玉祖神社:八雲ニ散ル花 土雲歌譚篇 02

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景行12年7月、熊襲が叛いて朝貢をやめたのをきっかけに、8月15日、物部大足彦・忍代別(景行)は自ら筑紫征伐に乗り出した。

「南の方に煙が多く昇っている。必ずや賊がいるに違いない」

9月5日、周芳の娑婆(さば)に至った忍代別は賊の気配を感じ取った。
忍代別は多家の武諸木(たけもろき)と国前家の菟名手(うなて)、それに物部の夏花(なつはな)を遣わして、これを制圧させた。

「忍代別大王、賊の首領・神夏磯姫を捕らえておりますが、いかがいたしましょうか」
「生かしておけ、その女は利用できる」

賢木に縛り付けられた神夏磯媛は囮にされ、彼女を慕う他の部族らがおびき出された。

「ああ、なんということ」

神夏磯媛の前に、4つの部族首長の首が並べ置かれた。

「お前は役に立った。お前が恭順するというのなら、子らの首をここに並べずに済むが如何か」

神夏磯媛に選択肢はなかった。
どこまでも深い、絶望の深淵が目の前に広がるばかりであった。

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周防国一宮、山口県防府市大崎にある「玉祖神社」(たまのおやじんじゃ)を訪ねました。
当社は同市内の3社、および大阪府八尾市の玉祖神社らの総本社になります。

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参道途中に「うぶ神様」と呼ばれる小祠があります。
産土の神を祀ったものと思われます。

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当社は周防国一宮とあって、崇敬篤い神社であることが窺えます。

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境内に「黒柏発祥之地」という石碑があります。
黒柏鶏(くろかしわけい)は島根県と山口県で古くから飼育されてきた中型の黒い鶏です。
この鶏は天孫降臨と共に来たと伝わっていました。

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この玉祖神社の祭神は2柱、「玉祖命」(たまのおやのみこと)と不詳の神とされます。

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この玉祖命は由緒によると、三種の神器のひとつ「八尺瓊勾玉」を造った神とされ、玉祖連の祖神と考えられています。
また不詳の神は定説なく、石凝姥命・天鏡命・天日神・八咫鏡などとする説にあふれています。

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玉祖は通常「たまのおや」と呼ばれますが、「たまのや」「たまそ」「たまつ」と呼ばれることもあります。

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当社の歴史的事跡として日本書紀によれば、景行天皇が九州征伐に赴いた際、この地の神夏磯媛(かむなつそひめ/かんかしひめ)が恭順を示し、天皇は玉祖神社で戦勝祈願したと伝えられます。

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景行帝が周芳の娑婆(さば)に至った時、煙が多く昇っているのが見えました。
賊がいるに違いないと考えた帝は、多臣の祖の武諸木・国前臣の祖の菟名手・物部君の祖の夏花を遣わして、その状況を調べさせました。
多くの部民を束ねる神夏磯媛は帝の使者が来たと聞いて、すぐに磯津山(しつやま)の賢木(榊)を抜き取って、上の枝には八握剣を掛け、中の枝には八咫鏡を掛け、下の枝には八尺瓊を掛けて、素幡(白旗)を船の舳先に立て迎えて言います。

「どうか兵を差し向けないで下さい。私たちは帝に叛く者ではありません。今こうして帰順いたします。
ただ服従しない者たちが他にいます。

一人は鼻垂(はなたり)と言います。勝手に王を称し、山谷に騒がしく集まって、莵狭(うさ)の川上にいます。
二人目は耳垂(みみたり)と言います。略奪してむさぼり食い、人民をさらいます。御木(みけ)の川上にいます。
三人目は麻剝(あさはぎ)と言います。ひそかに仲間を集めて高羽(たかは)の川上にいます。
四人目は土折猪折(つちおりいおり)と言います。緑野の川上に隠れ住み、山川の険しいところで人民をさらっています。

この四人は要害の地に住んでおり、それぞれ一国の長だと言っています。彼らは皆『皇命には従わない』と言っています。どうぞすみやかに討伐し、時期を逃さないで下さい。」

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武諸木たちはまず、麻剝の仲間を誘いこみました。
彼らに赤い上着や袴、種々の珍しいもの与え、まつろわぬ他の3人を連れて来るように言いました。
やがて仲間を連れて集まって来た鼻垂・耳垂・土折猪折らを武諸木たちは残らず捕え、これを皆殺しにしました。

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景行帝はついに筑紫に入り、豊前国の長峡県(ながさのあがた)に着いて行宮を建てて滞在しました。
それでその土地を京(みやこ/福岡県京都郡)と呼ぶようになったといいます。

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さて、この日本書紀の記述に僕は違和感を抱かずにはおれません。
ここで神夏磯媛はすぐさま景行帝に恭順の意思を示し、仲間である同勢力を売り渡しているのです。
これは土雲族に対する裏切りです。

