あまみやみるや仁屋(にや)
まきよ 選(ゑら)です 降(お)れたれ
百末(ももすへ) 手摩(てづ)られ
又 しねりやみるや仁屋(にや)
ふた 選です
又 新垣(あらかき)の庭(みや)に
まきよ 選です
又 大祖父(おきおふぢ)が庭に
「大昔からの、ニライからおいでになったミルヤ神は、この部落を選んでこそ、新垣の、祖先の神庭に降りたのだ。
いついつまでも末永く祈られてましませ。」
ー 『おもろさうし』 第廿一「くめの二間切おもろ御さうし」~(外間守善校注) ー
久米島の北東にある宇江城岳、その標高約310m山頂にグスク時代の城跡「宇江城城跡」(うえぐすくじょうあと)があります。
見上げるほど高いところにありましたが、車ですぐそばまで登ることができました。
当グスクは、沖縄県内でも最高所に位置する山城であり、久米島のほぼ全体を眺望することができる堅固な天空の城です。
城跡の築城年代は記録がなく不明であるとされていますが、伊敷索按司(ちなはあじ)の長男が築いたものと伝えられます。
14世紀末に「伊敷索」(ちなは)という按司一族が久米島にやってきて、三男二女で島を支配しました。
父親の伊敷索按司は伊敷索城を、長男は中城(宇江城)、次男は具志川城、三男は登武那覇城に城を築き、住民たちから租税を取り立て支配を始めたと云います。
按司とは何か?
グスク時代の神話的伝承・天孫氏王統の物語には次のように伝えられる話があります。
「昔、一組の女神と男神が琉球の島々を造り、後に天帝子という人物が住み着き、三男二女をもうけた。
長男は天孫といい、国君(王)の始めとなり、次男は按司(諸侯)の始めとなり、三男は百姓(平民)の始めとなった。
長男・天孫の家系は、25代・17802年間続いた。」
つまり按司の始まりは、国王家の分家にあたり、皇族の宮家に相当する称号であったと云うことです。
元来琉球では、小さな集落ごとに「ひや」というリーダーがいて、神と交信を行う「神女」とともに祭政一致の統治が行われていました。
そこへ12世紀頃から、沖縄本島に按司と呼ばれる豪族が出現し、武力で各地を支配しはじめました。
やがて按司たちは勢力を広めようと対立しあい混沌の時代を迎えますが、これに終止符を打ったのが「尚氏」でした。
尚氏は、中山王、北山王、南山王らを撃ち滅ぼし、1429年に沖縄本島を統一します。
尚氏に敗れ、本島を追われた按司たちは琉球の離島へと逃げ延びました。
当然、彼らのうち数人の按司は久米島にたどり着き、島を支配し始めます。
久米島の按司時代において、栄華を極めたのが「伊敷索」の一族でした。
しかし伊敷索一族の栄華も、そう長くは続きませんでした。
第二尚氏「尚真王」の1510年、琉球統一の過程で彼らは滅ぼされてしまいます。
宇江城城跡の一の郭、最頂部へやってきました。
ここからは久米島を360度見渡すことができます。
天候はあいにくの曇天ですが、かすかにはての浜も見えています。
曇り空の中でも、田畑と森林が広がる球美の島がそこにありました。
宇江城城跡を少し下ったところに、素通りできない雰囲気の場所がありました。
観音堂だということです。
中を覗くと確かに1体の観音像があります。
かつては5体ほど像があったような形跡も見えました。
が、この雰囲気、観音堂は後に建てられたもので、元は御嶽だったのではないかと思われてなりません。
平和な島に突然やってきた侵入者・按司。
彼らに対して集落のリーダー「ひや」や「神女」は抗ったか。
いえ、彼らは按司らの武力を知ると、積極的に協力したのだといいます。
この辺り一帯をまとめていたのは「堂のひや」という人物でした。
伊敷索の長男は最初、大城山というところに城を建てようとしていたそうですが、堂のひやはオトチコバラという神女を差し向け、「城を建てるのであれば中城御嶽が良いでしょう」と進言させたといいます。
長男が実際に当地を訪れてみると、確かに築城に最適な地、ここに中城(現在の宇江城)を築城することになったのだそうです。
御嶽といえば部落民にとって最も神聖な地、それを外来の為政者にわざわざ明け渡すというのが理解に苦しむところです。
が、その後も堂のひやは中城按司の側近として仕え、租税を取り立たりと積極的に按司に協力していくのです。
しばらく安寧の日々が続きますが、ついに中城城も首里軍に攻め込まれてしまいます。
もはやこれまでと悟った中城按司は、自分の子どもを堂のひやに預けて、城から逃げ出しました。
