兼六園・金沢三大茶屋街

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金沢に来たなら兼六園やろ、ってことで行ってみました。

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「兼六園」(けんろくえん)は、石川県金沢市に存在する日本庭園で、岡山市の後楽園と水戸市の偕楽園と並んで日本三名園の1つに数えられます。

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約11.7haの広さを誇る兼六園は17世紀中期、加賀藩によって金沢城の外郭に造営された池泉回遊式庭園です。

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「明治紀念之標」は明治13年(1880年)の西南戦争で戦死した石川県戦士400人を慰霊するために建てられました。
その中央にはなぜかヤマトタケル像が立っています。
これは日本最初の屋外人物の銅像だとのこと。

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それはさておき、たまたま訪れたこの日は紅葉も盛りで、目の保養となりました。

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あまりに広大な日本庭園というものは、人がこれだけのものを造りあげたことには感服しますが、しかし所詮は人工物。
いつも大自然の神の造形を目にしている僕には、心の奥底から湧き上がるほどの感動はないのも事実なのです。

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お寺の中庭など、小さな庭園に世界を切り取ったものや、小さな鉢に自然の景色を写しとった盆栽などは大好きです。
しかしこれだけ広大なものなら、いっそ野山に出掛けた方が気持ち良い、と感じてしまいます。
まして人でごった返す庭園で寛ぐこともままならないのなら。

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そう言いながら、この美しさはどうしたことでしょうか。

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この兼六園が、最も美しい時に僕はやってきたのではないでしょうか。

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計算尽くされた木々や川、石などの配置に驚きを隠せません。

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兼六園という園名は、松平定信が『洛陽名園記』を引用し、宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の6つの景観を兼ね備えていることから命名したと伝えています。

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確かに山あり川あり池あり、

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四季折々に見せる表情も相まって、様々な景観に富んでいると言わざるを得ません。

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江戸時代の延宝4年(1676年)、加賀藩5代藩主の前田綱紀が、金沢城に面する傾斜地に自らの別荘である「蓮池御殿」(れんちごてん)を建て、その周りを庭園化したのが当園の始まりだと言います。

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宝暦9年(1759年)4月10日、宝暦の大火で蓮池御殿が焼失、15年後の安永3年(1774年)に10代藩主前田治脩によって再興されます。
文政5年(1822年)に建坪4000坪・部屋数200を超える11代藩主・前田斉広の隠居所「竹沢御殿」(たけざわごてん)が完成し、この年に白河楽翁(松平定信)によって兼六園と名付けられました。

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と、兼六園の名前は松平定信が命名たとするのが一般的ですが、しかし松平定信自筆「花月日記」文政5年(1822年)9月20日の記載には、「大塚へ行。秋色をミて、ただちにかへる。加賀の大守より額字をこふ。兼六園とて、たけ三尺ニ横九尺也。兎ぐの額にハいとけやけし、兼六とハいかがと、とひにやりぬ。」とあり、兼六園の額字を頼まれた松平定信が兼六園の意味を知らなかったとそこから読み解くことができます。
つまりこの時点ですでに兼六園という名前があったということが分かるのです。
また、「明治園芸史」に「前田候第12世斉広朝臣、証金龍造園竣功の後に、此湖園記文より、兼六という文字を取りて、園名と為し、白河少将楽翁公の揮毫を請ひて、扁額を作り、之を園門に揚げられしと云ふ、」とあり、どうやら真の命名者は加賀藩主・斉広だということになるようです。

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斉広の死後、竹沢御殿は12代藩主前田斉泰によって取り壊されましたが、その後霞ヶ池を掘り広げたり、栄螺山を築き、庭園を拡張・整備し、万延元年(1860年)に現在の形に近い庭園となりました。

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霞ヶ池を周回していると、雪吊(ゆきづり・ゆきつり)の作業をしている人たちの姿が見えました。

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雪吊とは雪の重さで樹木の枝が折れないよう、縄で枝を保持する方法を言います。

