「禅」とは何ぞや。
南インド出身で中国に渡った「達磨」を祖とする、坐禅(座禅)を基本的な修行形態とするものであるそうな。
日本では鎌倉武士や庶民などを中心に日本仏教の一つとして広まったということです。
その後、五山文学や水墨画、枯山水といった禅僧による文化芸術活動にまで、その領域は広がります。
が、そもそも「禅」とは何ぞや。
西洋や日本のビジネス経営者などが、「マインドフルネス」を置き換えた“ZEN”という、聞こえの良い言葉を多用したことによって、余計になんだか分かったような分からないような、そんなジャンルを示すものに今やなっています。
僕自身も何度か、宿坊で坐禅を体験させていただきました。
そこで教えていただき知ったのは、人の心には本来「仏性」が宿っており、それに近づくための修行の一つが坐禅であり、禅であるということです。
足を組んで、神妙な面持ちで「自分を見つめ」「心を見つめ」ることで、何かのひらめきを得ようとする行為を禅だと思っている人が多いのですが、それは「マインドフルネス」にあたります。
禅はこれとは逆で、「自分を捨てる」「心を忘れる」ことから始まる行為なのです。
「集中」ではなく、「解放」に近いもの。
で、結局のところ禅で得られるものは何なのか?
僕が坐禅で知ったのは、「何も得られないことを得る」、「何を得ずとも、既に在る」ということでした。
ところで坐禅はお寺でなくてはできないのか?
そんなことはありません。
気軽にどこでも、隙間時間でできるものです。
坐禅のおすすめアプリで「雲堂 – undo -」というものがあります。
鐘の音とともに線香が煙るエフェクトが表示されるだけの、タイマーアプリですが、実に丁寧に作られていて、禅の世界へ誘ってくれます。
僕の場合、15分の設定で行なっています。
開始5分くらいで自然と雑念が消え、
10分くらいで視界の輪郭と色が曖昧になってきます。
そのままあと5分、ゆらゆら揺れる煙のエフェクトをただ見つめるのみ。
僕は坐禅は、対馬の「西山寺」の御住職に教えていただいたように、「ブレた心と体を、自身の真ん中で一致させる」ものである、と解釈します。
雑多な日常に、気がつけば心も体も偏って凝り固まってしまっています。
一度全てを解き放ち手放すと、まっすぐになった自分を見つけることができます。
結局、僕らは必要なことができるだけの体に生まれてきていて、必要なことしか出来ないように出来ている、そういうことなのだと気付かされます。
それを知ると、この世界で息をするのが不思議と楽になり、そして自分で思っていたよりも、僕は自由自在だと、自覚できるのです。
Molto interessante
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Lo “禅” è difficile😅
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Si.. difficile! Ma interessante 😀
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