堂のひやは預けられた子供を髪を結うふりをして殺害してしまいます。
そして自らが中城の主になろうと、中城に上っているときに落馬し、腰に差していた剣に貫かれ死んでしまったと伝えられていました。
久米島の西側、海沿いの断崖の上にある「具志川城跡」(ぐしかわじょうあと)です。
夕日が絶景とのことでしたが、あいにくの天気。
伝説によれば、この城は最初「真金声」(まかねくい)という按司が城主でしたが、伊敷索の二男「真仁樽」(まにくたる)に攻められて落城し、島を脱出して本島に逃れたのだそうです。
糸満の具志川城は、真金声が故郷と同じ名をつけたのだと云います。
この辺りの集落のリーダーに「仲地にや」がいました。
久米島にやってきた真金声は当初、青名崎というところに城を建てようとしていたそうですが、仲地にやも元御嶽の今の場所を進言したそうです。
その後、仲地にやは真金声の側近になり、具志川城跡は中国や南蛮との交流・貿易の拠点として栄えていきました。
具志川城跡が伊敷索按司の次男、真仁樽に乗っ取られると、彼に仕えたのは「よなふしのひや」という者でした。
しかし、首里王府が攻めてきて、具志川城もこれまでとなった時、よなふしのひやも真仁樽を裏切りました。
彼は首里軍に内通し、首里軍の大将にこの城の弱点が城内に通う水道であることを告げます。
この水道をふさげば按司は城の井口に出てくるので、そこを自分が大石を投げ落として打ち殺しましょうとまで進言したと云います。
具志川城跡の階段を上っていると、「トートー石」というものがありました。
今も受け継がれる稲の豊作を感謝する祭「ウチマー」で「君南風」(チンベー)が座する石だそうです。
うねるような特徴的な城壁、
その門をくぐると、
その先は海に向けて開けていました。
久米島集落のリーダー「ひや」らはその時の情勢で主君を裏切る、不義理な人たちだったのでしょうか。
武士道などの一端を知る我々からしてみれば、とても卑怯な印象を受けてしまいます。
しかし古い時代のことを考える場合、今の常識に当てはめてしまうのは正しいといえません。
久米島は小さな島です。
台風の時など、自然の猛威にさらされることもしばしば。
久米島で暮らす人々は、そうした脅威と寄り添って、共存しつつ生きていくしかなかったのです。
そうした自然への畏怖の中から生まれた信仰が自然崇拝であり、アニミズム信仰でした。
これは自然災害の多い島国・日本のすべての土地で生まれた信仰でしたが、こと沖縄・琉球諸島では小島に毎年鬼のように襲い来る台風があり、より濃密な信仰となっていったことでしょう。
濃密な自然崇拝は、神とつながることのできる「神女」を生み出しました。
彼女らは「セジ」と呼ばれる高い霊力を備えていたと云います。
沖縄ではセジは特別なものではなく、誰しもが持ち合わせているという考えられていますが、男性よりも女性の方がより高いセジを有しやすく、女性の中でもさらに強いセジを持つものが神女としての役についたということです。
そうした中、武力を備えた外部勢力による支配は、襲い来る自然災害にも似た状況を感じ取ったかもしれません。
時勢の大波を前にした時、集落のリーダーが選択したのは「セジ」を読み、その時勢に従うことでした。
それが弱き島民らを守り生きながらえさせる最善の方法だと考えたのだと思います。
彼らは卑怯な人というよりは、セジに従い生き残るためのより良い選択をしただけなのです。
そのことを思わせるエピソードが具志川城主、真仁樽按司のその後の話にあります。
彼は首里軍に城を奪われた後、島民の中に逃げ込んで生き残り、その後も子孫を残したと伝えられています。
租税を取り立てていた権力者が失脚すると、彼を追い出すのではなく久米島の民はこれを受け入れたのです。
このエピソードは、島民は決して人でなしだったわけでなく、弱者を守り受け入れる広い懐を持ち合わせていたことを示しています。
具志川城跡を散策していると、久米島出身のお客様からLineをいただき、秘密の場所を教えていただきました。
そこは年に1回、一族が集まる場所なのだそうで、その先にある墓の遥拝所でした。
入っていいよと言われましたが、そこはまるで御嶽のようなセジを感じさせる場所であり、よそ者の僕は外から眺めるだけに留めさせていただきました。
今回僕が久米島を訪れようと思ったのは、そのお客様との会話がきっかけでした。
その方が受け継ぐはずであった勾玉が、久米島博物館にあるというのです。
沖縄で勾玉!?
