弘安年間(1278年~1287年)の7月のこと、「おなつ」という少女が沼沢湖で泳いでいる最中に消息を絶ち、大騒動となった。
村人は昼夜問わず、おなつを捜し回ったが、ついに見つかることはなかった。
3日が過ぎた頃、村に滞在していた「実宗」という上総国の山伏が言った。
「儂がおなつを見つけたら、嫁にもらうが良いか」
実宗は三日三晩、滝に打たれて断食祈願をした末、おなつの居場所を言い当ててみせた。
おなつはその言葉通りの場所で見つかった。
しかしおなつは言葉を喋らず、毎日泣いてばかり。
泣いて、泣いて、泣いて、
そして最期におなつはぽつり、
「沼御前は昼に機を織り、夜には乙姫様のような姿から恐ろしい大蛇と化す」
と語ったという。
「沼御前神社」(ぬまごぜんじんじゃ)を訪ねて、福島県金山の沼沢湖へやってきました。
湖の透明度が意外に高く、びっくりです。
この沼沢湖には建久の頃、大蛇が棲みつき悪さをしていたと言い伝えられます。
その大蛇が「沼御前」です。
その沼御前を祀る神社を探しますが、なかなか見つかりません。
怪しげな小道を見つけたので、そこを進んでみます。
水田らしきところに何かが植わっていますが、稲ではなさそう。
この道で合っているのか不安になる頃、
鳥居が現れました。
沼御前神社、間違いありません。
沼御前神社の祭神は「浜姫命」といいます。
鎌倉時代、沼沢湖には十数メートルにも及ぶ雌の大蛇が棲みつき、美女に化けて村人達を襲っていました。
これを聞いた黒川(若松)の城主「佐原十郎義連」は大蛇を退治するため、大勢の家来を率いて船や筏で沼に進み出でます。
船の上で義連たちが大蛇を罵る言葉を吐くと、空が曇って雷鳴が轟き、突如、大入道が現れました。
義連たちはこれぞ大蛇の化身と果敢に立ち向いますが、荒れ狂う波の中へ、みな姿を消してしまいました。
水面に消えた義連たちに、湖畔で待機していた家来はどうすることもできず、ただ慌てるばかり。
と、荒波をともなって、大蛇が苦しみながら姿を現しました。
刀で大蛇の腹を斬り裂いて脱出した義連が、大蛇の頭に跨って、刀を振りかざし突き立てていたのです。
義連は本来なら、蛇の腹の中の猛毒で命を落とすはずでしたが、彼の兜に縫い付けられていた金の観音菩薩が蛇の毒から身を護ってくれたのでした。
これまたすごい階段がありました。
この先に沼御前神社があります。
登った階段から下を見たらこんな感じ。
見事大蛇を退治した義連は、その頭を斬り落として土に埋めましたが、その地底からは機を織るような音が聞こえ続け、村人はこれは大蛇の呪いだと恐れました。
そして大蛇の怨念を鎮めるために社を建て、「沼御前さま」として祀ることにしました。
それがこの沼御前神社であると云います。
以来、大蛇の霊は美女に姿を変え神社の前面下方断崖の深い棚状の所で終日機織りをしているといい、明治・大正期には機織りの神様として織女の参拝が多かったとも云います。
また沼沢湖は本来小さな池だったのですが、平勝宝2年6月19日、巨大な地震によって一夜で陥没し、湖となったという伝説があり、江戸時代から旧6月19日を、沼御前神社の祭礼日としています。
拝殿に下がるしめ縄は、まるで大蛇を模したよう。
沼御前の伝承は、いかにも作り話といった風情ですが、義連が大蛇に呑み込まれた時に救ってくれたという黄金観音像は、会津若松市川原町に石塚観音として残されています。
また、退治されたはずの沼御前がその後も生きていたと思わせられる事件が数件伝えられており、そのひとつが冒頭のストーリーとなります。
もうひとつは正徳3年(1713年)、ある猟師が早朝に沼沢湖に猟に行くと対岸に、腰から下を水に浸けせっせとお歯黒を付ける、髪の長さが2丈あまりもある20歳ばかりの美女に出遭いました。
猟師はこれぞまさしく湖の主の大蛇に違いないと、狙いを定めて鉄砲を放ちます。
どんっ、と女は胸板を撃ち抜かれ、そのまま水中に消えていきました。
すると、途端に空に雷鳴が轟き、波は荒れ、黒雲立ちこめ、水煙が空に届くほど湖水が沸き立ちました。
驚いた猟師は一目散に逃げ帰えるのでしたが、幸いにしてその後は何の祟りも無かったと云うことです。
これは江戸時代中期の書物『老媼茶話』に語られる一節です。
老媼茶話は有名ですよね ( ̄^ ̄)ゞ
いいねいいね
そうなんですね、ここで調べるまで、僕は知りませんでした。
いいねいいね: 1人
CHIRICO氏が知らないことがあるんですか (・・?)
いいねいいね
知らないことばかりなので、旅しています。
いいねいいね: 1人