『語家』~ katariga ~:八雲ニ散ル花 特別篇 01

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さらさらと風が吹く
一面の稲穂に風が吹く
たわわに実ったこがね色、寄せては返すこがね色

時は717年出雲の国、意宇の里。
真名井の社では収穫を祝う秋の祭りが行われていた。
境内は賑やかで、屋台の店が並んでいる。
祭りに夢中な子供達が飛び出し、一人の男にぶつかった。

「おじさん、ごめんなさい」

悪びれる様子もなく再び走り出した子供たちは、祭りの喧騒に消えていく。
その男は名を「向」と言った。
世が世なれば、この国の王であったかもしれない男であったが、それを子供たちが知る由もない。

畿内に大和王国が建国される前、日本で最も大きな王国が出雲であった。
出雲王国は西王家と東王家に分かれ、互いに主王と副王を擁立し国を治めていた。
西は九州北部、東は越国、南は四国に至るまでが王国の支配域であったという。
出雲王は大名持と呼ばれ、副王は少名彦と呼ばれた。
出雲の王は武力による制圧を好まず、言葉による説得、いわゆる「言向け」ることによって支配域を広げたという。
その東王家が富家であり、また言向けた王を尊んで向家とも呼ばれた。

数日前、今は出雲大社の上官である向家に、太家屋敷の主人、安万侶という者から秘密の使いが来た。
「主人とこっそり会いたい」との連絡だった。
その指定の場所が真名井の社であった。

「今年も豊作である。喜ばしいことよ」

男は砂利道の参道を歩きながら、笑顔に満ちた人々を見た。
するとこちらに歩いてきて声をかけてくる者がいる。
その男は貴族服だった。

「私は長いこと、幽閉されていたのです」

屋台の前で食事しながら、向家の当主は話を聞いた。
貴族服の男は太安万侶本人と思われたが、なぜか彼は山辺赤人と名乗った。

「私はもう一人の男と、奈良の都で右大臣様の屋敷に幽閉され、国史の本を作成する事業に携わりました。
それはこの国の一大事業として行われた歴史書の作成でしたが、正しい歴史を記すことは許されませんでした」

それを聞いた向家当主は、顔を曇らせた。

「それをわざわざ私に知らせてくれるということは、その書は出雲にとって良くない内容なのだな」
「はい、初めは初代出雲王の時代から記すことを、右大臣様も認めておられました。
ところがある日突然、出雲の歴史は一切書くことを禁じられたのです。
私はなんとか右大臣様に掛け合い、出雲王国の歴史を神の物語として記すことで了承を得ました。
しかし、その神話の内容でさえ細かに指示され、真の出雲王国の姿を書に残すことはできませんでした。
せめてもの功績といえば、17代にわたる出雲王の名を記すことだけはできたということです」

赤人と名乗った男は、やつれた容貌だったが、力強く当主の目を見つめた。

「誰かが、出雲王国の存在を歴史から消してしまおうと画策しています。
偽りの歴史書だけが残ってしまえば、長い年月の中で、王国の存在は本当に失われてしまいます。
そうなってはならない。
我々、この国の民は偉大な先祖を神と敬って来た、その心を、一時の権力者の都合で失ってはならないのです。
日本の歴史を知る向家の御方と見込んでお願いします。
どうか正しい日本の歴史を守り伝えてください」

赤人は涙ながらに訴えた。

「どうか顔を御上げ下さい。
まずは出雲王の名を残していただけたこと、出雲の民を代表してお礼申し上げたい。
ありがとう、赤人殿。
そして誓いましょう、必ずや公正で正しい日本の歴史を語り継いでまいります。
千年の先まで、私の子孫にその責務を守り続けさせましょう」

その時、遠くで見ていた監視人が近づいて来た。
赤人はお忍びであったため、あまり長くも居られなかった。

「あなたは、これからどうなさるのですか。」
「私はようやく、ここから解放されることになりました。
この先は上総の古里に、帰る予定です。」

立ち去ろうとする赤人に、向家当主は尋ねた。

「あなたと歴史書を書いたという、もうひと方の名前を教えてはもらえまいか」
「はい、その者の名は、柿本人麿と申します」

そう言い残すと、貴族は立ち去っていった。
向家当主は事の重大さを理解した。
ともすれば、この国は、永遠に歴史を失うことになる。
念入りに、慎重に、決して齟齬なく公平な真の歴史を、確実に未来の子孫へ伝え届けなければならない。
その手段を模索する男の耳には、祭囃子の音が鳴り響いていた。

