北海道の西に、日本海に突き出た積丹半島。
そこにある神の岬を訪ねてきました。
目的地に向かう途中、「神威神社」(かむいじんじゃ)がありました。
小さな神社ですが、参道は掃き清められています。
当社の祭神は「大綿津見神」(おおわたつみのかみ)、「志那津彦神」(しなつひこのかみ)、「志那津姫神」(しなつひめのかみ)、「豊受姫神」(とようけひめのかみ)。
とある義経伝説には、源義経は衣川で死んでおらず、文治年間に夷地に落ち延びたとするものがあります。
当社社伝には、義経一行が神威岬にさしかかった際、神威岩に大綿津見神・志那戸神を奉斎し航海の安全を祈願したところ通過できた、と伝えていました。
その後、松藩の地頭「藤倉近兵衛」が神殿を神岬村に創建し、後に現在の来岸村に遷されたそうです。
さて目的の場所、「神威岬」(かむいみさき)に到着です。
途中の道沿いでは、キタキツネの出迎えがありました。
しばし歩いて岬の先端まで向かいます。
と、「女人禁制の門」と呼ばれる門がありました。
かつてはこの先へは、女性は立ち入れられなかったそうです。
でもご安心を、今はどなたでも通行できます。
伝承によると、かつて日高地方のアイヌ首長の娘「チャレンカ」が、旅立つ源義経を慕ってこの岬まで追ってきたそうです。
やっとの思いで岬にたどり着いたチャレンカですが、時すでに遅く、義経は海の彼方へ去った後でした。
そのことを知ったチャレンカは絶望のあまり、岬の先から海に身を投げ、ついには神威岩になったと言い伝えられます。
神威岬の沖合は、西蝦夷三険岬の一つとされる海難事故多発の難所であり、これらの事故は女性を乗せた船にチャレンカの怨念が嫉妬することで起きるのだという迷信が生まれました。
これが神威岬が女人禁制にされた理由だと云われています。
しかし本当の理由は、ニシン漁などの権益を守りたかった松前藩による規制であるとも考えられています。
岬に向かって左側には雄大な海が広がり、
右側には険峻な顎門の牙のような岩が切り立っています。
その入り江になったところをよく見てみると、洞穴があるのが分かります。
この洞穴は「念仏トンネル」と呼ばれ、神威岬の灯台守が高波で遭難したために、安全に通行する目的で作られた手彫りのトンネル。
かつては浜に降りてこの穴を通行し、その先の「水無しの立岩」(女の一生岩)の美しい姿を望むことができたそうです。
岬のこの先をいくら掘っても真水が出ないという由来の立岩は、念仏トンネル側から見ると、とてもほっそりと艶やかな姿をしているそうです。
しかし残念ながら、今は落石の危険性からトンネルの通行が禁止されています。
が、ここは自殺の名所でもあるそうで、むやみに近づかない方が無難なのかもしれません。
さらに歩進めると、天空に道が伸びた、美しい岬の姿が見えてきました。
この景観、今は失われた、阿蘇の「ラピュタの道」を彷彿とさせます。
女人禁制の門から岬先端部まで続く尾根沿いの遊歩道は「チャレンカの道」と呼ばれ、距離770m、約20分ほどの道のりとなります。
普段は歩きやすい道なのですが、風が強い日も多く、強風時や悪天候時は立入禁止となります。
道は整備されているとはいえ、なかなかのアップダウン。
後ろを振り返れば、ここまでよくぞ歩いたものと感嘆します。
なにやら人工物が見えてきました。
これは北海道で5番目に古い「神威岬灯台」で、明治時代の1888年8月25日に設置されたものです。
かつては灯台守が横の空き地に住居を建て、住み込みで勤務していたそうです。
しかし市街地までの買い出しには4㎞も険しい道を行かなければならず、雨水を生活水とし、食料品は自給自足、米や調味料など日用品は木船の備船で買出す生活を行なっていたそうです。
そんな折、大正元年(1912年)10月29日、神威岬灯台の草薙灯台長夫人及び土谷補員夫人とその二男(三歳)が天長節(天皇誕生日)のお祝いの買い出しに余別市街へ行く途中、ワクシリ岬付近で荒波に足をさらわれ海中に落ちて溺死するという事故が起きました。
これが念仏トンネルを掘るきっかけとなります。
その後、大正後期の1923年、昭和中期の1960年に2度目の建て替えが行われ、直後に無人化されました。
灯台まで来ると、もう岬の先端は目前です。
そこに立ってみると、
地球の丸さを実感させる光景が。
