玄翁心昭(げんのうしんしょう)は、南北朝時代、越後国で生まれ、5歳の時、国上寺で出家した。
18歳で曹洞宗に改宗し總持寺の峨山禅師に入門、師事すること10年。
師から「もう何も教えることはない」と印可証明を与えられてからは衆生済度・布教のために諸国を行脚、仏道を広めてまわった。
時に下野国那須野に出現した怪石「殺生石」が毒を吐き、飛ぶ鳥・獣・行き交う旅人の命を奪うという事件が起こる。
これを多くの僧侶が調伏させようと出向くが、全く適わない。
ついには能登の総持寺「大徹宗令和尚」が那須野へ出向くこととなった。
宗令和尚が殺生石の前に立つと、石は揺れて天地を大きく震動させ、まるで威嚇するように迫った。
和尚は怯まず経を唱えたが、石は僅かに欠け落ちたものの、相変わらず恐ろしい毒を放ち続けるのだった。
宗令和尚も失敗したと聞いた後小松天皇は至徳2年(1385年)8月、玄翁禅師に殺生石調伏の勅書を下す。
勅命を受けた、玄翁禅師は那須野へ向かった。
殺生石のある那須野の谷は、白骨化した屍が転がる荒野と化していた。
屍を押しのけつつもようやく殺生石の下へたどり着くと、玄翁禅師は法語を唱え始めた。
殺生石はまたも大きく振動し、天地を揺さぶる。
しかし禅師はすかさず持っていた杖で石を一打。
すると、石は砕け、空を飛んで散ってしまった。
夜も更けた頃、野宿していた禅師の元へ美しい顔立ちの女が現れた。
「私はこの石に宿る霊でございます。恥かしい事ですが、長年積み重ねてきた悪業のために、野狐の妖となり、恐ろしい妖術で人々を苦しめ、世の中を乱してまいりました。自分自身を失っておりましたが、今やっと私を苦しみから救って下さる御方に出会う事が出来、目が覚めました。どうか仏様の尊い戒法を御授け戴き、私の罪をお裁き下さい。」
その願いに応じて玄翁禅師が殺生石の霊に戒法を授けた所、石の霊は禅師に礼を述べて消えていった。
至徳3年(1386年)、玄翁禅師は此度の功績により、後小松天皇より能照法王禅師(勅特賜 能照法王禅師源翁心昭大和尚)の号と「大寂院」の勅額が贈られ、「勅使門」(泉溪寺)を建立した。
玄翁禅師58歳のことであった。
以後も行脚を続けた応永3年(1396年)、玄翁禅師68歳の春、慶徳寺に宿した日の夜半に突如として殺生石のかけらの1つが現れた。
そのかけらからは、未だ冷たい殺意の残滓を感じ取った。
「なるほど、悲しくも哀れな者よ、まだ分からぬのか。 お主ほどの霊力を持ちながら、なぜ悪業にしか使わぬのだ。力を持っているがゆえに、苦しいのは分かる。が、自らの行ないは、自らの身に返るが摂理。結局のところ、今のお主に心安らぐ時はなかろう。もう苦しみの輪廻を断ち切ってはどうか。お主の霊力で人を救うことが、お主の唯一の心の安らぎとなるであろう。そうやって儂に殺気をぶつけつつも殺せぬのは、まだ良心が残っている証拠よ。」
禅師の説得が終わると、石のかけらは戸惑ったように、そしてまもなく気配は去った。
翌日の夜半、禅師の元を訪ね、戸を叩く音がする。
「かまわぬ、遠慮せず入ってきなさい」
すると、真っ白くて美しい一匹の狐が、すっと静かに入ってきて、禅師の前に座った。
「私は昨日の石のかけらの霊でございます。昨夜のお教えを聞き、これまでの怒りや恨み、苦しみが全く消えてしまい、今は安らぎを感じております。あなた様は私の本体もお鎮めいただいたと伺っておりましたが、おかげでことごとく、浅ましき苦しみよりお救いくださいました。これからはあなた様のお教えに従い、護法の神となり、ご恩に報いたいと思います」
そう言い終えると、白狐はたちまち十一面観音菩薩の姿に変わり、外へ出た。
禅師が後を追って外に出ると、ちょうど飛び去るところだった。
そこにはもはや不要になった九尾の尾が残され、それは小高い山に姿を変えた。
これに玄翁禅師は慶徳寺の山号を「巻尾山」と改め、祠を建てて、白狐の霊を稲荷神として祀ってやったという。
応永7年(1400年)1月7日、玄翁禅師入滅。
72歳であった。
本墓は示現寺、分骨墓は安穏寺にある。
玄翁心昭が砕いたという殺生石のかけらが九州にもあるというので、訪ねてみました。
砕かれた殺生石のかけらは一般に美作国高田(現岡山県真庭市勝山)、越後国高田(現新潟県上越市)、安芸国高田(現広島県安芸高田市)、または、豊後国高田(現大分県豊後高田市)にあるとされています。
玄翁禅師の打ち砕いた殺生石は大きく3つに割れ、その一つが那須にある「殺生石」本体であると思われますので、残り二つがこの4箇所のどれか、ということになります。
にしても大きな石のかけらを、東日本から西日本まで飛ばすのですから、玄翁禅師が亀仙人クラスの霊力の持ち主で、かめはめ波級の威力を有していたことが理解できます。
九州の豊後高田はストーンサークルのある猪群山や無明橋などのある岩山が多く、なるほど殺生石の一つも埋もれていても不思議はありません。
が、肝心の殺生石はそこから程遠い、九重山のふもとにありました。
一旦は豊後高田に着地したものの、勢い余って九重まで転がったのだと思われます。
殺生石があるのは大分県玖珠郡九重町の「筌の口温泉郷」と呼ばれるところでした。
行ってみるとそこは、近くに九州一の「夢の大吊橋」があるものの、温泉郷とは名ばかりの僻地でした。
そして非常に寂れた細い路地、
そこのこんなところに案内が。
いやまじ、観光名所にする気など全くない、凄いところにそれはあります。
空き家と思われる、古びた家屋の裏側、荒れ果てた草むらに殺生石が鎮座します。
殺生石のかけらと伝わるこの石の周りでは、やはり多くの鳥や獣が死んでいました。
諸説ある殺生石のかけら伝説ですが、ここが「九重」であることを思うと、その信憑性が一気に高まります。
さて、殺生石、ひいては世界中を騒がせた大妖怪「九尾の狐」を滅した玄翁禅師の事を調べると、九尾の後日談などもあってとても興味深いです。
さらには単なる伝承だけでなく、「勅使門」などの物証も残っているのです。
九尾の狐「玉藻前」は存在したのでしょうか。
うちのうさぎ「そらくん」も、しっぽが増えるくらい長生きしてほしいと願ってはいるのですが。
CHRICO様
亀仙人の“ かめはめ波 “ とは…笑笑
どんだけだって感じですね!
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殺生石についての論証はありませんが、くだらない事を真剣に考える面白いサイトがあります。
気分転換にどうぞ 笑
http://web.kusokagaku.co.jp
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おー!
ありがとうございます 笑笑
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ありがとうございます!!
なんじゃもんじゃ???
ですねー 笑笑
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