熊本県山都村、「九州のおへそ」と言われる場所にある聖地、
「幣立神社」(へいたてじんじゃ)を紹介することを、僕はちょっと躊躇っています。
熊本県上益城郡山都町、山都中島西ICから高千穂に向かう218号線沿いに、その神社は鎮座します。
以前は石の鳥居でしたが、熊本大震災の折に建て直されたのでしょう、
久しぶりに立ち寄ってみると、雅な木の鳥居に変わっており、入り口には立派な社名碑が建っていました。
ここは確かに、間違いなく霊地です。
分水嶺であり、九州のへそであり、レイラインだとか中央構造線だとか…
そんなのは抜きにしても、歩けば、ここが何かしらの聖地然としている事がわかります。
長い石段を登り、横道を進むと「五百枝杉」(いおえすぎ)と呼ばれる杉の並木を見ることができます。
圧倒的で素晴らしい杉。
見事な裏杉が林立しています。
火の玉が吹き出たという「火の玉神木」がありました。
落雷したのでしょうか、それでも立ち続ける生命力に感銘を受けます。
幣立神社拝殿へ向かうと、五百枝杉の素晴らしい感銘から一転、次第に違和感を感じ始めます。
それは、ここで一々記されているこじつけのような伝承。
最初はふんふんと真面目に読んでいましたが、
だんだん気分が悪くなりました。
僕はいわゆる、この手合いが苦手なのです。
当社祭神は「神漏岐命」(かむろぎのみこと)、「神漏美命」(かむろみのみこと)、「天御中主大神」(あめのみなかぬしのおおかみ)、「大宇宙大和神」(おおとのちおおかみ)、「天照大神」としています。
当社は勝手に「神宮」を名乗っていますが、元は阿蘇神社の摂社のひとつ「幣立社」に過ぎません。
創建の由来は、健磐龍命が阿蘇に下向した際、この地の眺めがとても良いことに感銘を受け、幣帛を立て「神漏岐命」「神漏美命」を祀ったというものです。
その後、延喜年間(901年 – 923年)、阿蘇大宮司友成が神殿を造営し伊勢両宮を祀り幣立社と号したのに始まります。
当社では「五色神祭」という祭りがあります。
かつて世界人類の祖先である「五色の民」の代表が参拝し儀式を行ったという伝承に基づく神事だそうです。
「五色の民」とは
赤色人種(ネィティブ・アメリカン)
青色人種(アジア南部)
白色人種 (ヨーロッパ人)
黒色人種
黄色人種の祖神(大祖先)
であり、それぞれの人種の祖は、ここから別れ散ったという話です。
その伝承の根拠として「五色人面」なる世界人類の祖神を形どった木製の彫像面が幣立神社に伝わっているそうです、が、
写真を見る限り、ただの古い能面のようです。
1995年からこの「五色神祭」は行われるようになったそうで、その頃から、ここでは「神宮」を自称するようになります。
五色神祭のような、なんでも日本中心的な思想は、僕は好きではありませんし、信じるに値しないと思っています。
僕が思うに、幣立神社は世界のヘソたる宮などではなく、元々は阿蘇神社祭祀として重要な社の一つだったのではないかと思っています。
ここ阿蘇の地は、「健磐龍命」が開拓した土地だと云われています。
太古の阿蘇は、外輪山に囲まれた広大なカルデラ湖だったものを、命が山の一部を蹴破って水を干上がらせ、陸地にしたと伝えています。
その時、大ナマズが邪魔をしたので、命はこれを切り裂きました。
そしてここに、幣帛を立て「神漏岐命」「神漏美命」を祀ったと。
その大ナマズというのは、阿蘇の湿地帯に住む、まつろわぬ先住民だったのではないでしょうか。
さらに当地には神漏岐に由来する一族が住んでいた痕跡があります。
それら先住民を抹殺し、健磐龍命が阿蘇を我が物としたことは想像に難くありません。
境内の端に、裏の杜に入る鳥居があります。
ここから先への侵入は、躊躇われました。
なぜなら本来、本殿裏にあたるこの杜は禁足地であるべきだからです。
歩いて行くと、足元がぬかるんでいるのがわかります。
それはここが、太古は沼地だったことを示しています。
そこには八大龍王が鎮まるという池と、
「東御手洗」という社があります。
しかし湧き水でできた水たまりをいかに立派に見せようとも、沼の残滓の池に八大龍王が棲むはずもなく、
身勝手に建てられた社に神威もありません。
飲み比べると味が違うと云う御神水も、僕は口をつけません。
なぜなら、僕の推測では、ここは滅ぼされたナマズと呼ばれる一族の怨念を鎮める場所だからです。
確証も何も、まったくありませんが、
阿蘇の各地を訪ね歩くうちに、自然とそう思われました。
「幣立」の「幣」とは、神に奉納祈願する時に使う紙のことですが、
これは祓や結界にも用いられます。
