其処に棲むのは神か魔人か。
北海道旭川市にある「神の住む場所」と言い伝えられる「神居古潭」(かむいこたん)を訪ねました。
神居古潭とは、アイヌ語に日本語を当てはめた地名のひとつです。
「カムイ」は「神」、「コタン」とは「村・集落」の意味となり、直訳すると「神のいる村・集落」ということになります。
実際に神居古潭を訪れてみると、そこは石狩川渓流の一端であり、白い橋が架けられています。
カムイの名前が付けられているということは、つまりここは往古にアイヌたちが神を崇めた場所であるということです。
橋に向かって歩いていくと、人数制限を促すちょっぴりおちゃめな看板と、
「パラ・モイ」というアイヌ語を説明した案内板があります。
パラ・モイ=広い湾を意味しているそうですが、それがここでは特別な意味があるからあえて説明している、とみるべきでしょう。
思いの外、老朽化した橋を渡ります。
下を見れば、白骨化したような岩盤が見えます。
何故アイヌは、ここで神に祈ったのか。
ここは、石狩川が石狩平野へと流れていく途中の渓谷であり、川の流れは細くかつ急になっている場所になります。
アイヌの主要な移動手段の一つが舟による水上交通でしたが、神居古潭は彼らにとって最大の難所であり、しばしば犠牲者が出たと云われています。
下流に向かって大きく左にカーブしたこの場所がパラ・モイになっていて、川の最深部は水深70mにも達するそうです。
アイヌは無事にこのパラ・モイを通過できるよう神に祈ったことから、カムイコタンという地名になったとする説が有力なようです。
橋のたもとからパラ・モイ上部を眺めみると、切り立った崖のような大岩が見えます。
このパラ・モイを見下ろすように鎮座する大岩は「神居岩」と呼ばれています。
神居古潭は、約1億6千年前に生まれた海洋プレートが数千kmも移動し、約1億2千5百万年前までに大陸プレートと衝突した場所だということです。
そう言われてみれば、確かに長野の分杭峠にも似た空気を感じます。
案内板には、北海道指定史跡の「神居古潭竪穴住居遺跡」やストーンサークルなど、縄文時代にさかのぼる遺跡群も近辺に点在していると記されています。
竪穴住居やストーンサークル、磐座信仰は古代出雲族の特徴と酷似しています。
南下するドラヴィダ族の一部が移り住んだのかもしれません。
橋の上から川の表面を眺めると、一見穏やかな流れのように見えますが、そこに複雑な渦が湧き起こっていることが確認できます。
川を下っていたアイヌにとって、一番の難所であったパラ・モイで幾度も事故が起き、たびたび人が亡くなりました。
彼らはこれを、悪い神・魔神の仕業として恐れたそうです。
今でも石狩川で遭難した場合、神居古潭までに救出できなければ助からず、遺体も上がってこないと言われているそうです。
このようなことから、アイヌでは次のような叙事詩「ユーカラ」が生まれました。
かつてこの地に棲んでいた「ニッネカムイ」(ニッネ=悪い/ニチエネカムイ)は、この地に大きな岩を投げ、往来するアイヌを溺れさました。
これを見かねた山の神「ヌプリカムイ」は岩をどかし、アイヌが無事川を越えられるよう促します。
怒ったニッネカムイは、ヌプリカムイと争います。
この時、英雄「サマイクル」はヌプリカムイに加勢しました。
逃げ出すニッネカムイでしたが、川岸の泥に足を深く沈めてしまい、動きが止まったところをサマイクルに切り殺されたと云うことです。
川岸にはたくさんのおう穴がありますが、これはニッネカムイが逃げる時に足を取られた跡であると言い伝えられます。
また周辺には「ニッネカムイの首」や「サマイクルの砦」とされる奇岩も見受けられます。
橋を渡りきったところには、これまた意外な物が展示されていました。
SLです。
これは、1898年(明治31年)に石狩川の北岸に沿って函館本線が開通し、1901年(明治34年)に設置された「神居古潭駅」の名残だそうです。
1969年(昭和44年)、函館本線の線形改良によって当駅は廃止されましたが、
現在は旧線跡がサイクリングロードとなり、またここから神居岩を周回するようにハイキングコースも設けられています。
しかし日中はまだしも、薄暗くなると、この辺りでは妖しげな現象が起きると、まことしやかに囁かれています。
つまり神居古潭は心霊スポットでもあるということです。
往古から多くの命を奪った渓谷。
鉄道が運行されてからも、落石事故で命を落とした人もいるそうです。
「橋の両端からおびただしい数の手が現れ、川に引きずり込もうとしていた」
「近くのトンネルで怪しい人影を見た」
「夜の旧校舎に人の気配がし、機関車の上ではしゃぐ子供が乗っていた」
等々・・・
神秘のパラ・モイは、気軽な気持ちで近づかない方が良い、神聖な場所なのかもしれません。