泉岳寺

投稿日:

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「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」

1702年12月15日の早朝、雪が降り積もった浅野内匠頭の墓前に、列をなす義士らの一群があった。
先頭に立つ大石内蔵助は、手にしていた吉良上野介の首級を墓前に捧げる。

「浅野様の御無念、お晴し申し上げました」

そばにある井戸で洗ったばかりのその首級は、顔を歪ませ、今にも呪いの声を吐き出しそうに生々しく虚を睨んでいた。

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東京都港区にある泉岳寺に赤穂義士(あこうぎし)の墓があるというので訪ねてみました。
浅草線泉岳寺駅を降りると、四十七義士の名が刻まれていました。

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他にこんなポスターも。
全く人道にあるまじき行いです。

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さて、『忠臣蔵』といえば、毎年年末にドラマが作られていたくらい有名なお話ですが、簡単にあらましをご紹介したいと思います。

主な登場人物としては、非業の死を遂げた「浅野内匠頭長矩」(あさのたくみのかみながのり)、敵役の「吉良上野介義央」(きらこうずけのすけよしなか)、主人の仇討ちを成し遂げた赤穂義士のリーダー「大石内蔵助良雄」(おおいしくらのすけよしたか)の3人と言うことになるかと思われます。

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1702年、江戸時代の将軍「徳川綱吉」の頃、天皇の勅使が江戸に来るとのことで、その饗応役として浅野家と伊予の伊達家が抜擢されました。
浅野内匠頭は今回で2度目の饗応役でしたが、あえて古式風習に詳しい、高家肝煎「吉良上野介」に指導を仰ぐことにしました。
ところが、吉良上野介はきちんと指導するどころか嘘を教えたりして浅野をからかいます。
明らかな意地悪でしたが、これは吉良家への進物が少なかったからとか、浅野内匠頭の妻「阿久里」に吉良上野介が恋慕したからとか、浅野内匠頭は以前にも同様の勅使へ対する饗応役を経験していたが、その時とやり方が異なっていたためすれ違いが生じたからなどと云われています。
そしてついに饗応の席でも吉良の嘘で浅野は大恥をかかせられてしまいました。

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怒りに打ち震える浅野内匠頭は、ついに江戸城本丸の大廊下「松の廊下」で、脇差と呼ばれる短い刀で吉良上野介に斬りかかったのです。

「吉良上野介、覚悟!」
「ひぃっ」
「あ、浅野殿、殿中にござる!」

吉良は額と背中へ切り傷を負い、浅野内匠頭は取り押さえられてしまいました。

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すぐさま柳沢吉保ら幕閣は、浅野内匠頭に対して即日切腹の命を下しました。
江戸城内(殿中)で刀を抜く事は禁止されており、しかも、勅使を迎える大切な日に刃傷に及んだと言う事でした。
しかし当時は「けんか両成敗」の風習がありましたが、吉良上野介は全くおとがめがなかったのです。

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境内の奥に、赤穂義士の墓へ続く参道がありました。

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その横に、新緑の見事な梅と石。

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それは「血染めの梅」「血染めの石」と書かれています。

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これは浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際、その血がかかったと伝えられる梅と石を運び置いたものだそうです。

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浅野への沙汰はこれに終わらず、赤穂浅野家はお家断絶、赤穂城の明け渡しと解散が命じられました。
ここに赤穂藩の武士は職場を失い、赤穂の浪人つまりは「赤穂浪士」が誕生してしまうのです。

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とまどう赤穂武士は恭順派と抗戦派に別れて荒れ始めましたが、ここで「大石内蔵助」が抗戦派をなだめ、皆をまとめました。

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ここから大石内蔵助は、「浅野家の再興」と「吉良上野介の処分」を求め、長い時間をかけた活動をはじめます。
大石は幕府に対して、浅野内匠頭の弟「長広」を当主に据え、浅野家を再興させてほしいと願い出ました。
しかしその願いは聞き届けられず、浅野家再興の望みは絶たれてしまいます。

