針尾送信所が大人たちの果てしない労力の産物だとしたら、「無窮洞」(むきゅうどう)は子供達のそれでした。
なぜ無窮洞はこれまでこんなに知られていなかったのだろうと不思議に思うくらい、この素晴らしい遺構は、かのハウスなテンボスと目と鼻の先にありました。
数台分の駐車場に車を駐め、歩いていくとボランティアのおばさまが待ち構えておられました。
ずいずいとやってきて、すごく丁寧に説明をしてくださいます。
驚くべきことに、針尾送信所も無窮洞も、見学料は無料。
せめてもとそれぞれ、ワンコインの募金をさせていただきました。
無窮洞とは国民学校の生徒たちによって校舎裏に掘られた防空壕のことだったのです。
学校の場所は移動していますが、かつてはこの無窮洞の前にありました。
無窮洞は第2次世界大戦中に、旧宮村国民学校(現:佐世保市立宮小学校)の防空壕として掘られたものです。
「無窮」(むきゅう)とは極まりがなく無限という意味で、日本と子ども達の将来がいつまでも栄えるようにとの願いが込められています。
正面岸壁に刻まれた銘は、当時の校長により書かれたものだそうです。
入り口は「嘗胆門」(しょうたんもん)と「敢闘門」(かんとうもん)の二つが造られましたが、嘗胆門の方は半分埋め立てられ、現在は出入りできません。
入り口上部に刻まれた門の銘も今は消えてしまい、かすかに痕跡を残すのみ。
さっそく敢闘門から中に入りますが、その広さと造形に驚きます。
ぐるりと一周するように掘られた洞内。
そこには様々な施設が造られていて、とても子供達が造ったものとは思えないクオリティです。
床には溝が彫られ、滴る水が川に流れるように細工されています。
この上に板を敷いていたということです。
無窮洞は、当時の校長の指導により国民学校の生徒たちによって昭和18年(1943年)から昭和20年(1945年)の8月15日、終戦の日まで掘り続けられました。
中学生の男の子たちはツルハシで少しずつ穴を掘っていき、女の子がクワで壁などを整えていきました。
小学生たちはホゲというザルのようなもので土を外に運び出し、全校生徒600人が入れる広い防空壕ができ上がりました。
幅約5m、奥行き19mの主洞は、まるで地下の教会を思わせる雰囲気です。
側面には水飲場や
明かり棚まで設けられています。
正面の教壇に至っては芸術的とも言える素晴らしい造形で、たとえ校長の指導があったとはいえ、これを小・中学生が造り上げたとは感嘆の意を隠せません。
ただ機能的に造るだけでなく、細部までの美しさにこだわるあたりが日本人の美意識なのです。
教壇後ろの壁面はスクリーンとしての役割を持っていて、当時映画などを放映したそうです。
順路を辿っていくと、奥の部屋に行く分かれ道があります。
書類室では左手に書類棚、
正面に天皇の肖像を飾る御真影棚がありました。
そのさらに奥は
食料庫になっています。
ここは極端に狭く、壁も他の部屋に比べて粗いのですが、それはこの部屋が未完成だったため。
この食料庫を掘っていた時に日本は敗戦し、戦争が終わったのです。
食料庫を抜けると台所・かまどがあり、
かまどのそばには通風口を兼ねた避難道の階段がありました。
上には野菜畑があったそうです。
この地盤は「凝灰角礫岩」(ぎょうかいかくれきがん)という火山灰が固まったものでした。
そのため子供達でもなんとか掘り出すことができたのだそうです。
空襲の際には全校生徒600人が避難しましたが、酸欠状態となったために、農家から「とうみ」という農器具を借りて空気を送り込んだというエピソードも残っています。
当時の子供達ですら、これほどの勇気を持って世の情勢に臨んでいました。
今の僕らが頑張れないはずはない、そう勇気を持たせられるのです。
写真がとても素敵すぎて。
これからも色々な写真とご説明楽しみにしています。
行かれない私が旅をして入る様な楽しみをありがとう!
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