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どちらから拝借したか失念してしまいましたが、各部族の勢力範囲を示した地図を見かけました。
神夏磯媛は周芳の娑婆を勢力地としていましたので、田川の香春山周辺は彼女の子孫、おそらく子の夏羽と田油津姫の勢力地になると思われます。
田油津姫は、景行帝に殺された葛築目(くずちめ)の後継者として筑後地方のみやま地区を統治しています。
神夏磯媛が土雲族の裏切り者だったとして、何故彼女の子孫が葛築目戸畔の後継者となり得たでしょうか。

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神夏磯媛は豊王国の最北端、娑婆地区の戸畔として当地に豊玉姫を祀り、豊家を裏切った物部王朝に抵抗を見せたと考えるのが妥当です。
しかし彼女は捕らえられ無理やり恭順させられたか、または本当は殺されたのかもしれません。

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境内の「放生池」とある枯れた池の淵には、子持ちの勾玉のような、不思議な石が置かれていました。

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池の水は完全に枯れていますが、その先は境内を取り囲むように堀になっています。

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その放生池の奥はちょっとした塚のようになっていて、頂部が気になりました。

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見てみると石が置かれているのですが、

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角度を変えて覗いてみると、それはまるでサイノカミの夫婦神さながらの風情でした。

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玉祖神社の祭神・玉祖命とはその名から、忌部氏の祖神「太玉命」であろうかと思われましたが、それが誤りであることにすぐに気がつきます。

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ここで言う「玉」は宇奈岐日女の「うなぐ」であり、龍宮の宝珠「干珠・満珠」を示すものです。

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つまり玉祖命は神夏磯媛が当地に祀った月神であることが推察されます。

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そしてもう一柱の不詳の神とは、記紀と藤原不比等によって徹底的に歴史から消された邪馬台国の女王「豊玉姫」だったのだと思い至ることができるのです。

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玉祖神社本参道の一の鳥居から少し離れたところに、摂社の濱宮御祖神社がありました。

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こちらも祭神は不詳で、高皇産霊尊や玉祖命の母神など諸説あって確証はないそうです。

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玉祖神社の裏参道側には「玉祖神社御神田」という石碑がありますが、そこは埋め立てられ駐車場になっています。

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周芳の娑婆には神功皇后が三韓征伐の際にも訪れたことが日本書紀に記されています。
皇后は玉祖神社で軍の吉凶を占ったとされ、その故事が秋の例祭の「占手神事」(うらてしんじ)・「炊きあげ神事」として伝え残されています。

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神社北方300mのところに、田園にぽつんとたたずむ1本の木があります。

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ここは「宮城森」と呼ばれ、景行帝が行宮を建てた跡であると伝えられます。

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景行帝は行宮を設けた後、裏手の山に八神(神皇産霊神・高皇産霊神・生産霊神・足産霊神・魂留産霊神・大宮売神・御膳都神・事代主神)を祀り祭器を埋めたと云い、故に「八籠山」と呼ばれるようになったと云います。

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その山を見てみれば、なるほど形の良い、いかにも物部が好む低山がありました。

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さらに歩いて玉祖神社の北東500mのところにある祠を目指します。

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そこは玉祖神社の元宮と伝えられ、「江良の厄神の森」と呼ばれていました。

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「厄神」(やくじん)とはまたなんと不穏な名前でしょう、心がざわっとします。

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厄神は災厄をもたらす疫神・祟り神を意味するものと、厄除けの神を意味する場合とがあります。
まあ、この場合は後者と捉えるのがベターのようです。

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しかし当地が玉祖神社の元宮であるというのは地元民が伝えるところであり、当の玉祖神社側では遷座の事実を否定しているという話ですから、やはり当地には何かざわつかせるものを感じ取ってしまいます。

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ではここに祀られる神が祟り神であり、遷座の事実を無かったことにまでしなければならないような事象がありうるとしたらそれは何か。
それは景行帝らによる惨殺の歴史ではなかったでしょうか。

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神夏磯媛一族はやはり当地で、景行軍の進軍に対して、果敢に戦いを挑んだのではないでしょうか。

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改めて麻剥ら、他の土雲族の勢力地を見てみると、当地娑婆からはずいぶん離れすぎていると思います。
彼らは周防近辺にいた、神夏磯媛を慕う者たちであったと考える方が自然です。

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この厄神の森には、多くの土雲族、そしてあるいは神夏磯媛の血が流れているのかもしれません。

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厄神の森から少し玉祖神社方面に戻った位置に「玉の岩屋」があります。

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『玉祖神社略紀』に「玉屋命、大崎の閭に隠れさせたまひ 御神体を納め奉るを玉の岩屋といふ」とあり、玉祖命がこの地で亡くなったため社殿を造営して祀ったのに始まると伝えられ、つまりこれが玉祖命の墳墓であると云われています。

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この玉の岩屋は、玉祖神社、厄神の森と綺麗に一直線上に並んでおり、また景行帝の行宮跡である「宮城森」や「八籠山」も視界に入ります。
景行帝はなぜここに祭器を埋め、八神も祀らなければならなかったか。

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それは荒ぶる姫神の一族の魂を鎮めるためであり、これぞ神夏磯媛の墓ではなかろうか、と僕は思うのでした。

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