後日、向家の当主は出雲国庁に行って、役人に太家屋敷の主の名前を確認した。
すると不思議な言葉が返ってきた。

「太安万侶という人がいたが、もう住んでいないよ」
「では、山辺赤人という人は住んでいませんか」
「ああ、そんな名前で、和歌を作っていたらしいな」

それからしばらくして「続日本紀」が世に出された。
そこには、太安万侶の死亡記事が書かれていた。

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627年6月、大和の大豪族「石川麻古」が病に没した。
麻古は日本書紀に「蘇我馬子」と記されているが、それは本来の名前ではない。
前年626年8月に麻古が病床に伏したとき、彼の病状回復を祈願するため、関係する者1,000人が出家した。
その様子を見ていた息長家の田村王は、戦慄した。

「私が大王になるには、石川臣家を滅ぼす必要がある」

石川家が後押ししていたのは上宮法王の子、山背王であり、実力と人望から次期大王は彼であろうと多くのものが思っていた。
上宮法王とは、私たちが聖徳太子の名前で知る人物である。

「石川家は力をつけ過ぎた。このままでは山背が大王になり、大和は奴の思うがままだ」

田村王は、信頼する中臣御食子に相談することにした。
当時、中臣家は忌部家を排除し、宮中祭祀役の家柄となっていた。

「田村王は大王の親族でありましょう。ならば大王の側近になり、石川家の大物を一人ずつ誅殺されるのが上策です」

「誅殺」とは、大王の命令として暗殺することを言う。
さらに御食子が田村王に進言した。

「まず息長家の宝姫とご結婚下さい。さすれば、息長派をまとめられましょう。」

田村王の兄弟、茅淳王の娘「宝姫」は、石川臣武蔵に嫁いで、大海人皇子を生んでいた。
田村王は姪の宝姫を離婚させて吾が物とし、息長家の血を濃くすることを計った。
そして念願叶い、628年3月に田村王が大王に就いた。

石川麻古の弟・境部摩理勢は、前大王が生前、山背を大兄に指名していたことを理由に、彼こそが後継者であるとの主張を曲げなかった。
摩理勢は、大王の決定に背いた咎で、御食子の兵に誅殺された。
629年は舒明大王(田村王)の御代となったが、依然、新しい大王よりも山背王の方に民の人気は集中した。
これを大王は激しく嫉妬した。
641年3月15日、大臣・石川雄正(蘇我蝦夷)の豊浦の邸宅を、葛城皇子と中臣鎌子(御食子)率いる軍勢が取り囲む。
皇子が一声あげると、軍勢は一斉に邸宅を襲った。
これにより石川雄正は誅殺され、石川臣家という大豪族が不意討ちにより、あっけなく亡びることになった。
田村王が宝姫に産ませた葛城皇子はこの功により大兄に指名され、「中大兄」と呼ばれた。

これが歴史的クーデター、乙巳の変の真相であると、出雲の富家に伝えた人物がいた。
643年の11月11日、中臣鎌子は軍勢を率い、斑鳩宮の山背王を襲撃した。
日本書紀はこの襲撃を石川林太郎(蘇我入鹿)の行いに見せかけ、山背王は斑鳩寺で一族共々自害したと記した。
しかし山背王一家は出雲に逃げおおせ、富家によって保護された。
また山背王の異母兄弟、上宮法王の皇子である日置王と財王も出雲に逃れ、富家に真実を伝えている。
この時代には有力な大王候補であふれていた。
つまり以降、大王の地位を巡って、血みどろの謀略が繰り広げられることになる。

