カタン
カタン
カタタン
君のつま先から弾かれた
小さなかけらは羽ばたいて
吐息のような歌声と
淡雪のような体温と
匂いを乗せて転がって
光たゆたう昼下がり
私に風立ち儚い空へ
最近「絶景」系の雑誌などで紹介され始めている、新フォトジェニックな場所を訪ねてみました。
「東赤谷連続洞門」(ひがしあかたにれんぞくどうもん)です。
訪ねてみると、大きな3つのスノーシェードと小さな1つのスノーシェードが連続してありました。
地図にもその明確な場所は明記されておらず、新潟県道335号滝谷上赤谷線を目指してなんとかたどり着けました。
東赤谷連続洞門は、廃墟を思わせる古びた景観で、不思議な感覚を覚えます。
普通に写真を撮っても絵になりますが、色調を少々変えても楽しい。
ただ、現在も使用されている車道であり、道幅は狭く、しかも割と行き交う車も多いので、撮影者は細心の注意が必要です。
当地を名付け、世に紹介されたのは、おそらく下記のサイトだと思われます。
– スゴログ –
https://www.sugolog.jp/2010/06/014-higashiakatani.html
スゴログさんによるとこの道は、明治時代に鉄山で栄え、昭和には日鉄鉱業に経営された赤谷の鉱山専用線だったものの名残だそうです。
赤谷は最盛期には集落に数百人もの職員とその家族が暮らし、人々は毎日飯豊川の橋を渡って鉱山に出勤していました。
橋を渡った先には建造物が林立し、トロッコや人間がいつも走り回っていたということです。
シェードの天井をよく見てみると、黒く煤けています。
これは当時の蒸気機関の煙によるもの。
そんな細かなところにも、歴史が刻まれています。
深い谷の先に、
二つ目の洞門がありました。
こちらには信号機が設置されています。
それはこの二つ目の洞門の距離がとても長いため。
もともと機関車の単線だったため、道路幅が狭く、中で離合できません。
それで先の見通しがきかないこの洞門は、交互通行のために信号機が不可欠なのです。
それにしても美しい。
スゴログさんでは、当初、このスノーシェードを「東赤谷連続隧道」として公開されていました。
するとその幻想的な美しさから多くの人に再紹介され、「東赤谷連続隧道」の名前が浸透していくことになります。
しかし「隧道」(すいどう)というのは、いわゆる「トンネル」のことで、山など地中を掘って貫通させたものをいいます。
それに対し、山の側面に作られたスノーシェードなどは「洞門」や「覆道」(ふくどう)と呼ぶのが相応しいようです。
スゴログさんでは、より正確性を期すため、「東赤谷連続隧道」を改め「東赤谷連続洞門」として紹介されていました。
ですので、当ブログ「偲フ花」でも洞門のほうを採用して紹介させていただきます。
廃墟感漂う東赤谷連続洞門にて、雑多な日常を鑑みて思います。
人類が滅亡し、人工物が自然に呑み込まれるその刹那に至って、ようやく我々の生み出したものは美を得るのではないか、と。
3つ目の洞門です。
こちらは比較的新しい修復箇所が見られます。
距離もそう長くはないのですが、曲線が柔らかく、僕はこの洞門が一番美しいと感じました。
反響する足音。
素敵な場所であり、人に教えてあげたい欲求に襲われながら、あまり多くの人に詰め掛けて欲しくない、とも思ってしまいました。
スゴログさん、僕がこの場所を知るきっかけを与えてくれて、ありがとうございます!
