三島鴨神社:八雲ニ散ル花 東ノ国篇 外伝

投稿日:

6180942-2019-07-15-18-00.jpeg

伊予の大三島神社(大山祇神社)、伊豆の三嶋大社と共に「三三島」と称される、摂津の「三島鴨神社」(みしまかもじんじゃ)を訪ねました。
大阪府高槻市にある小さな神社は、大和の風雲児「大彦」に深い関わりのある神社でした。

6180941-2019-07-15-18-00.jpeg

三島鴨神社は田園広がる住宅地の側に建っていました。
大阪のような大都会でも、このようなのどかな日本人の暮らしぶりが見れるとは、不思議な感じです。

6180944-2019-07-15-18-00.jpeg

当社は「元々淀川の川中島(御島)に祀られていたが、慶長3年(1598年)の淀川堤防修築の際に現在地に移された」といい、社伝では仁徳天皇が茨田堤を築くにあたって、淀川鎮守の神として百済から遷り祀られたと伝えられています。

6180945-2019-07-15-18-00.jpeg

三島鴨神社の秋祭りでは、各村から三島鴨神社宮入唄(高槻市三箇牧郷土民謡)を歌いながら、高張提灯を持って練り歩き、五穀豊穣を願って宮入が行われるということで、露店も出て賑わうのだそうです。

6180946-2019-07-15-18-00.jpg

冒頭に述べた通り、伊予・伊豆の三嶋大社とともに三三島と呼ばれる当社ですが、三島鴨神社は日本最古の三島社(山祇社)とも云われており、それはあながち間違っていないことを富王家の伝承は伝えていました。

6180950-2019-07-15-18-00.jpeg

当社の祭神は「鴨事代主神」(かもころしろぬしのかみ)、「大山祇大神」(おおやまつみのおおかみ)、「木花咲耶姫大神」(このはなさくやひめのおおかみ)となっています。

6180947-2019-07-15-18-00.jpeg

大山祇神は、『伊予国風土記』逸文によれば、またの名を「和多志の大神」といい、仁徳天皇の御世に百済より渡来して津の国の御島に鎮座していたと記していますが、それは誤った伝承です。
大山祇の大山とは、島根の「大山」(だいせん)のことであり、古代そこに祀られた出雲の大祖神「クナト大神」を指し示します。

6180952-2019-07-15-18-00.jpeg

木花開耶姫は記紀に大山祇神の娘と設定されているので、祭神にされているのだと想定されますが、本来は「三島溝杭姫」が祀られていたのではないかと僕は思います。

6180953-2019-07-15-18-00.jpeg

そして当社の創建に大きく関わったのが大和王朝8代「クニクル大王」(孝元天皇)と出雲系登美家の「クレアニ姫」の間に生まれた御子「大彦」でした。
大彦は自分が出雲王家の血を引いていることに誇りを持ち、摂津国の三島にいた時に、先祖の「事代主」を祭る三島神社を建てたことがあったのですが、それが今の三島鴨神社であるということです。

6180955-2019-07-15-18-00.jpeg

『日本書紀』神代巻には、事代主神が八尋熊鰐となって三島溝橛耳の娘・三島溝樴姫(玉櫛媛)のもとに通い、生まれた媛蹈鞴五十鈴媛命が神武天皇の后になったと記しています。
これは神武天皇を大和王朝初代大王の「天村雲」と置き換えると、ほぼ史実に合っているということになります。
事代主と三島溝杭姫の長女「蹈鞴五十鈴姫」は村雲王の后となり、次女「五十鈴依姫」は2代の「沼川耳」(綏靖天皇」の后になりました。
そして長男の「天日方奇日方」は大和では「鴨家」と称され、「登美家」(とびけ)の祖となるのです。

6180954-2019-07-15-18-00.jpeg

溝杭姫の出身地「三島」は、彼女が事代主に嫁いだことで、出雲王家の親戚となります。
溝杭姫は事代主の死後、子らと共に実家に戻り、玉櫛姫、活玉依姫などと呼ばれ、長男のクシヒカタと共に大和の出雲王家として領地を守り広げました。

6180956-2019-07-15-18-00.jpeg

大彦が摂津国の三島に住んだ時、偉大なるクナト王、事代主、三島溝杭姫を当地に祀ったのは想像に難くありません。
彼は出雲の国を、心から愛していたのです。

6180957-2019-07-15-18-00.jpeg

しかし九州の物部族が大和入りの途上、紀伊国で窮地に陥っていた時に「鴨家」に助けられたにも関わらず、大和に入った途端に出雲信仰のシンボルである銅鐸などを壊して回ったことなどから、大彦は大の物部嫌いとなります。

6180958-2019-07-15-18-00.jpeg

よって大彦は三島家、尾張家などを率いて物部勢と戦うことになります。
最初は優勢だった大彦勢もやがて劣勢となり、結果敗北して北上せざるを得なくなります。
この時、大彦の息子「ヌナカワワケ」は、伊豆方面に退去しましたが、その地に三島の地名を付け、三島神社を建てたのが伊豆の「三嶋大社」です。

6180948-2019-07-15-18-00.jpeg

「三島江の よしあし しげき 昔より この民まもる この神やしろ」- 昭和38年 中秋 高碕達之助 –

昭和20年、2機の艦載機が執拗に、帰宅途中の小学生たちを狙い撃つという非人道的攻撃が行われました。
この時、当社に逃げ込んだ15人ほどの学童たちを、拝殿は自ら焼失させながらも怪我させることなく守り抜いたということです。
なんとも大和を思う大彦の、御神徳を感じさせる出来事です。

6180940-2019-07-15-18-00.jpeg

5件のコメント 追加

  1. たぬき より:

    大彦。とは地位を表す称号で、大王の嗣子/世嗣ぎ。
    後の、大兄。太子/皇太子等と同じ意味。

    摂津の三島、、、今の大阪府高槻市~茨木市に掛けては犬も歩けば何らかの祠に当たる?ほど。
    高槻の駅前などは辻辻、角かどに祠が祀られている程

    これは幾らなんでも、ある意味異常です?

    今は皆気にも留めても居ませんが、旧摂津国 (大阪府中~北部~神戸市)にはトビ、トミ(十三、飛田、登美、富○、○富、)や向(六甲(ムコウ)、武庫、、、、)等の地名がわんさとあります。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      たぬきさん、お久しぶりです。
      先日は淡路島も楽しませていただきました。
      岩戸神社が凄かったです。

      摂津はやはり、登美家の支配地だったのですね。
      それほど祠が多く残されているのは、古代からの伝承を守る人たちもまた、多く残っているということでしょうか。
      大彦が地位の称号だとしたら、本名は中曽大根彦となるのでしょうか。
      大彦が大和の大王になっていたら、真の万世一系が誕生していたかもしれませんね。

      いいね

  2. 太田初夏 より:

    知りませんでした。とても勉強になります。お参りする時にもそういうことを知っていると違ってきますね(^^)

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      神社やお寺、教会もそうですが、そこには日本人が昔から大切にしてきた「心」があると思います。
      四国のお遍路巡りは、僕の大きな目標の一つです。
      まずはざっくり巡ろうと思っていますが、ひと段落したら、実際に歩いて巡りたいですね。

      いいね

  3. 生きる塾 より:

    大和を思う大彦の、御神徳を感じさせる出来事です。…
    すげ〜〜涙が出ます!!

    いいね: 2人

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください