第二の軍艦島、生きた廃墟の島「池島」(いけしま)へ行ってきました。
そこは僕の想像を超えた、驚きのテーマパークでした。
池島は、西彼諸島に属する島で、長崎県西彼杵半島の西方約7kmに位置します。
池島に渡ることのできる港は「佐世保港」(佐世保市)、「大瀬戸港」(西海市)、「神浦港」(長崎市)の3つがありますが、1日の便数や値段から大瀬戸港からの渡航がおすすめです。
大瀬戸港から池島までは25分ほどの航路。
車ごと渡っても往復3000円台だったのでキリコ号も乗せました。
しかし実際に渡ってみると、池島は車だと10分くらいで一周してしまうような小さな島です。
島内を100円で周回するコミュニティバス(日・祝運休)を利用するか、電動自転車をレンタルするか、もしくは完全に徒歩で散策するか、
むしろ車無しの方が身動きが取りやすいと思われます。
島の全貌が見えてきました。
その島影も海に浮かぶ軍艦のようです。
船から見ると、港付近には比較的新しい団地が見受けられます。
池島港は、その岸を見てみると通常の港とちょっと様相が違います。
実はこの港はもともと「鏡ヶ池」と呼ばれる大きな池でした。
「池島」と言うくらいですから、大きな池があったのです。
神功皇后が三韓征伐の帰りに上陸、湖畔を歩み、清き水面に英姿を映されたとう伝説の池。
この一部をぶち抜いて、そのまま港にしてしまおうというワイルドな発想はさすが炭鉱の島です。
港からは池島の象徴の一つ、「選炭工場」が見えていました。
池島港にそって歩いていきます。
現れたのはこの島1番の中心地。
島唯一といえるショッピングセンターやレンタルサイクルショップなどが立ち並んでいます。
島民の皆様からの歓迎のオブジェが出迎えてくれました。
まあ、なんというか、
嫌いではありません、このセンス。
キティちゃんに至ってはもうホラー。
見落としそうな標識がありました。
「殿(とん)のやぐら」跡です。
殿のやぐらとは、池島小番所に出向く大村藩の武士の接待や御用船の船員へのお礼として、花見や磯遊びをするために作られたやぐらだと云われています。
殿のやぐらから右手の道を歩いていきます。
お、なんかおる。
と、白いやつがカメラの視線に気がつきます。
なになに、ちょっとやってきたよ。
も、萌えっ!
なんとまあ、人懐っこいヤギさん達です。
見ればたくさんのヤギがいらっしゃいます。
あらかじめ申しておけば、池島はヤギと猫がやたら多い島です。
猫に至っては住人の数より多いのでは。
さて、ここからは炭鉱の遺構を中心に散策してみます。
緩やかな傾斜地を上っていくと、最初に見えてくる豪快な建造物。
「旧発電・造水施設」跡です。
この男子のロマンを掻き立てるごちゃごちゃ感。
ドーンとそびえる煙突。
エレファンティックなぶっといパイプ。
池島は海底ケーブルにより電力を確保していましたが、停電時の保安電力などの確保のため、この8,600kwの「石炭火力発電所」を持っていました。
また、発電所の排熱を利用して海水を真水に変える造水設備も備えていたそうです。
その造水能力は、1日に1,650tだったというから驚きです。
さらに歩いていきます。
坂道ではありますが、普通に歩いて上れるくらいです。
上り詰めたところに池島事務所・郵便局がありますが、そのあたりから炭鉱敷地を望むと、
からくり時計のような「第1立抗」が見えます。
これは坑内通気の排気と石炭運搬、人の入・昇抗などのために使われたものです。
深さは約600mに至るそうですが、1981年に第2立抗が完成し、人の入・昇抗には使用されなくなりました。
さらに1985年に石炭運搬用ベルトコンベアが完成した後は、排気専用になったそうです。
池島中央会館という建物がありました。
中は自由に入ることができ、講堂には池島の歴史を物語る写真がずらりと展示されています。
また池島で唯一宿泊ができる施設だそうで、金額は1泊3千円台とのこと。
素泊まりのみで調理場は利用可能のようです。
またしばらく行くと、こちらも島内唯一の信号機がありました。
「長崎市立池島小中学校」(ながさきしりつ いけしましょうちゅうがっこう)の登校生のための信号です。
現在の在校生は2名。
元気よく学んで欲しいものです。
と、信号を渡って僕の元にやってきたのは1匹の猫。
人懐っこいというか、完全に野生を忘れています。
島の西端、港の反対側までやってきましたが、ここから先は立ち入り禁止です。
そこにはメカゴジラのような「第2立抗」と
女神像が見えていました。
この女神像が見つめる先は採掘現場になっていて、安全を願う「慈海の像」として1983年に建立されました。
この立ち入り禁止エリアは、炭鉱ツアーのオプションで入れるようです。
少し戻って炭鉱住宅がある丘を上ります。
住宅から第2立抗へ降りる道には
『ご安全に』の看板が。
男たちはこの階段を降りて
炭坑へと向かったのです。
そしてひと仕事終え、妻と子が待つ温かい家庭へ帰っていったのでした。
