三嶋大社:八雲ニ散ル花 東ノ国篇01

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奈良葛城に大和王国が誕生するその昔、摂津の三島家に「玉櫛姫」または「活玉依姫」と呼ばれる姫がいた。
彼女は東出雲王国の「八重波津身」の元へ嫁ぎ、3人の子を儲けた。
彼女は東出雲の揖屋の地に宮を建ててもらい、幸せに暮らした。
しかし束の間、彼女の夫は非業の死を遂げる。
以来、揖屋の地は、永遠に続く夜のように悲しみに暮れた。

玉櫛姫は3人の子供と共に、悲しみの地を離れ、実家の摂津に戻ることにした。
長男のクシヒカタはさらに南下し、奈良葛城に父の霊を祀る。
故にそこは第二の出雲と呼ぶにふさわしい王国となっていった。
彼の築いた王国を土台に、やがて海家の村雲を初代大王とする「大和王朝」が誕生する。
それは正に、日本の夜明けであった。
玉櫛姫の長女、踏鞴五十鈴姫は村雲大王に嫁ぎ、2代目の大王、沼川耳を儲ける。
沼川耳の后となったのは、玉櫛姫の次女、五十鈴依姫だった。
つまり玉櫛姫は、大和の国母といって良い存在であった。

偉大な夫の血筋を後世に残した玉櫛姫であったが、彼女もまた偉大なる女性であった。
故郷に戻った玉櫛姫は夫を失った悲しみを乗り越え、地元民のために水田開拓を指揮した。
彼女のおかげで摂津三島はますます豊かになったのだ。
故に民は、彼女を崇敬の念を込めて、灌漑開拓の神「三島溝杭姫」と呼んだ。

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静岡県三島市大宮町にある、伊豆国一宮にして伊豆国の総社である「三嶋大社」を訪ねました。

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当地は伊豆国の中心部として国府のあった地で、三島という地名も当社の名に由来するとされます。

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境内に入ってすぐのところに、「たたり石」という物騒な名前の石が鎮座します。

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この「たたり」とは人を祟るという意味ではなく、糸のもつれを防ぐ道具の名前が由来となっています。
もともとこの石は大社前旧東海道の中央にあり、行き交う人の流れを整理する役目を果たしていたものです。
これを取り除こうとする度に災いがあったと云われており、今日では交通安全の霊石としての信仰があるそうです。

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当社は「三嶋大社」を称していますが、戦前は「三島神社」と記されていました。

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「三島」とは「御島」、すなわち伊豆諸島を意味するとされ、三島大神とは古代の、伊豆諸島の噴火を神格化したというものが通説となっています。

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これに対し、出雲王国の直系の子孫である「斎木雲州」氏は、伊豆に退去した「ヌナカワワケ」がこの地に三島の地名を付け、祖先の事代主を祀ったのが当社の始まりであると記しています。

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ヌナカワワケは「大彦」の息子です。
そして大彦は大和王朝8代目大王である「クニクル」(孝元帝)と登美家の「クレアニ姫」の間に生まれた皇子で、記紀に「ナガスネヒコ」と記されたその人です。

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記紀ではナガスネヒコは、神武天皇にまつろわぬ豪族と記されていますが、実際は正当かつ第一の王位継承者でした。
彼は母方の出雲人としての意識が高く、大の物部嫌いでした。

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第一次物部東征において、彼とその息子ヌナカワワケは果敢に戦い、一時は彼らを退ける勢いを見せるも、物部に加勢する勢力が増えることによって敗退を余儀なくされます。

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結果大彦は長野に逃れ、そこで生涯を終えました。
息子のヌナカワワケは伊豆方面へ逃れ、当地に出雲の大祖神「事代主」を祀ったと云うことです。

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ちなみに大彦は伊賀の敢国(あへくに)に滞在した時に「阿部」姓を名乗り、各地に散った子孫が阿部・安倍・安部などの姓になっていったとも伝えられます。

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当社は中世に入ると、伊豆国の一宮として源頼朝始め多くの武家からの崇敬を集めました。
社宝では、北条政子の奉納と伝わる国宝の「梅蒔絵手箱」が収められています。

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特に源頼朝の三嶋神に対する崇敬は篤く、三嶋社に重ねて戦勝祈願と寄進を行なったことが伝えられます。

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治承4年(1180年)に記された『吾妻鏡』によると、源頼朝は挙兵直前に三嶋社への奉幣を命じ、平家軍との戦に際しても三嶋神を拝んだと云うことです。
頼朝が開いた鎌倉幕府では、三嶋社を鶴岡八幡宮や伊豆山神社・箱根神社と並んで信仰していました。