宝姫が皇極女帝になると、今度は自分の息子、中大兄を大王にしたいと考えた。
それには前帝の別の女、法提郎女の息子・古人大兄を除かなくてはならない。
645年6月、女帝は弟の軽王に「古人大兄皇子を出家させなさい。成功したら、大王の位を汝に譲る」と持ちかけた。
軽王は重臣たちを大殿に集め、両側に並ばせたのち、古人皇子を呼び出し、その真中に立たせた。
皇極大王が入場し、奥の椅子に座る。
軽王は進み出て、皆に告げた。

「大王が位を譲りたいと私に仰せである。もし古人皇子が大王となるなら、誰と誰を大臣に任命するか申せ」

古人皇子は突然のことに驚き震えた。

「私は出家して吉野に入ります。仏の道を修行して、大王の御代の繁栄を祈りたい」

古人皇子はすぐさま法興寺に入り、髪を下ろし、袈裟を着て吉野へ去った。
その後、約束通り軽王は即位し「孝徳大王」に就任した。

大王は中臣鎌子を内臣にすえ、年号を大化と改めた。
孝徳大王と中大兄は謀議して、古人皇子が謀反を企てた、という噂を広めた。
そして9月、吉野の宮に中臣鎌子に兵40人を付けて送り、古人皇子とその子を斬らせたのだ。

石川雄正が誅殺され、続いて山背大兄と古人大兄の大王候補者二人が一度に失脚するという事態に、世の秩序は大きく崩れ、政治不安となっていった。

そのような醜い欲望と思惑が渦巻く647年8月9日、万葉歌の天才「柿本人麿」は産声をあげた。

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柿本人麿は島根県の西部、石見国戸田に生まれた。
人麿の家は姓を綾部と言う。
綾部家は元は、漢部と言った。
彼らは大和・明日香の桧前(桧隈)に勢力を強めていた東漢氏の部民であり、当時は綾織を生業としていた。
東漢氏は後漢から渡来した霊帝の子孫だと伝えられる。
一方、大和の有力氏族である柿本家は櫟本(天理市)に多く住んでいたが、一部に初瀬(桜井市)に住むもの達がいた。
その初瀬の柿本家に縁があって、漢部家は仕えていた。

宝姫が田村王と再婚する前、石川臣武蔵との間にもうけた子は漢皇子と呼ばれた。
皇子の乳母は漢部家の婦人が務めたので、当時の慣習により乳母の苗字で皇子の名が呼ばれた。
漢部家の乳母は漢皇子を成人前まで面倒を見たが、そのころ皇子が乳母の実家まで遊びに訪れることがあった。
そして同年齢の乳母の娘・綾娘子と出会う。
年頃の二人はすぐに仲良くなり、恋仲に発展するのは時間の問題だった。

「初瀬の粗末な私の家に、妻にしたいと逢いに来られたわが君よ。奥の寝床には母が寝ていて、入口近くの寝床には父が寝ています。起きて立てば母が気づくでしょうし、外に出れば父に気づかれます。ああ夜が明けてしまう。隠れた二人の恋は、何故こんなに苦しいのでしょうか」
「私は初瀬の国に結婚相手を求めてやってきたのに、一面にかき曇り、雪が降ってきたよ。おまけに雨も降ってきた。野鳥の雉は鳴き立て、家鳥の鶏もけたたましく鳴き立てる。夜は白み明けてきた。中に入って寝たいものだ、さあ、この戸を開けておくれ」

そうしてやがて綾娘子は漢皇子の御子を腹に宿すことになった。

宝姫が離婚し田村王と再婚する時、漢皇子は名を大海人皇子と変えた。
大海人の名は、彼が丹波籠神社の社家・海部家の血を引いていることに由来する。
乳母の仕事を外された綾娘子の母親は暮らしに困った。
そこで柿本家から紹介され、石見国の戸田の里へ移住することになった。
漢部家は字を変え綾部家となり、田畑を借りて農業を始めた。
人麿が生まれたのは、そんな時だった。
戸田の村人たちは、慣れない農業を営む人麿の家族を支え、作物の種まきの時期や肥料の施し方などを教えた。
その中で最も熱心に面倒をみた若者が、のちに綾娘子の婿になり、人麿の養父となった。

