活目入彦五十狭茅天皇の癸巳に、伊賀国敢都美恵宮に遷り、二年間奉斎した。
伊賀市柘植町に鎮座する「都美恵神社」(つみえじんじゃ)は、元伊勢「敢都美恵宮」(あえとみえのみや)に比定される神社の一つです。
長閑な集落の中に、伸びる参道。
すぐ隣には小学校があります。
当社の起源は古く、2,3世紀以前と推定されています。
元は霊山中腹の穴師谷に祀られ、「穴石大明神」として崇められていたとのこと。
寛永21年(1644年)に大洪水があり、社地社殿共に損壊著しく、正保3年(1646年)に当地に遷されました。
大正11年に「穴石神社」から伊勢神宮縁りの元社号「都美恵神社」に改められています。
『倭姫命世紀』によると、天照大神の鎮座地を求めるヤマトヒメの長い旅の途上、活目入彦五十狭茅天皇(第十一代垂仁天皇)の即位二年に、穴穂宮から伊賀国「敢都美恵宮」に遷り二年間奉斎、とあります
奈良の大和笠縫村を出発したヤマトヒメは名張・伊賀と北上を続けました。
そして琵琶湖東岸に至ってから、今度は南下して伊勢を目指すルートを辿ることに。
『倭姫命世記』は先の記事にも記したように、僕の中では偽書であることがほぼ確定しています。
しかしこうして現地を訪ねてみると、確かにそこに、何某かの祭祀が往古から続けられていたのだと認めないわけにはいかないのでした。
境内の右隅の奥に、石の玉垣で囲われた一角があります。
覗いてみると、これは阿修羅でしょうか、ちょっと不気味な石像と
何か線が刻まれたような石が
二つほど置かれていました。
当社境内から少し離れた道沿いには、敢都美恵宮の跡地を示す石碑も建っていました。