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その中でも樹木の幹付近に柱を立て、柱の先端から各枝へと放射状に縄を張ることを「りんご吊り」といい、雪吊の代表的手法となります。
これは、明治以降に西洋リンゴの栽培が日本で始まった頃、りんごの実の重さから枝を守るために行った技法に由来するものです。

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雪吊は冬を迎える兼六園の風物詩となっています。

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そしてこの兼六園を代表する景観のひとつが「徽軫灯籠」(ことじとうろう)です。

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霞ヶ池の北岸に位置する灯籠で、脚が二股になっており、琴糸を支える琴柱に似ていることから名付けられたそうです。
文久3年(1863年)の「兼六園絵巻」には、現在とは別の場所に両脚が同じ長さで立っている姿が見えることから、明治維新前後に何らかの理由により、片足が短い形で現在の場所に移されたと考えられています。

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現在の灯篭は昭和53年に設置された2代目で、現在の灯篭を含め、昭和37年から54年までの間に池の中に6度倒され、破損されたそうです。
初代灯篭は公園事務所に保管されているとのことですが、全くロクでもない奴らがいたものです。
それでも愚かな人の所業などどこふく風で、2代目の灯篭は涼しげに霞ヶ池を望み見ているのでした。

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金沢のお楽しみといえば、茶屋街巡りです。
金沢三大茶屋街を歩いてみます。

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まずは「にし茶屋街」にやってきました。
おお、それっぽい雰囲気♪
と意気込みましたが、にし茶屋街はおよそ、この写真に写っている範囲が全てと思われます。

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お洒落なカフェなどが並びますが、格子状の窓や戸が印象的。

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そう、ここは今でも一見さんお断りの花街なのです。
にし茶屋街には、3つの茶屋街の中でも一番多くの芸妓(げいぎ)さんがいらっしゃるそうで。

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あっという間に散策を終えてしまいましたが、最後に

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賞味期限6分というモナカをいただきました。

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次に訪れたのは「主計町(かずえまち)茶屋街」。

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浅野川沿いに昔ながらの茶屋が立ち並びます。

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街の名前は加賀藩士・富田主計(とだかずえ)の屋敷があったことに由来するといいます。

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金沢らしいモダンな街灯があり、

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ロマンティックな風情を感じます。

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しかし爽やかな川沿いの道から裏の路地に入ると、

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ちょっと薄暗い、怪しげな雰囲気に。

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ここもかつて旦那衆が人目を避けて茶屋街に通ったとされる、そんな場所。

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「暗がり坂」や2008年に作家・五木寛之氏が命名した「あかり坂」など、薄暗くなるほどに蠱惑的な情緒が溢れ出してくるのです。

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最後に訪れたのは金沢三大茶屋街の中で最も有名かつ金沢を代表する観光地の一つ「ひがし茶屋街」。

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夕暮れになっても多くの人で賑わっていました。

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和菓子、伝統工芸品、雑貨の店やカフェが軒を連ね、風情を感じつつショッピングや食事を楽しむことができます。

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しかしこちらも一見さんお断りの大人の夜の街が本来の姿。

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ひがし茶屋街は「東山ひがし」(ひがしやまひがし)と呼ばれ、南北約130m、東西約180mの約1.8ha内に茶屋町創設時から明治初期に建築された茶屋様式の町家が多く残っています。

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天正8年(1580年)に佐久間盛政が金沢城を築城したのち、天正11年(1583年)に前田利家が入城し、金沢城下は城下町として栄えました。

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加賀藩では領民にも謡を奨励して多くの領民が謡を習い、その裾野は大きく広がります。
そして金沢は「空から謡(うたい)が降ってくる」と言われるほどの町になった、ということです。

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多くの文豪にも愛された雅の町・金沢。
加賀百万石の城下町として栄えた街でしたが、第二次世界大戦においても空襲を受けなかった奇跡の街として、その歴史的風情を今なお残しているのです。

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