「幾人の涙は石にそそぐとも その名は世々に朽ちじとぞ思う」- 松平容保 –
慶応4年(1868年)の1月3日に起きた「鳥羽伏見の戦い」は、6日に薩摩藩と長州藩を中心とする新政府軍の勝利となり、15代将軍徳川慶喜を擁する旧幕府軍は敗れ、江戸城が無血開城された。
しかし新政府軍の勢いは止まらず、矛先は東北へと向かう。
中でも会津藩藩主「松平容保」が用いた、京都見廻組および新撰組への恨みは深かった。
8月23日朝、新政府軍は若松城下に突入し、熾烈な戦いとなる。
会津藩は劣勢となり、予備兵力として16歳から17歳の武家の男子によって構成された「白虎隊」も投入することが決められた。
もはや籠城戦に臨むしかなくなった会津藩では、足手まといとなるのを苦にした西郷頼母の母や妻子など一族21人が自刃し果てる。
白虎隊士中二番隊の隊士のうち20人が飯盛山に逃れるも、敵に捕まり生き恥をさらすことを望まず、武士の本分を明らかにするために飯盛山で自刃を決行した。
若松城が開城されたのは、その一月後のことだった。
会津若松市の中心部から少し東側には標高314mの小ぶりな山があります。
その形がまるで飯を盛ったようだったので、付いた名が「飯盛山」(いいもりやま)。
そこは白虎隊自刃の地としても知られる、会津民にとって悲しい歴史の地となります。
標高314mとはいえ、上まではハードな階段を登らなくてはなりません。
が、有料の動く歩道が階段に併設されているので、楽に登ることが可能です。
上った先にある広場。
広場の真ん中にあるのは、優しい顔立ちの「白虎観音」。
その横にあるのは1928年に、白虎隊士をたたえてローマ市民からとして、当時のイタリアの首相ムッソリーニから贈られた石碑です。
この中心の円柱は、79年のヴェスヴィオ火山の爆発で埋没したポンペイから発掘した古代ローマ宮殿の柱だそうです。
そして左手奥にあるのが「白虎隊十九士の墓」。
線香を購入して、墓前に捧げます。
慶応4年(1868年)3月10日、鳥羽伏見の敗戦により、会津藩は軍隊の再編成をおこないました。
そこで誕生したのが、「玄武隊」「青龍隊」「朱雀隊」そして「白虎隊」の4隊です。
それぞれの隊は年齢によって編成され、更に各隊は身分階級によって、「士中」「寄合」「足軽」の3隊に分けられました。
白虎隊は16歳から17歳の武家の男子総勢343名によって構成されたといわれており、少年兵ばかりの予備兵力でした。
しかし会津軍の劣勢は著しく、白虎隊も各所に配置され、苦戦を強いられました。
装備に関しても、最新装備の新政府軍に対し、東北諸藩のほとんどが旧式軍備のまま戊辰戦争に突入しており、白虎隊が装備した火器は旧式銃(ヤゲール銃、ゲベール銃の短銃身化、前装装条銃)のみで、これは火縄銃よりはましというレベルの装備であったといいます。
会津藩は若松へと至る街道口に主力部隊を展開させましたが、圧倒的な物量で迫る新政府軍に対抗し得ず、重要な進軍路であった十六橋を落とすことにも失敗。
ついには若松城(鶴ヶ城)にて籠城戦を強いられることになっていきます。
この時、十六橋に向かった白虎隊士中二番隊の37名のうち、入城を果たしたのが17名、負傷者を抱えながら飯盛山へと落ち延びた者は20名だったということです。
飯盛山に至った20名の少年は、生き恥は晒せぬ、と皆自刃をし、喉を貫いた1人「飯沼」少年だけが奇跡的に蘇生されました。
故に、ここには飯沼少年を除いた19士の墓が並んでいます。
壮絶かつ、尊い死を悼むこの場所で、近年誠に不届きな出来事が起きております。
2019年6月3日のツイッターで、飯盛山の墓守を代々務める「飯盛尚子」さんが表したのは、
「中学生が狛犬に跨がり 教師が注意するどころか記念写真を撮る 注意すると不思議な顔して『え?ダメなんですか?すいませーん!』と教師がニヤニヤ謝る 『怒られたからおりてー』と生徒に笑いながら言う」
