四国八十八箇所霊場の第十八番札所「母養山 宝樹院 恩山寺」(ぼようざん ほうじゅいん おんざんじ)
麓の方に侘びた感じの山門があります。
山門の先には県指定天然記念物の恩山寺ビランジュが根を張ります。
母君に孝養をつくして、大師が植樹したと伝わる樹木です。
しばらく車で登っていくと駐車場があり、そこからまた少し坂道を歩いて登ります。
本尊は薬師如来。
本尊真言「おん ころころ せんだりまとうぎ そわか」
ご詠歌「子を産める その父母の 恩山寺 訪いがたき ことはあらじな」
寺伝によると、聖武天皇の勅願により行基が薬師如来像を彫造して安置したのが始まりで、当初は災厄悪疫を救う女人禁制の道場であったそうです。
ここから十九番霊場に向かって下る「花折り坂」という坂から上には、女性が入ることは許されていませんでした。
空海がこの寺で修行をしていたころ生母・玉依御前が讃岐の善通寺から訪ねてきました。
しかし寺は女人禁制、母君を招き入れることはできません。
そこで空海は山門近くの瀧にうたれて7日間の秘法を修し、女人解禁の祈願を成就して母君を迎えることができたと云います。
母を慮る孝行息子の話のようですが、僕には仏道を志す者としては我が儘な話のようにも思えてきます。
やがて母君は剃髪をして、その髪を奉納されたので、空海は山号寺名を「母養山恩山寺」と改め、自像を彫造して安置し「我が願いは末世薄福の衆生の難厄を除かん」と誓ったのだそうです。
時は弘仁5年(814年)頃のことです。
しかし無粋を承知で言うなら、弘仁5年(814年)頃といえば、空海は念願だった京に入り、和気氏の私寺であった高雄山寺に居ました。
前年の弘仁4年11月23日は、最澄が空海に「理趣釈経」の借覧を申し入れましたが、「密教の真髄は口伝による実践修行にあり、文章修行ではない」と言って空海はこれを拒否、二人の間が険悪になっていた時期です。
つまり空海は四国で修行などする余裕はなかったのです。
大師堂の手前に「大師御母公剃髪所」の石碑と小さな堂が建っています。
そこには大師作と伝えられる「御母公像」と母君の髪の毛が安置されていると伝えられていました。