意外でした。
これまでの沖縄旅で、古代琉球王国の信仰は、古代日本の信仰、特に出雲王国時代の信仰との共通部分が感じ取れるとは思っていましたが、まさか沖縄に勾玉までもあったとは。
で、訪ねてみると確かにありました。
美しい勾玉です。
ここにある勾玉などは、今なお続けられているノロの祭祀に使われ、生きているのだと説明されています。
実は僕のお客様は、久米島で最高位のノロである「君南風」を受け継ぐ血筋の方だったのです。
そのお客様とは長い付き合いですが、教えていただいたのは最近のこと、驚きました。
沖縄・琉球の島々で、集落に最初に住み始めた家を「根所」(ニージュ)と呼びました。
その家の男主人を「根人」(ニール)といい、この家の女性から「根神」(ニーガミ)を選んだと云います。
根神は神女として、御嶽で身の安全や豊作などを祈祷しました。
御嶽とは神女がニライカナイなどの神と交流する聖域であり、神々が降臨する場所を「いべ」と呼びました。
いべと現世の間には、境界を示す石垣が置かれています。
このように元来の琉球諸島は神女を中心とした祭政一致の自治が行われており、母系社会でした。
しかし12~13世紀ごろ、武力を持った支配者、「按司」が現れます。
按司たちは集落の支配権を得るものの、部落民を統治下に置くため、この神女を統治利用することになります。
自分の血縁者、または親近の者を神女に任じ、祭祀させるようになっていったのです。
いつの世も、民衆の心までも支配する有効な手段は宗教でした。
特に琉球民にとって神女の霊力「セジ」の力は絶大だったのです。
このように政治的支配のための神女官僚組織を完成させたのが、琉球全土を統治した尚氏でした。
1429年以降、尚氏は琉球各地に仏教を振興させると同時に、神女組織のトップに自分の妹を据えます。
この妹がかの「聞得大君」(きこえおおきみ)であり、ノロの頂点でした。
久米島の西銘(にしめ)と呼ばれる地区に、「上江洲家」(うえずけ)をはじめとした様々な史跡が集中する場所があります。
上江洲家は1754年頃に建てられた琉球王朝時代の士族の家で、国の重要文化財に指定されています。
上江洲家は江戸時代後期の旧具志川城主の末裔で、代々地頭代(村長)を務めた旧家だそうで、綿糸や茶などを栽培し、紬の製法を民衆に広めるなど、久米島の産業振興に貢献したと伝えられます。
通常は、一族の末裔に嫁いだおばあさんが案内をされており、上江洲家の歴史を説明してくださるのだそうですが、この日は不在。
屋敷の中に置いてあった箱に入場料300円を支払い自由に散策します。
実は例のお客様はここの末裔にあたる方。
事前に色々お話は伺っておりました。
本当はこの奥の、一族のものしか入れない場所や蔵の中がすごいのだそうです。
敷地内右手にある建物は先祖と火の神を祀ったもの。
琉球の古代信仰では、この火の神がとても重要な位置付けとなっています。
火の神はかまどに見立てた3つの石をよりましとして祀られてきました。
元来この火の神は各家庭の守護神という位置付けでしたが、次第にニライカナイの神々を取次ぐ神へと昇華されます。
「ニライカナイ」とは古代琉球の人々が水平線の向こう側にあると信じていた神々が住まう異界のことです。
ニライカナイは海のかなた、もしくは地の底にあって、そこから人間界に神々が訪れ、様々な豊穣や幸、または台風や干ばつ、疫病などの災厄ももたらすと信じられていました。
そのニライカナイの主神は「にらいの大主」「かないの君真物」(きんまむん)と呼ばれていました。
古代琉球信仰は太陽崇拝でもあり、最高神君真物は太陽神です。
もともとは、太陽崇拝と火の神信仰は別のものでしたが、やがて火と太陽の類似性から両者が結びつき、火の神は君真物の分身のような位置付けになっていったと思われます。