炭鉱住宅街の一番小高いところに展望台があります。
なんとも厳かな雰囲気の中、
忽然と現れる慰霊碑。
『南の海底に眠る同志の霊に捧ぐ
昭和27年、此所池島に新坑を開発してより既に22年。
祖国日本の経済興隆に盡して来た池島炭鉱の貢献は大きい。
その裏に雄図空しく職場に散った皆さんの功績も亦大きい。
茲に皆さんの生前の御労苦を偲ぶと共に、その霊の永久に安からんことを祈る
昭和49年8月 松島炭鉱株式会社 社長 武冨敏治』
その奥にある展望台からの景色がこれ。
青い空と海の中、
浮かび上がる第2立抗。
風雨にさらされながらも水平線を見つめ続けるその姿は、坑夫たちの勇姿に重なります。
またこの展望台からは、いかにも出雲人が好みそうな岩も見えていました。
なだらかな道を港に向かって降りていきます。
池島にはヤギ・猫の他に、近年イノシシも住み着き出したそうで、その罠があちこち仕掛けられています。
炭鉱の工場群が見えてきました。
巨大な滑り台のような機械。
何に使用されたかは不明です。
また脇にはブチ切れたベルトコンベアらしき骨組みもありました。
さらに道なりに降りていくとロマンを掻き立てる光景が。
銀河鉄道の線路のように、空に向かって突き出たレール。
その脇に佇む青い怪物は
「ジブローダー」。
あ、圧倒的じゃないかっ!
この巨大なモビルアーマーのようなジブローダーは、貯炭場の石炭をかき寄せ、ベルトコンベアに乗せる機械です。
その積み込み能力は1時間500tといいます。
ジブローダーがある貯炭場のそばには「龍神の祠」がありました。
鏡ヶ池に棲んでいたという龍神を祀っています。
遠い昔、対岸の永田の池との間に大きな虹が立つことがあり、龍がいると信じられていました。
元鏡ヶ池の池島港にも、巨大なクレーンが浮かんでいます。
これも石炭を船に積み込むための機械で「シップローダー」と呼ばれていました。
かつては背後からベルトコンベアでつながっていて、先端に取り付けられたトリンマーで、毎時450tの石炭を石炭輸送船へと積み込んでいました。
こんな巨大な機械群がガシガシ動いていたのかと思うと高まります。
上を見上げると選炭工場があります。
坑内から揚げられた原炭を水に浮かせ、その比重で燃えない岩石と燃える石炭に分離していました。
丸い部分は利用した水を浄化する浄水器「シックナー」です。
分離された石炭は、さらに燃焼カロリーごとに選別されていきました。
選炭工場の下には坑道へ続くトンネルがぽっかりと口を開けています。
池島で企画されている炭鉱体験ツアーはここから出発します。
昭和27年(1952年)から開発が開始され、昭和34年(1959年)に出炭開始。
かつては炭鉱の島として最盛期には約8000人もの人々が生活し活気に溢れていた池島。
世界有数の高度に機械化された海底炭鉱として知られており、1990年には総延長距離が96kmに伸びた坑道の移動時間短縮のため、ドイツ製の高速人車「女神号慈海」も導入されました。
これだけの巨大坑内でありながら大きな事故はなかったといいます。
島内の至る場所に設置されたガス漏れ探知機や閉鎖用の扉など、安全性を高めるための設備が随所に設けられていました。
今では東南アジアや中国の炭鉱の人も、池島へ研修に来るのだそうです。
しかしそれでも、鉱山内での小事故が相次いだり、電力自由化により安価である海外炭が多く輸入されるようになり、ついに平成13年(2001年)、九州の最後の炭鉱は閉山となってしまいました。
現在の池島の人口は150人ほど。
栄枯盛衰を感じさせる、緩やかな廃墟化をたどる島の姿が、ここにありました。
素敵な写真です。
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ありがとうございます。
ことあとまだすごい写真がでてきます。
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楽しみ❣️
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今日の記事も面白かったです。まず島民のお出迎えでふきだしました。
ドラえもんとミッキーが可愛いですね。ドラえもんのお口ポッカーン。。
お店のレタリングもユルユルで。
それと対を成すかのように廃墟群の質実剛健さが浮かび上がる感じがしました。
素晴らしい!
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島民のお出迎えモニュメントは、ネットで見るとずいぶん前からあるようですね。
何故に(笑)
池島は3部構成で紹介する予定です。
よっちゃんさんを招待したいくらい、面白いところですよ。
実は一度では飽き足らず、2週続けて渡りました。
何度行っても楽しいところです。
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