敏な反応になっている自覚はありますが、やはり琉球神話と日本神話には、密接な関連があるように思われました。
一の郭と二の郭は石門でつながっていますが、三の郭は下段にあり、石壁で完全に区切られています。
横の通路を通って、一旦二の郭から外へ出ます。
三の郭へ向かう途中、
「大井戸」(ウフガー)へ向かう階段がありました。
かなり急な階段を慎重に降りていきます。
深海に沈むように降りていくと、じっとりとした湿気と苔に覆われた井戸が姿を現します。
その井戸は今でも豊かな水をたたえています。
敵が攻めてきたとき、長い籠城戦となっても水を確保できるように造られたものです。
しかしそこは、とても厳かな雰囲気に包まれていました。
大井戸から再び浮上し、護佐丸が増築したという三の郭へ向かいます。
三の郭は「新城」(ミーグスク)とも呼ばれ、どのような目的で造られ、使用されたのかは定かではないそうです。
「護佐丸・阿麻和利の乱」の発端は阿麻和利が、当時の国王「尚泰久」に「護佐丸に謀反の疑いあり」と讒言したことが発端であると云われていますが、これにはいくつかの疑問も残されており、琉球王国時代最大の謎と言われています。
ついに尚泰久王は阿麻和利に「護佐丸討伐」を命じます。
阿麻和利は難攻不落の名城・中城城へ攻め込みました。
これに対し護佐丸は、攻めてきた軍の中に王府の旗を確認すると「王に逆らうことはできない」として応戦せず、王への忠義を示すため、妻子とともに自害したと伝えられています。
護佐丸を討った阿麻和利はその後、尚泰久王をも攻略しようと企てますが、尚泰久王の娘である妃「百十踏揚姫」らに見破られ、勝連城とともに滅亡しました。
これにより琉球王国の二大勢力、護佐丸と阿麻和利がほぼ同時に消え去ってしまったのです。
この話は、尚泰久王が警戒していた阿麻和利の讒訴を信じたこと、護佐丸が阿麻和利の謀略と知りながら王に申し開きせずに自害したこと、阿麻和利が勝連に伝わるおもろで名君と讃えられていることなど、疑問視する声も多くあります。
このため近年は、実際には護佐丸が反逆者であったとする説や、有力按司の排除を意図した金丸(尚円王)の謀略であるとする説などもあるようです。
「護佐丸・阿麻和利の乱」の後は、尚泰久王が逝去し、暴君「尚徳」(しょうとく)が琉球王国の7代目の王に即位しました。
尚徳王が逝去した後、琉球王国の立て直しを図るために新たに王位に就いたのが「尚円王」(金丸)です。
尚円王(しょうえんおう)はクーデターで第一尚氏王統を倒し、第二尚氏王統の初代国王となったのです。
尚円王は護佐丸の三男である盛親が糸満の国吉に逃れ生きていることを知り、盛親を首里王府へと迎え入れました。
これにより護佐丸の末裔は、再び栄華を迎えることになるのです。
Beautiful 👍💓🤗
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Welcome to “Omouhana”.
Thank you.
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流石のご見識です!
お客様にその様な方がおられるとは、やはりこれも何らかの “えにし” によるものなのでしょうね。
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そうなんです。
そのお客様は、僕が美容師駆け出しの時、シャンプーで粗相をしてしまったのですが、その後誠心誠意フォロー致しまして、ご指名を頂くようになり、今に至ります。
色々と良くしてくださる方で、いつか久米島も訪ねてみたいと思っています。
人との出逢いとは、誠に不思議なご縁を感じますね♪
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琉球王国の頃の城塞、城壁、石垣は、やはり支那の影響が大きかったと思える処が多々ありますよね。
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確かに、沖縄には日本文化と中国文化が混在した形跡が多く見受けられます。
ただ面白いことに、沖縄の神話・信仰には日本のそれにとても酷似しており、やはりかつての琉球人は大和民族に近しい存在だったことを窺わせます。
沖縄神話は多神教であり、自然崇拝と先祖崇拝が融合しており、王と巫女が一体となって祭り事(政)を行なっていた点は、まるで古代日本とそっくり同じです。
また特筆すべき点は、沖縄には火神信仰があり、火神(ヒヌカン)は日神(テダ)と同一視されています。
道教を根底にする中国には、太陽信仰・太陽神という存在がなく、古来より太陽神を神の頂として拝してきた日本人との、信仰の差は歴然です。
僕のお客様に、琉球王家の末裔を称する女性がいらっしゃいます。
その方はとても気さくな方なのですが、沖縄久米島のノロ(最上位の巫女)の娘だと教えていただきました。
そのお客様はノロの祭祀具として首から下げる大きな勾玉を受け継がれたのだそうです。
琉球神道にも、三種の神器の「八尺瓊勾玉」のようなものがあったというのは、軽い衝撃でした。
いつか、日本神話と琉球神話の類似性についても、ブログに書きたいと思っています。
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