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浅野家再興の夢が途絶えた大石内蔵助らは、浅野内匠頭の仇、吉良上野介を討つことを決意し、準備に取り掛かります。
同志を厳選し、吉良邸の探索を初め、武器や討ち入りの道具をそろえました。
そして雪の舞う1702年12月14日、吉良邸にて茶会が開かれるのを機に、討入りを果たしたのです。

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吉良邸の屋敷にも護衛の浪人がいましたので、2時間近くの激闘となりました。
しかしついに吉良上野介が、炭小屋(もしくは台所の奥)に隠れているのを発見され、討ち取られてしまったのです。
享年62歳のことでした。

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勝鬨を挙げた赤穂義士は12月15日早朝、浅野内匠頭のお墓がある泉岳寺に向けて行進します。
そして墓の少し手前にある井戸で、吉良上野介の首級を洗いました。
それがこの井戸、

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「首洗い井戸」です。

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網が張ってありますが、奥から今も吉良のうめき声が聞こえてきそうです。
吉良上野介の首は、浅野内匠頭の墓前に捧げられた後、僧侶によって吉良邸に戻されたと云われています。

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首洗い井戸の先に、赤穂義士らの墓があります。

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この門は浅野家の鉄砲州上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築したものだそうです。

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その先に立つ無数の墓標。

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線香の束をいただき、

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墓前に捧げて回ります。

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忠義を貫き仇討ちを果たした赤穂義士の活躍に、江戸の庶民も拍手喝采、「義挙」と評されました。
47人の赤穂義士のうち「寺坂吉右衛門」は生き証人としての密命を与えられて去ることに。
残り46名の赤穂浪士らは自首したのです。

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赤穂義士らの処分は幕府内部で様々な意見が出ましたが、「武士道の鏡、あっぱれではあるが、まこと幕府を恐れない所業である」として、翌年1703年の2月3日に「切腹」が言い渡されました。
罪の「斬首」ではなく、名誉の「切腹」でした。

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赤穂義士の遺児らも遠島などの処分となりましたが、浅野内匠頭の正室「瑤泉院」(ようぜんいん)が赦免に尽くしたと云われています。

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瑤泉院の墓の奥に、浅野内匠頭の墓がありました。

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そして一段上がった先にある46の墓標。

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吉良上野介の養子で吉良家を継ぐ「吉良義周」(きらよしちか)は静岡の領地を没収され、長野へ配流されることとなり、その後若くして亡くなりました。

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浅野大学長広も、500石で復帰が許され、大名ではありませんが、赤穂浅野家の再興も叶いました。

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46の墓標の奥に屋根のついたひときわ大きな墓、それは大石内蔵助の墓です。

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大石内蔵助が離縁した妻「りく」は当時妊娠しており、その子「大石大三郎」は、1773年に広島藩浅野本家に1500石と言う高禄で召抱えられたと云います。

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赤穂四十七士は、一般に赤穂浪士と呼ばれていますが、地元「赤穂」やここ「泉岳寺」では「赤穂義士」と呼んでほしいと訴えているようです。
確かに「義」と「浪」では随分印象が違いますね。
ということで、当記事では「赤穂義士」と表記させていただきました。

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個人的には吉良も、額斬られたり首斬られたり、ちょっと可哀想な気もしますが、民衆が仇討ちを拍手喝采で褒め称えたと言うことは、彼の評判も良くなかったということなのでしょうね。

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ともあれ46と2つの墓標に冥福を祈り、当地を後にしました。

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5件のコメント 追加

  1. 吉良は地元の名君でしたよ。でも歌舞伎では吉良を悪者に描いているので気の毒な気もします”(-“”-)”

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      ですよね。
      なんか調べてて、ちょっと気の毒になってしまいました。
      もっと深く調べてみないと、真実は見えてこないのかもしれません。

      いいね: 1人

  2. 生きる塾 より:

    いつの時代にも陰謀、謀略は蠢いているものですね!!
    人間とは何と業深い生きものなのでしょうね!

    いいね: 2人

    1. CHIRICO より:

      まったくですね。
      正直者が馬鹿を見る世の中なんて、人間の限界を感じてしまいます。

      いいね: 1人

      1. 生きる塾 より:

        それでも生きて行かざるを得ない…
        なんだかやりきれんですよね。

        いいね: 1人

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