「シャコタンブルー」と呼ばれる海の青さの中に浮かぶ岩礁が、身投げしたチャレンカの悲しみが化したと伝えられる「神威岩」です。
神威(カムイ)とは「神」を意味するアイヌ語。
神威岬は、古くは「御冠岬」(オカムイ岬)とも呼ばれていました。
とするなら、神威岬に宿る神はチャレンカの御霊なのか、はたまたチャレンカを岩に変えた大きな力そのものなのか。
初夏にはエゾカンゾウ、冬にはオオワシやオジロワシが咲き誇るという神威岬の斜面からは、秋の爽やかな風が吹き抜けていました。
神威岬、いつか行ってみたいと思っていた場所です。
いつか、行ってきますね。
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はい、ぜひお勧めします!
行かれるのなら晴れの日が積丹ブルーがとても美しいので良いですよ。
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こんばんは!
コメントは控えようと思っていたら😬何と積丹ではありませんか?!
元道産子としては黙っていられません。
私が高校の時、歴史好きな先生の話では、義経が絶世の美女のアイヌの女性と恋に落ち(アイヌの方は若い頃絶世の美女が多いそうです。そして、オイルのが早いと先生が仰ってました。)追っ手が……二人は心中を選び岬から身投げしたけれど、義経だけが助かったという話を今日まで信じていました ( •᷄⌓•᷅ )੨੨
この辺から小樽の赤岩にかけ、龍神様が居ります。(と思ってます)
なのでドルヴィダ族が、この辺りを通ったのではないかと思ったりしてます。
既に行かれましたかも知れませんが、蘭島のフゴッペ洞窟、小樽手宮の古代文字、忍路の環状列石 等々……正に自然崇拝。
アイヌの祭祀跡に神社が建っているそうです。
しかし、よくぞ行かれましたね。次回が楽しみです!
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おはようございます、nokananさん。
確かに、小樽から積丹半島にかけては、天に突き出た岩々も多く、ドルヴィダ族がここを素通りしたとは思えませんね。
今回は広範囲の北海道旅でしたので、僕はこの辺りを車で通過しただけでしたが、勿体無いことをしました。
教えていただいた場所はどれも伺っておりません。
これはまた宿題ができましたね。
時間的・金銭的にも海外までは旅する余裕のない僕ですが、国内でさえ、旅しても旅しても次から次と課題を与えられ、のんびりする暇もありません。
いえ、愚痴ではなく、嬉しい悲鳴です(笑)
蘭島のフゴッペ洞窟、小樽手宮の古代文字、忍路の環状列石・・・僕のグーグルマップにマークしておきます。
北海道については意外に情報が少なくて、他にもそんな場所がありましたら、是非お教えください!
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chirikoさん、おはようございます。
そうだったのですね。宿題の嵐ですね~。
フゴッペ洞窟の割と近くに金吾龍神社というのが在りまして、そこは分社が代々木にあるという、怪しい神社がありまして、どんなものなのか伺いたいと思いつつ、道場破り気分になりそうなのでずっと考え中です。
地元の人すら知りませんから。
その場所は特別な場所に思えますが、どうなのでしょうと……気になってはいます。
明治時代に、高野山の高僧が1年間籠った洞窟が小樽の赤岩と云う所に在ります。
その逸話は、【小樽 赤岩山 白龍神社】で検索してみて下さいませ。何と今ではロッククライミングの聖地だそうで、相当な筋力がなければ行かれない、その先には絶景が待ってます。お不動さまがお祀りされているようです。
小樽ブルーです。
誰でも行くことが出来る祝津パノラマ展望台が有り、その横には、自殺しようとして行ったけれど、踏み留まると云う絶景です。
実は、私はchirikoさんと同業者なので、何もかも一緒です。違うのは、お店の規模です笑 私の周りには居ないので、大仰に言えば驚愕しましたよ。
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これは嬉しい、ご同業だったのですね!
と言いましても僕の場合は少々変わった経緯がありまして、大手製薬会社の営業職を5年、美容学校学科講師を3年、そしてタカラベルモント営業を1年経験してからの美容師でした。
30過ぎてから10代の子にシャンプーを怒られつつ習い、執念で今に至っています(笑)
かつては完全週休二日、10連休も有り、ボーナスも有りの環境でしたが、今思えば心は枯れていたようです。
当時の自分よりも、今の自分の方がはるかに充実した人生を歩んでいます。
福岡から東北へは、ほとんどが1泊2日の旅でしたが、休暇や予算が限られていても、気持ち次第でなんとかなるものだと実感します。
日本中を旅して、今ではそこらの人たちよりも、深く日本を知っている自負があります。
が、それでも小樽の龍神域のように、未だ知らないことだらけなのも事実。
ですからnokananさんのようにいただける情報は、宝物なのです。
本当にありがとうございます!
金吾龍神社のそばには「あらはばき神社」の奥宮なんてのもありますね。
アラハバキ信仰はナガスネ彦とされる「大彦」の子孫らが東北から北海道にかけて、出雲のサイノカミを祀ったものだという話です。
とても興味深いですね。
また、日本一危険な神社とされる「太田神社」参拝を尻込みしている僕ですが、白龍神社と合わせて覚悟を決めなければならないようです😅
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営業職から、執念で現職に至り、楽しく今を生きる!素敵ですね。
道理で、美容師にしては洗練された文章(袋叩きに遭いそうですが。)師匠とお呼びしたいです。
アラハバキ信仰を、教科書(大元出版の本)を読んだ時、一番思い付いたのが、金吾龍神社で、それは取って付けた様なものと解釈していましたが、
大彦の子孫が北海道にもサイノカミを祀ったとなると、とても嬉しくなりました。
陸路では無く、北前船の様な航路北陸から。もしくは、その頃からアイヌ・・・・もしくは血縁関係が有り貿易を行っていたのかも、なんて思ったりすると血湧き肉躍るです。ふっ
余談ですが、私の母方の曾祖母は、明治の頃に富山から余市に来たそうで、聞いた時は明治に?
と思いましが、今ではもしかしたら・・・・・?なんて思います。
何と!曾祖母は龍神信仰でした。床の間にその場を設けていた記憶がうっすらと有ります。
大彦の子孫だったら良いなぁ。
実は教科書を読み始めて2週間後に、長野へ行く予定でした。大彦のお墓の話を行く、1週間前弱に読み、速攻で行って来ました。
勿論、chirikcoさんのブログも参考にさせて頂きました。
そこでは、本当に不思議な出来事が起こり、未だ興奮冷めやらずです。その節はお世話になりました。
私も1泊2日も旅です 笑
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それは、嬉しいですね!
検索してみたら、Windowsでは開けないのかもです。私の名前は埼玉を走っていたらナビにその名前が出てビックリです。
鎌倉時代の武将ですが、叔父は清和天皇の血筋だと言ってましたが眉唾です。
美保へは行ってないのですよ。教科書を読んで以来、新たな気持ちでお伺いしたいと思い、調べて、美保泊まり早朝に参拝したいと思っていたら、お師匠様のブログで見ました。ありがとうございます!
美保館に泊まりろう!益々行きたい気分満々なのですが、まだ機は熟していないようで、お呼びがかかりません。
出雲大社と云うより、出雲の土地の違和感なのか暗さなのか、今考えると出雲の人達の無念さなのかも知れません。
北島国造神社の先に、山神社というところがあります。そこで、元禰宜さんという方に偶然お会いしまして、銀杏の葉の話になり、「昔、大社の中の大木が腐って倒れた」話をお聞きしました。
え?!聖域で?何故?と思いましたが、今ではナルホドな~と思います。
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