筥崎宮『玉せせり』

投稿日:

1030428-2020-01-5-07-30.jpeg

令和2年1月3日、福岡市東区箱崎の「筥崎宮」(はこざきぐう)へ参拝してきました。
目的は半裸の男衆たちが組んず解れつの大乱闘を見せる「玉せせり」。
その勇姿をしっかり目に焼き付けてきました。

1031099-2020-01-5-07-30.jpeg

筥崎宮本殿へ、「お汐井とり」の浜からまっすぐに伸びた参道を歩きます。

1030145-2020-01-5-07-30.jpeg

9月12日~18日の「放生会」(ほうじょうや)ではかなり賑わう当社ですが、さすが正月三が日も相当な人出。

1030148-2020-01-5-07-30.jpeg

それもそのはず、筥崎宮は別称として「筥崎八幡宮」(はこざきはちまんぐう)とも呼ばれ、京都の「石清水八幡宮」、大分の「宇佐神宮」とともに「三大八幡宮」の一つとされる神社なのです。

1031078-2020-01-5-07-30.jpeg

創建は諸説あり、由緒には延喜21年(921年)6月21日に八幡神の託宣があり、応神天皇・神功皇后・玉依姫命を祭神として筑前国穂波郡の大分宮から分霊し祀ったのに始まるとしています。

1031086-2020-01-5-07-30.jpeg

楼門の右手、ほとんどの参拝者が素通りする朱の玉垣、その中に神木「筥松」が鎮座しています。
筥松は神功皇后が応神天皇を出産した際の胞衣(えな)を箱に入れてこの地に納め、そこに松を植えたものと伝えられています。

1031098-2020-01-5-07-30.jpeg

箱崎の地名もこの筥松に由来しますが、「筥崎」では八幡神に対して畏れ多いという理由から「箱崎」と表記していると云われています。

1031089-2020-01-5-07-30.jpeg

神門に掲げられた「敵国降伏」の扁額は、元寇の際に亀山上皇によって奉納された醍醐天皇の宸筆とされています。
元寇とは鎌倉時代の文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)の2回に渡って、モンゴル帝国の一部で当時の中華帝国であった元が、九州北部に襲来した戦いのことです。
半島の高麗を従えた元の軍勢は、対馬・壱岐で強奪・強姦・虐殺の限りを尽くし、生き残った島民を奴隷にしたと云われています。
そんな凶悪な元を迎え撃つため、三韓征伐を成し遂げた神功皇后ゆかりの筥松に、亀山上皇は「敵国降伏」を祈願したものと思われます。