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神域に足を延ばすと、中央に舞殿が建っており、この裏手に拝殿・本殿が鎮座します。

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右手を見ると、樹齢約1,200年、樹高10mを超える老木・巨木のキンモクセイ(金木犀)が目につきます。

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摂社には、物忌奈乃命(ものいみなのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと、応神天皇)、神功皇后、妃大神を祀る「若宮神社」、

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波布比売命、久爾都比咩命、伊賀牟比咩命、佐伎多麻比咩命、伊波乃比咩命、優波夷命の三嶋神の后神6柱を祀る「見目神社」などがあります。

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また少し離れて境内西方に通称「浦島さん」の名で親しまれる「祓戸神社」があり、

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瀬織津姫神、速開都姫神、気吹戸主神、速佐須良姫神の祓戸四神が祀られます。
国司の大社参拝の際は必ず当地で祓いを行なったと云われています。

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通り過ぎてきましたが、参道沿いにあった「厳島神社」には北条政子の勧請と伝える「市杵嶋姫命」が祀られ、この「神池」(しんち)は 、『吾妻鏡』に源頼朝が放生会を行なった池であると記されています。

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拝殿へ向かいます。

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そこには伊豆国の総社にふさわしい、荘厳な社殿が鎮座しました。

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祭神は「大山祇命」(おおやまつみのみこと)と「積羽八重事代主神」(つみはやえことしろぬしのかみ)。

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「オオヤマツミ」は一般的には山の神とだけ解されますが、元は出雲の大山に宿るクナトの大神で、出雲王朝の神、祖先神(幸神)のことです。

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「積羽八重事代主神」は事代主の本名、「八重波津身」(ヤエハツミ・ヤエナミツミ)の文字を置き換えたものです。

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三嶋大神とは、この事代主のことであるとされますが、なぜ事代主が三島神なのでしょうか。

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摂津の三島家は玉櫛姫が事代主に嫁いで以降、出雲王国でも、クシヒカタの葛城王国でも、重要なパートナーとなっていきました。
出雲王家と深い血縁を持つ三島家は、自家の神として事代主を崇めるようになっていったとは、想像に難くありません。
また摂津三島家では、瀬戸の島々との関係が深まり、伊予の島に大三島と名が付けられ、大山津身神が祀られいたということのようです。

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時は過ぎて大彦・ヌナカワワケの勢力に、三島家も加勢したものと思われます。
ヌナカワワケと共に伊豆へ逃れた三島家の一族が、当地に事代主を祀ったのでしょう。
しかし僕はそこに、ちょっとした違和感を感じました。
三島家が三島の名で祀るなら、足りない人物がいるのではないかと。
そう、かの国母神「三島溝杭姫」(ミシマノミゾクイヒメ)です。

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溝杭姫はあまり知られた神ではありませんが、「溝喰姫」と記されることもあり、その名のインパクトが僕の印象に深く残っていました。
何より大和の英傑、皇后らを儲けた母神です。
また夫君と死に別れた悲しみを押して、故郷の水田開発を指導し、川の水を分ける溝を設け、両脇を板で囲み、木の杭を打ち並べたと云うのがその名の由来です。
この偉大な「灌漑の神」を、三島家が夫君と一緒に崇めないはずがありません。

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伊豆の南端、下田市白浜に「伊古奈比咩命神社」が鎮座しますが、そこはかつて「三嶋神社」と称して後后の伊古奈比咩と共に事代主を祀っていたと云います。
後に事代主を三嶋大社に遷したので、現在の社名になったと伝えます。
こうして伊豆の事代主神を取り込むことによって、三嶋神=事代主の認識が高まり、溝杭姫の存在は薄れていったのではないかと推察するところです。

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境内を後にしようとする時、通り過ぎてしまいそうになる御神木がありました。
とっても立派な大樹なのですが、社叢に隠れて、通り道から背を向けて立っています。

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根元の虚には小さな祠が祀られ、神木自体が神々しい雰囲気を放っていました。

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茶店では名物として、五穀豊穣を祈る狂言形式の祭事「お田打ち祭」に登場する、黒い面に烏帽子姿を被った「福太郎」の餅がいただけます。

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そのお味は伊勢名物「赤福」のよもぎ餅版といったもので、食べやすく美味なのですが、「リーゼント餅」とも呼ばれるこのルックス!
僕は「ジョジョ餅」と呼びたくなったのでした。

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