ここに結界を張り、太古の怨念を鎮め祓ってきたのが「幣立社」の本来の役割ではないでしょうか。
「東御手洗」の反対方向に「神陵」があります。
ここにも錚々たる神々の名の神陵がありますが、
これらもまつろわなかった民を鎮める場所だったのではないかと思われたのでした。
不用意に足を踏み入れてしまった僕を押し返すように、強い風が吹いてきました。
「五百枝杉」の参道を抜けたところに、ひとつの鳥居があります。
鳥居の先を見てみると、そこは崖になっていて「東御手洗」の沼跡に至っています。
さらにその先は阿蘇山に至り、健磐龍命の本宮である「阿蘇神社」に続きます。
おそらくこの鳥居が、本来の「幣立社」の名残を残すものだと思われます。
この先はかつては大沼で、先住民を鎮める祭祀が執り行われていたのではないか。
高千穂から阿蘇にかけては神漏岐の末裔とされる興梠姓の人々が、今も多く見受けられます。
阿蘇から有明海周辺一帯には、ナマズをトーテムとする一族の神跡が数多く残されています。
そしてナマズと非常に関わり深い神として、その各々で祀られていたのが親魏和王の卑弥呼「豊玉姫」だったのです。
初めまして、いつも興味深々読ませて頂いています。
数年前に京都綾部市の西坂諏訪神社を参拝しました。その時にいろいろ調べたことがあります。
西坂諏訪神社の由緒には、
建久四年(1194)源頼朝の命により信州上田城主(→茅野市の上原城の間違いだとされてます)
上原右ェ門丞景正が丹波国何鹿郡の地頭職に任ぜられ、物部町下市の高尾(屋)に城郭を構えて居住し、信州一の宮諏訪明神の分霊を祀って氏神とし、領内の各所に諏訪神社を創設し祀らせた。
とあります。
また、上原右衛門丞景正は高屋山に城を築いたが後に物部城を築き、上原氏は物部氏とも称し、戦国時代には丹波守護代にまでなったとの事です。
丹波上原氏は『諏訪史料叢書』の「神氏系図」では諏訪大社の神官(神氏)の系統なのに、なぜ物部氏を名乗ったのか不思議でしたが隠された理由がわかった気がします。
守屋山麓に物部守屋神社があるのは子供の頃に登山した時に参拝して知っていました。なので物部守屋は諏訪の人かと思ってました。(笑)
また、諏訪大社上社の近くに松尾山善光寺(昔は諏訪大社上社の敷地内だったとか…)があり物部守屋との関連を感じます。長野市の善光寺の戒壇めぐりは守屋柱をまわります。さらに建御名方神を祀る水内大社は善光寺の地主神(守護)として元は善光寺内にあったと知りました。
諏訪大社と物部氏には隠された関係かありそうですね。
物部守屋神社は出雲石見国 国造の物部神社神職の金子家との事ですが、諏訪大社上社の近くには上金子、下金子という地区(旧金子村)があり御柱祭で柱を立てる先の特殊な神事があるのですが、その地区の氏子のみが行います。
上社のある西山側には金子という苗字の人は多いですよ。苗字で呼びあうとみんな金子になっちゃうから名前で呼び合います。(笑)
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らはえう様、ようこそお越しくださいました♪
そして数々の貴重なお話、ありがとうございます。
お話からすると、諏訪にお住まいの方でしょうか。
石見国の物部神社は第二次物部東征時の対出雲前線基地だったという話ですから、そのしばらく後に諏訪に物部族が進出したのかもしれません。
ちょうどその頃、海部系・健磐龍の皇子「速瓶玉」が阿蘇を制圧し、「建稲背」が諏訪に入り込み、のちの「金弓君」が諏訪大社下社の大祝・金刺氏になっていますから、海部族と物部族の間で、何か見えない諍いがあったのかもしれません。
ミシャクジ信仰を含めて、長野は一度再考してみるつもりです。
どうも上社の大祝の祭事、神降ろしには悲壮な歴史があるようです。
それがどうしても出雲族とは結びつかず、あるいは物部族の影響かどうか、今しばらく考察してみようと思っています。
実は先日、ちょろっと長野に遊びに行きました。
洪水の傷跡に心痛みましたが、勇壮な山々が取り囲む大自然の景色がことさら美しく、心和みました。
故郷を離れたタケミナカタも、あの景色に心癒されたことでしょう。
また近々松本空港は利用するつもりですが、次回は群馬の方へ。
豊彦の足跡を辿りたいと思っています。
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台風10号すごかったですね。
ご心配ありがとうございます。
chricoさんもご無事で何よりです。
先ほどのコメントでお名前をカタカナにしてました。すみません。