火の神は琉球の各家庭、各集落に祀られていましたが、やがて明治時代以降は「ノロ」の家にだけ祀られるようにになっていきます。
久米島で、この神女・ノロのの頂点にいたのが「君南風」(チンベー)です。
『君南風由来並位階且公事』よると、「神代に三人の姉妹の神がいて、その姉妹のうち、姉は首里の弁ケ岳に住み、二人の妹は久米島に渡って来た。そのうちの一人が君南風となり、久米島各地の神女を統治したが、もう一人は八重山のオモト岳の神になった」と記されています。
つまり最初の君南風は首里王府から政策的に派遣されたノロだった可能性が濃厚です。
君南風の有名な伝承では、1500年の八重山で起きたオヤケアカハチの反乱での活躍があります。
琉球統一をもくろむ首里王府に反旗をひるがえす八重山の按司「オヤケアカハチ」。
彼を征伐するべく首里王府は軍を差しむけるのですが、その際に首里の神から「八重山の神がなびけば、人間は自然と降参するから君南風を連れて行け」と神託が下ったそうです。
八重山討伐隊に参加することになった君南風。
そこで君南風ノロ隊vs八重山のノロ集団の呪術合戦が繰り広げられ、君南風は見事勝利を収めたのだと伝えられます。
古代琉球のことを正確に知ることは、非常に難しいと言えます。
それはこれまでに述べたような時代の変遷があり、統治者も変わり、災禍もあり、残る資料はごくわずかであるからです。
その中で貴重な資料の一つとして『おもろさうし』があります。
『おもろさうし』は、琉球王国第4代尚清王代の嘉靖10年(1531年)から尚豊王代の天啓3年(1623年)にかけて首里王府によって編纂された歌謡集で、歌を意味する「おもろ」と、大和の「草紙」に倣った「さうし」を合わせて命名されたとされます。
その内容は、ノロたちが祭祀で歌っていたとする各地の「祝詞」(うむい)を集めたもので、沖縄の古事記・万葉集などと言われています。
主にひらがなで書かれ、わずかに漢字が混じるもので、今では使われていない琉球古語が多く含まれ難解なものとなっています。
琉球王国の民俗の実態をうかがうことのできる数少ない第一級の史料のひとつであり、現在ではその全訳が3種類存在しますが、そのひとつ「外間守善校注」本が岩波書店から購入できます。
「外間守善」(ほかましゅぜん)氏は、日本の言語学者・沖縄学の研究者で琉球文学・文化研究の第一人者。
明仁上皇陛下・美智子上皇后陛下にも沖縄関係で度々進講し、琉歌の添削などもおこなった人物です。
その『おもろさうし』の第21は「くめの二間切おもろ御さうし」として久米島のことが記されています。
冒頭に記されているおもろは
「大昔からの、ニライからおいでになったミルヤ神は、この部落を選んでこそ、新垣の、祖先の神庭に降りたのだ。
いついつまでも末永く祈られてましませ。」
というもの。
ミルヤ神はニライカナイの最高神「君真物」を指しているようで、ミルヤ神が降り立ち、久米島のリーダーを指名したという庭が西銘にありました。
沖縄の聖域というのは、こういうあっけらかんとした場所も多く、そこに神秘性を感じるかと言えば、感じる人にしか分からないような向きもあります。
西銘にはこのような場所が集中してあるので、上江洲家だけでなく、周囲を散策してみると面白いものです。
殿内(どぅんち)というのはノロが祭祀を行う場所です。
琉球統一後、聞得大君を頂点とした神女組織は、1500年ごろ第二尚氏時代の三代目「尚真王」の時代にほぼその形が完成したと云われます。
それは聞得大君の下に「大阿母志良礼」(おおあむしられ)」と呼ばれる三女神官が配置され、さらにその下に「大阿母」(おおあむ)と呼ばれる高級神女が配置された、ピラミッド型の組織体系だったと云います。
この大阿母以上の神女たちを「三十三君」と呼びました。