というもの。
また、墓石に上がって記念写真を撮る子供の姿などもあり、母親に注意すれば「はぁ?なんでダメなの?こっちは客で来てやってんだけど」と逆ギレされるのだそうです。
他にも雨が降ってきそうだとしてビニールシートを張ろうとした人が墓石にロープをくくりつけたことがあったり、また飯盛さんが丁寧に書かれていた白虎隊御朱印に対し、順番待ちの人から「一人に何分かけているんだ」とか「手際が悪い」などのクレームが寄せられたり、ネットオークションで高額転売されていたりと、現代の底辺の問題を凝縮したような出来事が立て続けに起きています。
日本人でなくとも、何人であっても、ここに訪れればここは墓前であり、心静かに冥福を祈る場所だと自ずと知れること。
日本人であろうと、外国人観光客であろうと、在日人であろうと、そんなことは関係ありません。
御朱印騒動にしても同じこと。
思い至らず過ちを犯してしまったのなら、せめて素直に謝るのが人としての心です。
死者に対し悼むことができない人の、なんと心の貧しいこと。
「亡くなった方は『苦しいです』ということひとつ言い返せません」、そう飯盛さんは話されています。
十九士の墓のそばには会津藩少年武士の慰霊碑や、
戊辰戦争時に自刃した武家女性や討ち死にした婦女子約200名の霊を慰める「会津藩殉難烈婦碑」、
白虎隊に属した遠藤敬止の弟「遠藤嘉竜二」の墓碑などもありました。
白虎隊十九士の墓から少し下った場所に、隊士たちが壮絶な最期を遂げた「白虎隊自刃の地」があります。
その途中に、自刃を決行した20人のうち、唯一蘇生し生き残った「飯沼貞吉」(のち貞雄と改名)の墓が十九士を見守るようにありました。
一般に白虎隊は若松城周辺の火災を目にし、落城したと誤認して悲観したと伝えられていましたが、飯沼が晩年に重い口を開き、伝え残した手記『白虎隊顛末略記』でその真実が語られています。
飯盛山に至った隊士たちは、若松城に戻って敵と戦うことを望む者と、敵陣に斬り込んで玉砕を望む者とで意見がわかれ激論になったそうです。
しかし、いずれにせよ、負け戦覚悟で行動したところで敵に捕まり生き恥をさらすことになるだけと思い至り、武士の本分を示すため、ここで自刃を決行したということです。
飯盛山に他の墓が多いのは、もともとここは約1700年前につくられた前方後円墳で、隠れキリシタンの祠もあり、地元住民の共同墓地でもあるからなのだそうです。
現在は史跡として県内外から多くの人が訪れていますが、会津の人にしてみれば、ここは観光地ではなく、古くから人の死を悼む場所なのです。
鳥羽伏見の戦いに始まった戊辰戦争は会津ほか東北各地を火の海にし、北海道函館にまで及んだ後、1869年6月に終結しました。
この函館の戦いで土方歳三も戦死しています。
戊辰戦争により、新政府は旧幕府勢力を完全になくすことに成功しました。
しかし今度は新時代に不要になった士族による反乱が起きてしまいます。
戊辰戦争をともに戦った仲間同士が争うこの内乱は、1877年に西南戦争が終結するまで続くことになりました。
西南戦争では警視庁抜刀隊に所属した元会津藩士が、政府軍として西郷軍との戦いに挑む事になりました。
彼らは戊辰戦争の仇を討たんとばかり意気込み、剣技で薩摩隼人に立ち向かい、「田原坂の戦い」を勝利に導いたといいます。
飯沼貞吉は維新後を生き抜き、日清戦争で陸軍歩兵大尉として出征しました。
その際、ピストルを携帯するように言いつけられますが、「自分は白虎隊として死んだ身である」と断ったという逸話が残っているそうです。
白虎隊少年の像、および白虎隊十九士の墓、飯沼貞吉の墓が望む先には、彼らがその命の尽きるまで忠義を尽くした若松城(鶴ヶ城)が見えていました。