ある時、綾娘子に稗田の語り部の仕事を引き継がないか、との話が持ち上がった。
各地の歴史や珍しい話を伝承していて、頼まれると語る家がある。
その人々は語り部と呼ばれた。
延喜式には、語り部の数は美濃に八人・丹後二人・但馬七人・淡路二人・因幡二人・出雲に四人いたと書かれている。
それらの地域は日本で最初に文化の開けた所で、その地方の古代史を語り部たちは伝承していた。
飛鳥時代に都から戸田の里に移住していた柿本家の親戚が小野家であった。
柿本も小野も、大和の和邇家の分家であるという。
小野氏には、天鈿女命の子孫を称する稗田氏の流れを汲む語り部がいた。
その人から仕事を引き継いだ綾娘子は、語りを覚えるために宵の頃、書き付けを見ながら毎日読み唱えていた。
それを脇で聞いていた7才の綾部人麿は2,3回聞くと覚えてしまい、母と同じように巧みに語るようになった。
親も驚いたが、村でも評判になり、天才少年が現れたと騒がれることになった。
綾部人麿は知識欲が旺盛で、15才になると近所の寺に住み込み、僧侶から経典の読みと意味を学びはじめた。
さらに漢学の書物の読書を好み、郡役所に行っては役人から借りて読んだが、読む書物が少ないのを嘆いていたという。

やがて天才少年・人麿の噂は都にも届いた。
人麿が海部氏の血を引く大海人皇子の子であるらしい、との話を聞きつけ、海部氏は大層よろこんだ。
それは人麿を都に呼び寄せるため、海部氏がわざわざ石見国まで迎えに訪れたほどであった。
人麿17才のことである。
667年(天智6)、大王位に就き天智天皇となった中大兄は都を近江に移し、新政権を発足した。
当時は豪族出身でないと、役人になるのは困難である。
そこで人麿は柿本家の養子になり、柿本人麿と呼ばれるようになった。
それから下級官吏である舎人として、大海人皇子の住む三諸の離宮に仕えた。
こうして柿本人麿の宮廷歌人としての人生が幕を開けたのだった。

※次の歌は後年の人麿が、母の立場になって二人の逢瀬を歌ったものである(作者名不記載)。
ー 隠口の 泊瀬小国に よばひせす 我が天皇よ 奥床に 母は寝たり 外床に 父は寝たり 起き立たば 母知りぬべし 出でて行かば 父知りぬべし ぬばたまの 夜は明けゆきぬ ここだくも 思ふごとならぬ 隠り妻かも(3312)ー
ー 隠口の 泊瀬の国に さよばひに 我が来れば たな曇り 雪は降り来 さ曇り 雨は降り来 野つ鳥 雉は響む 家つ鳥 鶏も鳴く さ夜は明け この夜は明けぬ 入りてかつ寝む この戸開かせ(3310)ー

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「へぇー、これがあの筆柿か」

2020年10月、僕は山口の県境、島根県益田市の戸田に来ていた。
そこは小高い山に囲まれた隠れ里の様なところで、日本海の潮の香りがした。
その一角に、戸田柿本神社は在った。

「お話ししたいことが沢山あります」

少し前のこと、僕は憧れの人に会った。
古代東出雲王家のご子孫にして神と祀られる事代主の末裔、富氏。
口伝継承により古代のまことの歴史を今に伝える家のお方である。
憧れも憧れ、僕の大の憧れの人である。
そのご本人とまさかお会いしてお話を伺えるなど、夢にも思わないことだった。
きっと僕は、一生分の幸運を使い果たしたに違いない。

「この二つの本を一つにまとめて、読みやすい本にして書いてみませんか」

ひとしきり会話に花を咲かせた後、氏は2冊の本を私に手渡しそう語る。
えっ?言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
この僕が大元出版の本を、ですか?
その2冊とは、古事記と柿本人麿に関するものだった。
大元出版から出されたこれらの書籍は、既に完成されたもののように僕には思われた。
私如きがこれをさらにまとめ上げるなど、誠に畏れ多いのである。