1031091-2020-01-5-07-30.jpeg

いつもはこの神門前までしか参拝できませんが、正月は門の中まで入ることができました。

1031093-2020-01-5-07-30.jpeg

初めて中まで入らせていただきましたが、凄まじい威圧を感じます。

1031096-2020-01-5-07-30.jpeg

それは神が、世の不浄に睨みきかせているかのようでした。

1031097-2020-01-5-07-30.jpeg

c1d-2020-01-5-07-30.jpg

1030153-2020-01-5-07-30.jpeg

PM1:00過ぎ、神職の方々が列をなして鳥居から出てこられました。

1030161-2020-01-5-07-30.jpeg

先頭の方が一帯を祓い清めながら、行列は進んでいきます。

1030183-2020-01-5-07-30.jpeg

先に絵馬殿前にて玉洗式を受け、祓い清められた陰陽2つの木玉が、東側約250mにある末社「玉取恵比須神社」に運ばれ、祭事が行われます。

1030189-2020-01-5-07-30.jpeg

この陰陽の木玉というのが「陽玉」直径約28㎝・重さ約8㎏、「陰玉」直径約30㎝・重さ約11㎏もある、ボーリングの球を一回り大きくしたような物になります。

1030287-2020-01-5-07-30.jpeg

玉取恵比須神社で催事を終えた二つの木玉のうち、陽の玉が裸に締め込み姿の「競り子」と呼ばれる男衆達に手渡され、玉せせりが始まります。

1030313-2020-01-5-07-30.jpeg

玉せせりは、正式には「玉取祭」と呼ばれ、九州三大祭の一つに数えられます。

1030333-2020-01-5-07-30.jpeg

起源は定かではありませんが、今から約600年前の室町時代に始まったとされ、昔から盛大かつ厳重に行われている神事なのです。

1030334-2020-01-5-07-30.jpeg

やがて「オイサ、オイサ」の掛け声とともに、陽玉を激しく奪い合う競り子らの姿が見えてきました。

1030371-2020-01-5-07-30.jpeg

玉せせりのコース脇には「力水」と書かれたポリバケツがいくつも置かれており、そこからくみ出した水を、これまた威勢良く競り子たちにぶっかけます。

1030488-2020-01-5-07-30.jpeg

男衆らのあまりの熱気に忘れてしまいそうになりますが、一応今日は1月3日です。
温暖化が叫ばれるとはいえ、真冬も真冬。

1030495-2020-01-5-07-30.jpeg

総勢300人の氏子によって執り行われる玉せせりは、「陸組」(おかぐみ)と「浜組」に分かれて木玉を奪い合い、神門で待つ神職に渡すまで競い合われます。

1030524-2020-01-5-07-30.jpeg

この玉に触れると悪事災難を逃れ幸運を授かると云われており、また神前に納めたのが陸組であれば豊作、浜組なら豊漁と一年の吉凶が占われます。

1030537-2020-01-5-07-30.jpeg

陰陽の木玉の由来については定かではありませんが、神功皇后三韓征伐の際に龍神の捧げた満珠干珠の玉にあやかったという説、

1030556-2020-01-5-07-30.jpeg

また、明応3年(1494年)に正月に博多上須崎の原田某なる人が筥崎宮に詣でお汐井の浜で2つの玉を拾ったという説、

1030581-2020-01-5-07-30.jpeg

天正年中(1573-1591年)、肥前呼子の商人が博多の海上で木玉を拾い、1つを筥崎宮に奉納したが、夜に光を放って鳴動するなどたびたび不思議なことがあるので、他の1つも筥崎宮に納めたと云う説などが伝えられています。

1030637-2020-01-5-07-30.jpeg

それにしても男衆らの荒ぶる筋肉と美しいケツがこれでもかと弾けます。

1030659-2020-01-5-07-30.jpeg

やはり男はケツですな。

1030866-2020-01-5-07-30.jpeg

やがて玉は神門まで届けられました。

1030890-2020-01-5-07-30.jpeg

陽玉が無事神職に手渡されると、競り子たちは「祝いめでた」を歌います。

1030956-2020-01-5-07-30.jpeg

それに合わせて、周りの参拝客からは大きな拍手が鳴り響いていました。

1030979-2020-01-5-07-30.jpeg

博多には博多祇園山笠という勇壮な祭りが有名ですが、それに負けず玉せせりもなかなかなの勇壮ぶり。

1031016-2020-01-5-07-30.jpeg

寒空にびしょ濡れの男衆らは、正に水も滴る美男ぶりで、おっさんな僕でもときめいてしまいます。
今年は豊作が占われたよう。

1031056-2020-01-5-07-30.jpeg

最後に勝ち組らによる3本締めで締めくくられましたが、惜しみない拍手を心から送ったのでした。

1031057-2020-01-5-07-30.jpeg

2件のコメント 追加

  1. 8まん より:

    筥崎宮の神門、敵国降伏はインパクトありますよね。ここも一の宮。印象深い神社でした。
    玉せせり、凄いお祭りですね。写真からだとラグビーのボールの取り合いのようにも。(笑)
    対馬もそうですがこの地も半島を抑える要所だったんですよね。防人達の集った地。
    今の平和に感謝。
    ではでは良い旅が続きますよう。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      先人たちが命懸けで守った日本。
      今の惨状をこのままにしておいて良いものか、考えさせられるところです。
      敵国降伏の神門の前に立つと、神から睥睨されているようで見が竦みます。

      いいね

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください