高山彦九郎の墓

投稿日:

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久留米市内の一角に積まれた土盛り。
そこは「高山彦九郎」自刃の地と呼ばれています。

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高山彦九郎は江戸時代の延享4年(1747年)5月8日に、上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市細谷町)に農家の次男として生れました。
のちの彼の行動・思想は、吉田松陰・高杉晋作・久坂玄瑞・中岡慎太郎・西郷隆盛を始めとする幕末の志士達に強い影響を与えたといいます。

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高山彦九郎は13歳の時『太平記』を読み、高山家の先祖が新田義貞の家臣であったことを知ります。
新田義貞は、室町時代に後醍醐天皇に従って鎌倉幕府を倒幕した人物です。
しかし新田義貞の最後は、南北朝の騒乱で後醍醐天皇の南朝が敗れ、それによって戦死します。
彦九郎は天皇に尽くした忠臣がなぜ倒されねばならないのかと憤慨し勤皇思想に傾倒するようになったと伝えられます。

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彦九郎は18歳になると、学者を志し帯刀して京へ向かいました。
京では漢学者の岡白駒に学んでいます。

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その後は蝦夷地(北海道)・四国以外のほぼ全国を旅をしていることが、彼の日記に記されています。
その旅の中で多くの著名人とも交流を交わし、江戸では蘭学者前野良沢・儒学者細井平洲・簗次正・服部栗斎、京では高芙蓉・大村彦太郎・公家の岩倉具選・芝山持豊、水戸では立原翠軒・藤田幽谷らと意見を交わしたといいます。

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土盛りの前に何気に置かれているこの石、彦九郎が自刃の前日に、秘密の書類を破棄した庭前の手洗鉢に使われた台座だったそうです。
寛政3年(1791年)、京を離れ九州へと旅した末に、寛政5年(1793年)6月27日、彼は何故か久留米の森嘉膳(嘉善)宅で自刃し、47歳の生涯を閉じます。
高山彦九郎の遺体は森邸のあった当地に仮埋葬されたとあるので、この土盛りはその時の名残ということでしょう。

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高山彦九郎がその後、正式に埋葬された墓は、自刃の地から少し離れた寺町にある「遍照院」にあります。

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久留米の寺町は市内中心部にありながら、静かな佇まいを見せています。

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細い通りに、幾つもの寺院が立ち並び、

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それぞれの風情を見せつつ、久留米の歴史を物語っています。

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その一つが遍照院。

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敷地内に入ると、美しい庭園が目につきました。

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こちらの庭園、設計は奈良国立文化財研究所工学博士の「森蘊」氏の手によるものだそうです。

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庭園の奥にある茶室は、彦九郎の法名「松陰以白居士」に因み「以白庵」と名付けられています。

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庭園の隣に進むと、「高山彦九郎の墓」が見えてきました。

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墓には国旗が掲げられています。

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高山彦九郎は「林子平」「蒲生君平」と並び、「寛政の三奇人」として知られています。
この「奇人」とは、「優れている」「個性的」というような意味になります。

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18歳に京都入りを果たす時、彼は京都御所に向かってひざまづき、「草莽の臣、高山彦九郎」と幾度も叫び号泣したといいます。
また朝敵・足利尊氏の墓を箒尻(笞打刑に使う刑具)で300回も鞭打ったとも伝えられます。
享年47歳で自刃した高山彦九郎ですが、彼の死の理由は遺書もなく、今も謎とされています。
検視をした森嘉膳は「狂気なり」と述べたといい、幕府に行動を監視され家族にまで圧迫が加えられたことが理由であろうと囁かれたりしています。
しかし彼の死は後の勤王の志士たちの大きな心の礎となり、特に吉田松陰の「松陰」という号は彦九郎の諡からとったものともいわれています。
万延元年(1860年)に高杉晋作は上野国新田郡細谷村にある彦九郎の遺髪塚を参拝しており、文久2年(1862年)に久坂玄瑞と中岡慎太郎も参拝しています。
彼は悲憤の死を迎えましたが、その思想は後世に、確かに受け継がれたのでした。

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5件のコメント 追加

  1. KYO より:

    聞いたことがあるような?と思ったら、太田生まれの方ですね。
    去年まで群馬県太田市に住んでいたので、この方のお名前はたびたび目にしていました。

    幕末明治にはあまり興味がない😅というのもあって、太田に来るまで存じ上げず、太田に来てから知りました。
    市内には、生家跡や記念館、神社などがあります。
    残念ながら神社の方は数年前の年末に放火され、社務所ともども全焼してしまいました。
    当時、太田界隈では神社や一般家庭に対する放火が半年くらい断続的に続いていて、金山の新田神社の社務所も焼けました。犯人は各々違う輩でしたが、連続ということもあって、地元ではかなり話題になりました。

    火災の後しばらくしてから高山神社に行ってみましたが、見事に何も残っておらずでした。石段が立派なだけに切ないですね。
    余談ですが、神社の周囲でトレーニングしていた大勢の学生たちとコーチが、すれ違う私にみな元気よく大きな声で挨拶をしてくれました。そのせいもあるかもですが、既に周囲に重苦しい雰囲気はなく、空気もそれほど悪くはありませんでした。
    小さな社が置かれたそうですが、再建の目途はたっていないとのことでした。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      こんにちは、KYO様。
      神社などは金額的にも技術的にも、再建するは大変な苦労でしょう。
      日本人の普通の感覚として、神社や寺に火をつけたり油をまいたり、出来ないと思います。
      各地を回っていると、そのような被害にあったという話もちらほら耳に入り、悲しい気持ちになります。
      そんなに何かを傷つけていかなければ、人は生きていけないのですかね。

      群馬も素敵な場所がたくさんあるそうですね。
      今年か来年中にはお伺いしたいと考えています♪

      いいね: 1人

  2. 生きる塾 より:

    30分ですか!
    近いですね。
    是非とも連れて行ってくださいませ。
    しかし、太田市産で最後の地が久留米とは…
    新田義貞、足利尊氏も含めて… 不思議な感がありますね。

    いいね: 1人

  3. 生きる塾 より:

    私も墓参したいです。
    詳細に調べられておりますね、さすがです。
    私も高山翁の思想を受け継ぐ者の一人です。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      私の記事はネットの情報をまとめただけですが、そうおっしゃっていただけると嬉しいです。
      福岡にお見えの時はご案内します。
      太宰府から30分ほどで行けます。

      いいね: 2人

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