長野市松代の妻女山の山麓、とても分かりにくいところに「會津比賣神社」があります。
よみは「あいづひめじんじゃ」だと思いますが、「かいづ」と読ませる風もあるようです。
「赤々と日はつれなくも秋の風」
元禄2年(1689年)7月、『奥の細道』で金沢から小松へ向かう途中に松尾芭蕉が詠んだ句です。
妻女山は永禄4年(1561年)の第四次川中島合戦の折り、上杉謙信が陣を設けた山なのだそうです。
ここから川中島平は一望でき、海津城の動静を伺い知ることができたとのこと。
神社周辺の松代一帯は古来「海津」(かいづ)と呼ばれており、松代城も海津城と呼ばれていたといいます。
今にも消え入りそうな参道を歩くと、
「上杉謙信公鞍掛松の碑」なるものが脇にありました。
謙信が乗馬の鞍を掛けたと言われる松の木があったのだそうです。
初代の松は寿命で朽ちてしまい、今は別の松が立っています。
ところで当社祭神の會津比賣って誰なんだろー?
長野で會津、何となくではありますが、会知早雄の「会知」(おうち・おおぢ)と関連があるのかな、と思っていました。
すると、当社由緒を調べて驚きました。
祭神の「會津比賣神」は、タケミナカタの子「出早雄」の娘とされ、初代科野国造の「武五百建」の妻とされていました。
これは『松代町史』にも同じことが記されています。
「武五百建」は阿蘇神社の祭神「健磐龍」と同神であると考えられます。
つまり會津比賣は会知早雄の娘「会知早比売」である可能性が高いということです。
由緒にある會津比賣の父・出早雄は、確かにタケミナカタの息子であり、母親は八坂刀売であると思われます。
しかし会知早比売とは時代が合わず、ここで伝えられる出早雄は会知早雄のことであろうと推察されます。
会知早雄も出早雄と洩矢族・多満留姫の子孫ですので、偉大な先祖の名を頂いたのかもしれません。
しかしそうなると、會津比賣は阿蘇津姫のことである、ということになります。
なぜ阿蘇の姫神が当地に祀られるのか。
會津比賣神は、貞観8年6月に従四位下を授かっているそうです。
『松代町史』によると、当時の埴科郡の大領は、金刺舎人正長であったと云います。
金刺氏と言えば健磐龍と阿蘇津姫の子「健稲背」の子孫で、諏訪大社下宮の大祝となった一族です。
健稲背は母の実家に戻り、そこの国造家となったのでしょう。
彼、もしくはその子孫が当地に、母神会知早比売を會津比賣として祀ったというなら、話が繋がります。
しかしその後、金刺氏の権力の失墜、戦国時代に上杉謙信の敵将「武田信玄」の兵火にあい、当社は衰退していったと思われます。
今は妻女山の麓に小さく再建され、ひっそりと長野の町を見守っているのです。