梅雨の明けきらない7月下旬、夏の調べを求めて「現人神社」(あらひとじんじゃ)を訪ねました。
現人神社は田園と民家の隙間にちょこんと鎮座した、小さな神社。
しかしとても由緒ある、奥深い神社なのです。
現人神社は最近「町」から「市」になった福岡県の那珂川にあります。
この小社がすごいのは、全国に2千数百社あると言われる「住吉神社」の大元も大元、発祥の地とされるが故にあります。
妻と決別したイザナギは黄泉の国から逃げ帰って、筑紫の日向の橘の小戸とされる檍原(あはぎはら)で禊ぎを行いました。
その時に生まれた神の一柱が「住吉大神」です。
仲哀天皇が九州征伐のため香椎宮に訪れた時、神功皇后に神が降り、「地方を責めても富は少ない、海の向こうの異国にある宝の国を攻めよ」と神託します。
しかし天皇は「高い山に登って海を見たが、そのような国はどこにも見当たらなかった」と、その神託を無視しました。
その結果、仲哀天皇は神に祟られて亡くなるのです。
慌てた重鎮達はもう一度、神功皇后に神を降ろし、祟った神の名を問いました。
その時数体の神の名を皇后は口にしますが、最後に告げたのが「住吉大神」の名だったのです。
神功皇后とその一行は、九州のまつろわぬ民の征伐を果たし、神託の通り遠く海の果ての異国、三韓を攻めるべく準備に取り掛かります。
その過程で、ここ那珂川の地に住吉の神が鎮座しているのを知り、神田に水を引く大事業を行いました。
水路を作り、川から水を引き込みましたが、迹驚岡という所に大きな石があり、それが妨げて神田に水を引き込むことができません。
そこで皇后は武内宿禰に命じて剣鏡を奉らせ、神祇に祈りました。
すると則時に雷が落ち、大石を蹴裂して水が通うようになったと云います。
この水路全体を「裂田溝」(さくたのうなで)と言って、今も那珂川に神代の遺跡として現存しています。
その後、神功皇后が三韓を目指す時、軍船の舳先に住吉大神の御形を祀ったところ、住吉神が現れ、無事、凱旋まで導きました。
故に皇后は再び当地を訪れ、神が人の姿となって現れたことに畏敬の念を表し、現人大明神の尊号を授けたと云うことです。
さて、今日、現人神社を訪ねたのは、境内に夏越大祓に合わせて風鈴が置かれていると伺ったからです。
拝殿の前に木の枠組みが備え付けられ、
青い涼しげな風鈴が吊るされています。
そしてその横には、
境内末社の「地禄神社」に向かって、風鈴のトンネルが作られています。
覆う社叢の緑との調和も美しい。
風鈴は社務所で買い求めることもでき、下の短冊に願い事を書いて吊るしてあるものもありました。
トンネルを歩くと、風に合わせて鳴る風鈴の音が、爽やかな夏の涼を耳元に届けてくれました。
境内をもう少し散策してみます。
風鈴トンネルの横に鎮座する境内社。
手前が「六一神社」(ろくいちじんじゃ)で、「伊弉諾尊」(いざなぎのみこと)「伊弉冉尊」(いざなみのみこと)「速玉男尊」(はやたまおのみこと)「豊受姫尊」(とようけひめのみこと)「軻遇突智尊」(かぐつちのみこと)「瓊々杵尊」(ににぎのみこと)の六柱の神を合わせ祀ります。
現人神社の北側にあたる六一森に鎮座していたものを、天正年間の兵災により遷座したそうです。
祭神は物部・豊系の神を主に祀っていることが窺えます。
奥は「薬祖神社」(やくそじんじゃ)で、「少彦名尊」「玉依姫尊」を祀ります。
そしてトンネルの先にある境内社の「地禄神社」(じろくじんじゃ)の祭神は「埴安姫命」(はにやすひめのみこと)でした。
埴安姫は土師氏由来の神と思われ、他にも「菅原神」「大国主命」を祀る「天満神社」と「大物主命」を祀る「金比羅神社」も合祀されているようです。
このように、出雲系の神々が境内社として祀られているのは、少々意外でした。
境内の裏手側には大きなクスの神木があり、
昔に那珂川市に八十八ヶ所霊場があった名残の観音堂があります。
ここは七十八番の霊場ですが、八十八ヶ所あった霊場も、今は14ヶ所が残っているだけとなっています。
本殿横には篝火用の石塔らしきものがあり、
花崗岩のかけらがひっそりと祀られていました。
さて、大和へ帰還する神功皇后はその途上、当社の祭神である住吉大神を各地に祀りますが、最終的に摂津の地に祀ったものが今の総本社「住吉大社」であるとされています。
しかし創建年を見てみると、博多の住吉神社が住吉社としては最も古く、そこが初の宮であると云う話です。
現人神社はそれらに分霊した大元の宮にあたり、当社が住吉三神の本津宮であるという所以となっています。
ちなみに記紀では三韓征伐の帰還後に皇后らは裂田溝を造り神田を献上したとなっていますが、帰還後の皇后は出産直前だったこともあり、当事績は三韓行き前のことだったと当ブログでは解釈しています。
夜になると、現人神社の雰囲気は、爽やかなものから妖艶なものに一変していました。
御神木には巨大なクリスマスツリーのような電飾が施され、
そして風鈴もライトアップされています。
あまりの妖艶さに息を飲む光景ですが、この光景こそ当社の祭神に相応しいのかもしれません。
住吉大神とはイザナギが禊をした際、水中で生まれた「底筒之男」(そこつつのお)「中筒之男」(なかつつのお)「表筒之男」(うわつつのお)の三柱の神の総称です。
故に住吉大神は海の神であるとするのが一般的です。
しかし「筒」とは古代、星を指すものでした。
つまり住吉三神の正体は、徐福を祖とする支那の道教が信奉した星神なのです。
その三つの星神が示すものは、夜の航海において南方の目印に欠かせないオリオン座の三つ星なのでしょう。
物部族は佐賀平野に王国を造り、夜に形の良い低山に登って星神を崇めたと云います。
物部族はイニエ王の時代に宮崎に移り、西都に都萬王国を築きます。
それは畿内の大和王国へ東征するためでした。
西都へ向かう途上、宮崎に住吉宮を建て、後世にイザナギの禊の話に由来した「筑紫の日向の橘の小戸の檍原」の伝承地ができたものと思われます。
しかし物部族は月神を祀る女王「豊玉姫」の宇佐王国と連合して以降、星神を祀る気持ちが薄らいだのか、住吉の神は民の記憶から忘れられていったようです。
そのような折、神功皇后に付き従った「物部肝咋連」(もののべのいくひのむらじ)はこれを惜しみ、物部に所縁の深い当地に住吉の三神を祀らせ、大和に近い摂津にもそれを勧めたのではないかと思われます。
ところで不思議なのは、神功皇后と言う人は、辰韓の皇子「アメノヒボコ」の子孫だと伝えられます。
しかしながら彼女が行く先々で祀ったのは、出雲系・物部系、そして豊系の神々ばかりです。
新羅系の神や祖先のアメノヒボコ、ツヌガアラシトらを祀った話は全く出てきません。
これはどう言うことなのか、いよいよ「海祇ノ比賣巫女篇」も終章に差し掛かり、万世一系最大のタブー「応神」帝の秘密に絡んでいくのです。