それと、〝稲穂〟と書いてしまったのは予測変換の仕業です。
穂のないまだ短い稲でした。訂正させていただきます。
幣立神社に関して、chricoさんが書かれていることに同意できて、ついコメントさせていただきました。
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わざわざご訂正ありがとうございます。
私のハンドルネームはもともとカタカナから始まりましたので、どちらでも構いません。
そう、あそこは水田になっていますね。
神田でしょうか。
しかしあの場所は行き来も不便ですし、日もあまり差さないような場所です。
なんだか無理やり水田にしているような印象を受けました。
あの一歩ずつ水面下に沈んでいく感覚、裏弊立といわれる草部吉見神社と似たものを感じました。
あそこも小さな池が残されていますが、かつてはもっと大きな池だったのではと。
これも確証のない、僕の感覚だけの話ではありますが。
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いえいえ、chiricoさんの感覚は確かだと思います。
これも個人的な感覚なので言わずにおこうと思っていましたが、緑風薫る爽やかな季節だったにもかかわらず、なんだかあそこは淀んでいる感じがしました。
私的にはあの場に社殿はないほうがいいなぁと思えたのですが、一生懸命建てられた方がおられるようなので、その方の思いは尊重したいなと思いました。
話は変わりまして。
那珂川市市ノ瀬の日吉神社に古代米(赤米)の話がありますが、『那珂川の地名考』か『那珂川の歳時月例』だったかに、もう少し具体的に、谷間に水を張って栽培し水源を祀ったという話があるのです。
それで、「あれ?あの話に似ているぞ」と思った次第です。
此の地を開拓した人達に関わる場所という点で、全くchiricoさんに同感なのです。
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ああ、確かにそうですね!
日吉神社は今も初詣を欠かさない、僕の憩いの神社なのですが、微妙に下り宮ですよね。
裏弊立と呼ばれる草部吉見神社も日本三大下り宮に数えられるほどの下り宮ですが、弊立社と同じく湧き出た水でできた池があります。
そこにも色々深い闇がありそうです。
この先のネタバレをすると、阿蘇一帯には蒲池姫・ナマズの古い信仰がみられます。
この蒲池姫が阿蘇津姫のようでして、そこを制圧したのが海部系健磐龍命の一族ではなかったかと。
蒲池姫は水沼氏につながるようで、そこに物部氏の系統を見ることができます。
高千穂の三毛入野命は、物部の意趣返しなのかもしれません。
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物部守屋の次男の武麿が聖徳太子に攻められた後、諏訪に逃亡して森山(守屋山)に籠り、守矢氏の神長の養子となったという伝承がありますよ。
天保5年の井出道貞著『信濃奇勝録』に記述があります。
守屋氏は物部の守屋の一男弟君と号る者森山に忍ひ居て、後神長の養子となる、永禄年中より官の一字添て神長官と云う、森山に守屋の霊を祀り今守屋が岳といふ、弟君より当神長官まで四十八代と云、
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ブサイク王さん、ありがとうございます。
そう、そうなんですよね。
しかし武麿が逃げた先が諏訪で洩矢の地に守屋を祀ったのか?だじゃれか?って思っていまいまして(笑)
実のところ、長野を訪ね歩いてみると、もっと古い時代に物部族は諏訪に至っていたのではないかという疑問が湧きまして。
そこでふと逆に思ったのです。
物部守屋は物部系洩矢族の出身だったのでは?と。
ある時代に洩矢家の正当な後継である千鹿頭が諏訪を追われて出ている形跡があります。
その時に物部族と洩矢が習合していたとしたら。
そして聖徳太子より少し先の時代、物部系洩矢族の一人の男が大和で出身、名を故郷・出身部族に因んで物部守屋と名乗ったのだ、
なんてのは考えすぎですかね。
まあ、それこそなんの確証もないことですが。
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気になって調べてみたところ、
物部 麁鹿火の母が須羽直(すわのあたい)女・妹古とあります。
これを諏訪とみる説がありますが、丹波綾部の須波伎物部氏とみる説もあります。