ともかく地元に帰った僕は、すぐにその本を読み始めた。
書籍の冒頭に、戸田の柿本神社のことが記されている。

「よし、とりあえずそこへ行ってみよう」

そうして僕は今、この柿本神社の参道入り口に立っているのである。
長閑な農村の小高い丘の麓に、印象的な赤い鳥居。
鳥居の先の石段を登っていくと、少し開けた境内に社があった。
津和野藩御用彫刻師・大島松渓の作という彫刻が施された、見事な神社。
すると拝殿の手前に枝を伸ばす、1本の柿の木が目に留まる。
小ぶりなその実がまるで筆先のように尖っているので、筆柿と名付けられたという。

「ここで人麿は生まれ、幼少期を過ごしたのだな」

柿本神社から程近い森の中に、人麿が幼少期に座って歌を詠んだと伝えられる岩がある。
岩には人麿が鎌で引っ掻いて、歌を刻んだという痕が残されているらしい。
「語家」の家の前にある古い柿の木の元に突然 7、8歳の頃の男児が現われた、それが柿本人麿であると伝わる。
驚いた語家の人間が「どこから来たのだ?」と尋ねると、「私には家もなく、父、母も居ません。知っているのは和歌の道だけです。」と答えたのだという。
かっこいい。

戸田柿本神社の南東200mのところに、人麿の遺髪塚がある。
亡くなった後に、彼の遺髪を埋めたのだそうだ。
しっとりと苔におおわれた、とても静謐な場所だった。
その遺髪塚の隣に「綾部」の家が今もある。
人麿の生家であり、人麿の妹から数えて50代目の当主が今も住んで柿本神社を守っているのだそうだ。
妹が居たのだから、父も母も居たのである。
その庭に、「柿本人麿生誕地」と彫られた立派な石碑もあった。

戸田のすぐお隣、日本海に面した小浜地区には小野神社があり、小野がつく地名や家がある。
伝承によると、出雲系の小野臣や和邇臣から猿女君氏の語り部が出たが、その中では天鈿女命の子孫と称する稗田氏が本流とされている。
石見国美濃郡小野郷には小野臣の子孫の稗田氏系の語り部がいた。
この稗田の語り部から生業を受けついだのが人麿の母、綾娘子だったのである。

「あなたの物語を語るに足る資質が、果たして僕にあるのでしょうか」

人麿の遺髪塚に頭を垂れる僕の首筋に、爽やかな潮風が触れる。
お祈りの後、その場を立ち去ろうとして僕は、何気に袖を引かれた気がした。
振り返ると、綾部家の一角に四角い石の一端が見える。
それは手入れされ、綺麗に保たれた墓石だった。
石には綾部家と誇らしげに家名が彫られ、その上に「語家 先祖代々之墓」と記してある。
そうこれは、これまで戸田の柿本神社を守り、伝承を語り継いでこられた尊い方々のお墓であった。
その墓石には、綾部家のご家紋も刻まれていた。
どこかで見た覚えのある家紋。

「あ、ははっ」

僕は軽く驚き、そして少し可笑しくなった。
丸に四方剣花菱、メジャーな家紋のひとつではあるが、これは七五三で着た僕の袴にあった家紋じゃないか。
顔を上げると空は青く爽やかで、やるだけやってみろよ、と背中を押されたような、そんな気がしたのだった。

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ということで、2021年、本を執筆することになりました、たぶん。
どの程度、どこまでやれるのか分かりませんが、身に余る光栄、尽くさせていただく所存です。
つきましては、本シリーズは校正・情報提供をお願いするためにも、期間限定で公開させていただく予定です。
どうぞご遠慮なく、あっちこっちダメ出ししていただけると幸いです。 chi.

14件のコメント 追加

  1. 匿名 より:

    紫竜です。私のブログの方へのコメント、ありがとうございました。
    返信を、こちらへも記させていただきます。

    キリコさん、忙しい中、コメントありがとうございます。
    私の勝手な申し出を真剣に考えてくださったことにも心より感謝を申し上げます。
    確かに、キリコさんのおっしゃるとおりだろうと思います。
    それゆえに、私も中立的な立場をとり、時に富家伝承の否定(部分的に)となる内容を書く時もあります。少し心苦しいですが、公平な視点でできるだけ人に納得してもらうためには、避けては通れないことだと思っています。
    そのためには、キリコさんがおっしゃるとおり、
    先ずは記紀からその片鱗を探ってアピールすることは重要ですね。
    これに関しては今後気をつけていきたいと思います。
    磐座に関しても、キリコさんが感じたとおりかもしれません。
    ただ、その周辺が重要な遺跡地であることは考古学者も認めている事実であり、
    祭祀上の貴重な遺物もいくつか発掘されています。
    そのような場所に鎮座する磐座ですから、それなりに意味のあるものであることは確かでしょう。
    ちなみに、その周辺に住む方々から聞き込みを行ったところ、相当昔から存在するが、何時からあるものかは分からないということでした。