4つ目の洞門はとても小さいです。
他に人用の小さなトンネルもありました。
一番長かった2番目の洞門の動画を撮ってみました。
動画でも美しさが伝わってきます。
東赤谷連続洞門を名残惜しみつつも後にすると、「景勝清水」という場所がありました。
戦国時代末期に上杉景勝が新発田氏を攻略するため、その支援者である芦名氏の赤谷城を攻略しようとした時のこと。
陣場山の東斜面の一角を、上杉景勝が水を探して槍であちこち突っついたら清水が湧き出てきたと云われています。
現在の景勝清水はその原水から、ここまで引いたもの。
景勝が自ら1万騎の大軍を率いて攻撃したところ、城兵は赤谷城に立て籠り、わずか一日で落城、小田切盛昭以下800人の城兵は全滅したと云うことです。
景勝清水向かいの路傍からの景色が、また素晴らしいものでした。
今年の秋は、急激な気温の低下で、標高のある山頂の紅葉と麓の紅葉が一気に色づいて、奇跡的な美しさを見せていると先日のニュースで流れていました。
私たちの世界は間違いなく終焉に向かっていますが、あなたが美しいならまあいいか、とふと思った次第です。
あけましてオメデトウございます。本年もよろしくお願いいたします。
伊那山地縦走115キロのトレーニングでJR柴田駅から梶川ダムまで片道23キロを何往復かしましたが、結局温泉までのルートは昨年は復旧しなかったようです。
冬になるとゲートがしまってしまい、入れなくなる処です。
今年は長野道が雪で3日に渡って通行止めになったので、帰省もないので、年明けは神社巡りしまくる予定です。
越智神社も行きます~
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あけましておめでとうございます♪
元旦に妻に誘われてスケートをしてきました。
最後にカッコつけてバックで滑ってたらケツから転倒、そのまま頭を打っちゃいました。
ちとヤバかったかな、と思いましたが、とりあえず今朝の段階では大きな問題なし。怪我には注意せねばと思い知った年初でした。
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赤谷の温泉ですが、裏劔や、水平歩道と同じで季節外になると、つり橋の床が抜かれます。
通常ですと小屋の営業が始まる山開きの7月近辺じゃないと入れないらしいですね。
今年も南アルプスは山小屋営業停止の可能性が高いので、連休は伊那山地(南アルプスに並走する山脈)、お盆は柴田駅から一泊で赤谷の温泉付きの登山を考えています。
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ちょっとバタバタしておりまして、コメントの返信が遅くなってしまいました。
赤谷、楽しみですね!
しかし検索してみると、「赤谷林道で発生した崩落の復旧工事のため、当面の間赤谷林道及び湯の平登山道を全面通行止めといたします。
また、その間は湯の平登山道につり橋が架からないため、湯の平避難小屋についても当面の間閉鎖いたします。」
とあります。大丈夫でしょうか?
https://www.city.shibata.lg.jp/kanko/yama/1005157.html
一年前の情報なので、復旧していることを願います。
私は広島県の比婆山と出雲の琴引山、他数カ所の登山という、僕にしては結構無茶な旅をしてきました。
比婆山にはイザナミの御陵と呼ばれるものがありましたが、その近くで出雲のサイノカミ信仰の痕跡をみることができて楽しい登山でした。
またネタのストックが増えてしまいましたので、ちょっとブログのペースを上げないといけませんね(笑)
新潟はまだ肌寒いのでしょうか?良い季節になりましたので、お互い旅を楽しみたいですね♪
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わお、今度ここに置く予定を立てています。まさか先に訪れられていたとは。
此処の道は、飯豊山へのクラシックルートになっており、途中に有名な温泉があります。
柴田駅から歩いてレコしようと思っております。
http://yabukarasu.livedoor.blog/archives/cat_45965.html
湯の平温泉のヒラはアイヌの言葉が語源だそうです。
夫婦道祖神、クナトの大神の北限が新潟とされます(引用:新潟の白山神社)ですが、元々は北から南下してきたと思われます。
縄文のDNA、タイプDはアイヌ、沖縄、そして出雲が多いんですよね。
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うわぁ凄いですね湯の平温泉、これ今でも入れるのでしょうか?
行ってみたい!
富氏は長野あたりまでアイヌは居たのだとおっしゃっておられました。
そこで洩矢族はアイヌなのではないか、と思ったのです。
ミシャクジの奇祭は、食した動物を神として崇めるアイヌに通じるのではないかと。
すると、とある古代史通の方が洩矢はユダヤだよ、とおっしゃりました。
まあアイヌももとはユダヤだけどね、とも付け加えて。
ミシャクジの祭りで、かつては大祝を殺し奉って土に返したというあの話が衝撃的で、それはどこからきたのかが謎でした。
遺体を徹底的に嫌った出雲族の祭りではないだろうと考えてのことです。
アイヌかユダヤか。
しかし大祝を土に返す様になったのは、物部族が洩矢を乗っ取ったあたりからではないだろうか、と考えているのです。
それで千鹿頭族は長野から追い出されたのではないかと。
白山神社系も謎に満ちて面白いですね。
竹葉瀬君を追っていて、福井越前町の越知山の越知神社を訪ねると、知る人ぞ知る風の面白いご神職がいらっしゃいました。
その方曰く、越知神社が白山神社の元宮なのだそうです。
越智家は豊彦に后を出しているという話で、とすると菊理姫は豊彦の后神なのではないかと思ったのです。
話が逸れてしまいましたが、東赤谷連続洞門、とてもロマンチックな所でした。
良い旅になりますよう、願っております。
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早速のお返事ありがとうございました。
またまたトニーたけざき状態で目が飛び出ておりますw
>越知神社が白山神社の元宮なのだそうです。
まず、何か行動に移す前に飛び込んできた考えが、古事記のイザナミ、イザナギの喧嘩を収めた白山の姫の下りです。
何事かつぶやいて喧嘩が収まります。
実在する人物としての投影はクナトの大神ではなく、不仲であった物部イクメ王とヒバス姫の事とされるイザナギとイザナミ。
故にイザナミはヒバ山に葬られたと、たとえ話にされたんでしたっけ。
豊玉姫とイニエの子供である竹葉瀬君が急浮上ですね。
そして簡単に検索してみたのです。
マイクロソフトBingで「越智家は豊城入彦に后を出している」で検索
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/masakisi/sisini29.html
九州王朝の内容はともかくとして、
CtrL+Fで用語検索をすると、九州の越智国と、「朝倉」が出てきます。物部朝倉でしょうか?