三十三君は「神女が三十三人いる」ということではなく、「たくさん」という意味です。
八百万(やおよろず)の神々と同じです。
この三十三君の1人に君南風がおり、久米島中のノロを統括していました。
琉球王朝が作り上げた神女組織は世界にも類を見ないほど、大規模なものとなりました。
しかし、栄華を極めたこの琉球古代信仰もついに衰退の時を迎えます。
17世紀の初め、島津軍が琉球に侵攻を開始しました。
対する中山王府は、一貫して和睦を求める方針をとり、全面的な抵抗を試みることはしなかったと云います。
島津は琉球の神女組織を完全に否認し、整理・解体していきます。
その後は戦争などの災禍もあり、ほとんどの神女は職を失いました。
また現代、わずかに残り続けたノロも深刻な後継者不足に悩み、久高島で12年に一度行われる神女となるための就任儀礼「イザイホー」も1978年を最後に途切れてしまっています。
そのような中、久米島の君南風は21世紀の現在においても、かろうじて受け継がれ、祭事が行われています。
琉球三十三君の中で、今も残っているのは君南風だけとなりました。
さて、今回の古代琉球祭祀のあり方を調べるのは、情報も少なく大変苦労するところでした。
が、次のサイトを見つけ、とても参考にさせていただきました。
https://kumejimalife.com(Kumejimalife)
東京から久米島に移住した岡本さんのブログですが、久米島の古代史から観光情報まで、とてもよくまとめられていてわかりやくす解説されています。
より深く古代琉球史を知りたいなら、一読おすすめします。
今の沖縄は「祖霊」信仰の傾向が強くなっていますが、古代の琉球信仰は自然崇拝と「祖神」信仰でした。
亡くなった先祖は霊ではなく神として祀られていました。
これは古代日本における出雲王国や大和王朝時代の信仰と酷似しています。
また母系社会であり、神女が集落の心体の支えとなっていたところも同じです。
さらに祭祀において胎児を模した勾玉が用いられているところも同じとは驚きました。
こうした日本・琉球の古代信仰は「自然への畏怖と感謝」が根底にありました。
また命の誕生の神秘に対して畏敬の念を持ち、死は忌まわしいものではなく、尊いものとして扱われてきました。
故に古代の日本・琉球に天国・地獄のような死後の分け隔ては無く、魂は風になって死者の赴くべきところへ向かえたのです。
故に古代日本でも琉球でも、風葬がなされてきたのだと思われます。
故にあのヤジャーガマはあれほどに清らかなのです。
のちに他宗教の概念がもたらされ、死後も差別される世界が生まれ、人は清純に生きること、陽気さを失ってきました。
自然とはかけ離れたものが神として崇められ、自然は畏怖するものから克服・支配する対象に置き換えられて久しくなります。
近代文明はこれをさらに加速させ、ついに自然に対する傲りは今、頂点に差しかかろうとしています。
傲慢な大人たちは少女を神輿に担ぎ上げ、自然破壊に対する運動を盛んに行っていますが、それも滑稽。
何人も、今の文明、エネルギー文化を手放すことなどできないのですから。
声高に叫んでいる人ほど、スイッチを押せば当たり前のように得られるエネルギーを放棄して、縄文期のような暮らしをする決意など持ち合わせていないのですから。
ならば我々に成せることは何なのか、それはこの小さな島々にかすかに残る往古の痕跡にヒントがあるのではないでしょうか。
失われつつある古代の祈りを再認識し、命を育む自然に対する畏敬の念を思い出すこと。
それを忘れず、人としての真の信仰を見誤らないこと。
それが我々に残された時間を穏やかに過ごし、清らかな死を迎えるための道筋になるのだと、小さく美しい球美の島に残る信仰は僕に教えてくれたのでした。