    また、キリコさんが紹介してくださった方々とのコンタクトですが、私もそれについて考慮したいと思います。
    ただ、FB等は訳あって利用できません。

    私の事はともかく、執筆の成功、それを心より祈っております。
    富家の存在を広く認知してもらうために、
    来るべき時が来た、私はそう思ってキリコさんの執筆を喜びました。

    以上、本当にありがとうございます。
    しかし今は何よりも執筆。
    その成功を、心より願っております。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      FBや他SNS系はバックボーンが怪しいので、本当は僕も利用したくないところです。
      しかし先の投稿ではいいねが現在、150近く付いており、シェアも二桁行きそうです。
      少しでも良い方向に向かっていって欲しいですね。

      今回の執筆のチャンスもいただいて、僕は現代の語り部になるべきなんだ、と強く思いました。
      それはきっと、紫竜さんも同じではないでしょうか。
      富家の伝承を通じて、さらに足と目で感じ知った事実を、後世に語り継いでいくという使命です。
      多くの人が古代史に興味を持ち、さまざまな情報や古史古伝を元に、真実への探求をされています。
      しかしそこには偽書・偽情報も多く、誤った方向に進んである方も多いように感じています。
      誤った方向に進むと、非常に攻撃的などす黒い恩讐に囚われてしまいます。
      しかし僕は、富家の伝承に深く傾倒していった結果、我々日本人の先祖に対する深い崇敬と誇り、そして今日までそのDNAを残してくれたことに対する感謝に至ったのです。
      今、世界が混沌とする中で、この日本人の誇りへと通じる真の古代史を教え伝えることは、とても大切なことなのではないでしょうか。

      とりあえず、より多くの人に富家の伝承を知ってもらうために、執筆を頑張って意味あるものにしたいと考えています。
      諏訪人の祈りの神跡もなんとしても守っていくべきですね。
      コロナがひと段落しましたら、諏訪に赴きたいと思います。
      その時たくさんお話ができたら、素敵ですね。

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  2. 紫竜 より:

    はじめまして、紫竜と申します。
    まずは執筆が決まったとのこと、お喜び申し上げます。
    私も楽しみに出版を待たせていただきます。
    さて、いまさらですが、以前に私のブログをリンクしてくださいましたこと、
    ありがとうございました。
    その時の記事にあった足長公園の磐座ですが、
    できればその存在についても付け加えていただけたら幸いに思います。
    あの磐座は、バイパス計画によって危険な状況にあります(まだ未定ですが)。
    私は力不足でして、あの磐座がいかに大事なものであるかを行政に納得させることが出来ずにいます。
    本当に情けない話です。
    ですので、もし可能であれば、CHIRIKO様の力をお借りしたいと、
    誠に勝手なお願いをここにしたためた次第です。
    それはそうと、また諏訪に来ることがあればお便りをくださいませ。
    出来る限り案内をさせていただきます。
    またそのような場所を、CHIRIKO様の言葉で紹介していただければ幸いです。
    では、長文失礼いたしました。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      紫竜さん、こんにちは。
      ありがとうございます♪
      諏訪は奥が深く、その節はかなり助かりました。
      諏訪に関する記事は「蝦夷の王」というシリーズでご紹介しましたが、改めて多くの情報を得まして、再び「愛瀰詩ノ王」篇としてリライトさせていただいているところです。
      実は紫竜さんの情報を元に再び諏訪に赴き、足長公園の磐座も見て参りました。
      あれはとても重要で貴重な磐座ですね。
      そのような危機にあるとは驚きました。
      もちろんブログでも紹介させていただきますが、FBの古代史系のグループでも実情を踏まえ、ご紹介しましょう。
      どれほどのお力になれるかは分かりませんが、努力してみます。
      長野方面にはまた伺いたいと思っています。
      できれば御神渡りを1度目にしたいです。
      紅葉姫の伝承も気になっています。
      紫竜さん、どうぞこれからもよろしくお願いします!