私の故郷長野県は、諏訪神族、守矢(守屋ではない)、大彦の布勢など出雲族の投影が強いです。
そして忍者も。
サンカと協力したとされる真田氏の神社は「山家」神社で、百名山の四阿山(ヤマレコ有)に鎮座します。
そこには半年ごとに交代する神様が居て、一年のうち、半分は白山神になります。
白山神社は軽井沢(東信濃)、須坂市などの北信濃、大桑村などの南信濃など、ほぼ全域をカバーしています。
もしかしたら出雲が物部氏と和解した事により、出雲族の追及が収まったのかもしれないな~とか考えるようになりました。
諏訪神社の数で言えば圧倒的なのが実は新潟県です。全国で一番神社が多い地域ですが確か40%ほどが諏訪神社。
そして高橋氏。
五泉市の淡島神社には、大国主、事代主、クナトの大神のフルセットが祀られる神社があり比較的古い祭祀形態を残しています。
新潟県の中央区の信濃川が海に面する場所には白山神社があります。
仮説や思い込みですが、古事記の神様の喧嘩を収めた何かに、豊彦の血筋や、物部氏との和解が関係しているのではと感じました。
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宇佐公康著「宇佐家伝承 古伝が語る古代史」によると、
「伊予国の越智氏族が豊予海峡や豊後水道を渡って、豊後国海部郡(今の大分県北海部郡佐賀関町・臼杵市・津久見市および南海部郡蒲江町・佐伯市)地方に進出して定住し、菟狭氏族の海部民(漁民)の生活をおびやかしたので、これを撃退するために、宇佐稚屋は武力を行使して、越智氏族と戦端を開き、両氏族のあいだに数年にわたって戦いが続いた。ある戦いの時に、稚屋は越智宿爾の女で、すでに夫も子供もあった織姫を拉致して凱旋し、いわゆる略奪結婚をして宇佐押人が生まれた。この押人は、『宇佐家本系図』には稚屋の子として明記されている。」
「宇佐家の古伝によると、六世紀の後半、すなわち、欽明天皇の三十二年(五七〇年)二月初卯の日に、朝鮮式神功シャーマニズムの流儀を汲んで、豊前国田川郡勾金の地で神功皇后と誉田天皇の菩提をとむらい続けてきた大神氏の後裔で、朝鮮流シャーマン大神比義の心眼に、三歳の童子の姿となって竹葉の上に立って幻じ、「われはこれ、護国霊験威力神通大自在王菩薩、わが名は誉田天皇広幡八幡麻呂なり」と僣称して出現した、前述の武内宿爾と神功皇后との不義密通のあいだに生まれて、四歳にして早世した誉田天皇ではなく、神武天皇と菟狭津媛命とのあいだに生まれた宇佐都臣命が、越智宿爾の女常世織姫命に要って生まれた神武天皇の皇孫で、本当の応神天皇実は宇佐押人命である。」
とありまして、つまりは伊予国の越智家に豊家が戦争をしかけ、奪った常世織姫に産ませた子が応神帝であると書いてあるようなのです。
大元出版本の『あけぼの』に
『九州の字佐八幡官の社家であった宇佐公康さんが、社家の伝承を本にしている。それにイズモ族の移住について、書いている。すなわち「サルタ族がシベリア方面から、日本列島に移動漂着した」と』と記されている書籍なのですが。
ちょっと頭が混乱してきますね。
そういえば弥彦神社の摂社に上諏訪・下諏訪の社があったのを覚えています。
他の摂社に比べても、特別な雰囲気がありました。
五泉市の淡島神社にも行ってみたいですね。
緊急事態宣言中でなければ、すぐに計画を立てていたと思います^ ^
貴重な情報たくさんありがとうございました!
じっくり調べてみたいと思います。
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素晴らしい投稿、ありがとうございます。
バットレスとかフライング・バットレスなど、古代建築の側面を補強する連続アーチを連想しました。
美しいです。
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行ってみたくなるでしょ!
新潟の結構山の中ですよ。
ただ苦労してたどり着いただけのものは見れました。
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