須波伎物部氏の氏神とする須波伎部神社の祭神はオオヒルメムチ…佐保姫ですから物部というか複雑そうな気がします。
また、物部守屋神社の鳥居の扁額に「物部守屋神社 従六位物部連比良麿謹書」とあり、揮毫したには物部神社石見国造金子家の方だそうです。
山梨笛吹に式内社・物部神社があり(祭神
饒速日命 宇麻志麻治命 より物部氏祖神十柱)があり、この地方に物部氏の影響力があったことは否定できないと思います。
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ブサイク王さん、それはありがたい、ありがとうございます。
佐保姫ですか、、確かに微妙ですね。
サホ姫は東進して来た物部イクメ王を阻んだサホ彦の妹、しかしサホ彦は敗れ、サホ姫はイクメ王と和睦して妻となりました。
イクメ王と組んだサホ姫は三輪山の太陽の女神の司祭者になり、「大日霊女貴」と呼ばれますが、遅れて大和入りした豊彦らに追われて近江から尾張へと逃亡してます。
後の物部がサホ姫を祀っているということが俄かには信じがたい。
石見は物部進軍の前線基地がありましたので、物部の末裔が住み着いていてもおかしくありませんね。
物部神社があるくらいですし。
実はタケミナカタのご血縁という方から、洩矢族はかなり昔から物部に乗っ取られていたのではないかという話をちらっと聞いたのです。
とすると武麿以前にすでに諏訪系物部氏は存在しており、守屋は逆輸入されたのではと思い至ったわけです。
全くの確証はないのですけどね。
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物部 麁鹿火の名前が出てくるとは!
chiricoさん、ブサイク王さん、ありがとうございます。
そして洩矢族はかなり昔から物部に乗っ取られていた(!)と言う話があるのですか。
凄い情報をありがとうございました。
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物部 麁鹿火が諏訪に関わってくるとは、面白いですよね。
洩矢云々の話は、実は最近親しくさせていただいているタケミナカタのご子孫という方の情報です。
富家の伝承とは違って、また独特の伝承を受け継いでおられる方です。
そちらの異聞もまたブログに残せたら良いと思っているところです。
私が長野に物部氏の痕跡を感じたのは、その独特の石積みをいくつか見かけたからです。
物部系安曇氏の聖域である対馬のそれとよく似ています。
もっとも安曇族が安曇野に移住したのは周知のことで、それ自体は何の疑問もないのですが、なんとなくふと、安曇と一緒に物部も移住していたのではないかと思い至り、氏に話したところ、洩矢の話になったという経緯です。
洩矢族の祭祀は、途中で大きく変遷した形跡があり、妙に納得した次第で。
nakagawaさんも長野旅をされてみると、新たな発見があるかもしれませんよ♪
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幣立神社、とても素敵なところですよね。
季節や天候によるかもしれませんが、参道を登ったところの手水が山の中なのに滾々と湧いていて、とても綺麗だったのが印象に残っています。
あとは、ほぼほぼキリコさんと同じです。(笑)
私が行ったのは5月だったので、東御手洗のあたりは青々とした稲穂が見られました。
画像にもちょっとだけ収穫後の稲株が見えてますね。
八大龍王がいらっしゃるのかもしれませんが、私には、冷たい湧き水を溜めて水温を調節し段々に流していく耕作と、水源を祀る事が一体となった場所かなぁと思えました。
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今回の台風は流石に焦りましたが、なんとか切り抜けました。
nakagawaさんもご無事でしたか?
幣立神社、良いところなんですけどね(笑)
話は変わりますが、諏訪の近くに守屋山というのがあって、そこに守屋神社があります。
諏訪にはタケミナカタが移住する以前から洩矢族がいましたので、洩矢にちなんで洩矢山に洩矢神を祀っているのだと思っていました。
が、その神社はどうも物部守屋を祀り、神社の扁額にはご丁寧にも、物部守屋神社と彫ってあるのです。
物部守屋が諏訪に行ったという話は聞かないし、何ゆえ諏訪なのでしょうね、不思議です。
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