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  3. ヨウダ より:

    おおおおおお!
    楽しみです!

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    1. CHIRICO より:

      ヨウダさん、コメントありがとうございます♪
      いつも応援いただき、嬉しいです😊
      挫折しないように、頑張って書きます!

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  4. れんげ より:

    すごいです(≧∇≦)‼︎
    2020年、日本書紀編纂1300年の年に古代東出雲王家の末裔から依頼を受けるなんて、CHIRICOさん、もう、運命ですね!
    道真様もとても喜んで、応援してくれていることと思いますよ!
    普段のお仕事もお忙しく、大変なことと思いますが……やはりこちらのブログの読者としては楽しみにせずにはいられません。どうか是非チャレンジお願いします*\(^o^)/*。

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    1. CHIRICO より:

      れんげさん、こんにちは♪
      嬉しいコメントありがとうございます😊
      そうでした、日本書紀編纂1300年でしたね。
      しかも古事記・日本書紀にがっつり関した内容になります。
      それは道真さんのご期待にも応えなくてはなりませんね!
      来年内の完成を目指します。

      れんげさんも、幸せ豊かな新年をお迎えください😊

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  5. 8まん より:

    こんばんはCHIRICOさん。このコロナ禍においても師走の忙しさに悲鳴を上げながら、なんとか仕事納めに入りやっと顔出し出来ました(笑)
    柿本人麻呂公を祀る神社に訪問させて頂いた事があったんですが・・・思いだせない・・・写メも残してるのに・・・年ですな(笑)
    ルーツにまつわる人に辿りつけるのは激アツです。
    執筆活動、いよいよここに至れりですな。私がここのブログに辿りついて読ませて頂いている時から確信はありましたよ。いつかそういう風になるって。書籍化されたらサイン下さいな。お待ちしてます(笑)

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    1. CHIRICO より:

      8まんさん、ありがとうございます。
      書籍化はもちろん嬉しいのですが、重圧もひしひしと感じております。
      しかしながら、何が嬉しいかといえば、このような形で憧れの人とご縁をいただけたことです。
      富さんに楽しんでもらえる本が書けると良いなと思います。

      こちらは仕事納めまであと少し。
      もうひとふんばりです。

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  6. 遥か昔、受験勉強で年号だけ覚えた大化の改新。深いですね。読み入ってしまいました。
    そこにいるような気持ちにさせてくれる美しい写真が素敵です。

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    1. CHIRICO より:

      パッチングワーカーさん、コメントありがとうございます。
      学校で習う古事記・日本書紀の歴史は、いくつかの思惑で歴史の改竄が行われています。
      そのひとつが、藤原不比等による父・鎌足の悪行を隠すことでした。
      また過去の女帝時代は世が乱れたことを表す一例でもあります。

      富家の伝承を知ってから、地方の何気ない社寺・遺跡を旅することがとても楽しく、趣深いものとなりました。

      文章はまだほんの導入部分に過ぎませんが、書籍化に向けてもう少し読みやすく校正していけたらと思っています!

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      1. 歴史がこんな形の教育ならば、興味を持って深く入れると思います。私の時代は暗記科目としての歴史でしたので、本当に興味を持てなくて困りました。
        社会人にって旅したり、住んだりしてその土地の歴史に興味を持つようになりました。
        書籍化楽しみです。

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        1. CHIRICO より:

          ありがとうございます♪
          僕も歴史の授業は大嫌いでした^^
          正しい古代史は、先祖に感謝し、私たちに生まれたこと、生きるための誇りを呼び起こしてくれると信じています。
          おかしくなりつつある今の世の人たちにこそ、必要なものではないでしょうか。

          書籍化は大の富ファンである僕への、氏からのねぎらいだと思いますが、ご高齢の富氏に恩返しできるよう頑張りたいと思います!

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