宗任神社:八雲ニ散ル花 愛瀰詩ノ王篇 15

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茨城県西部の下妻市に鎮座する「宗任神社」(むねとうじんじゃ)を訪ねます。

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車を停め歩いていると、「日本一早い豆まき」と大きく描かれた看板が目に入りました。
これは社名にもなっている祭神の阿部宗任が、大晦日から眠りにつき1月11日に目覚めるとされていることに由来しており、「おめざめ祭」とも呼ばれています。
崇敬者は基本的に元旦に初詣しますが、氏子はこの1月11日に初詣するのだそうです。
また毎年12月30日には、おめざめ祭に対する「あとおねむり祭」が催行されています。

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この看板の脇に「霊神社」と掲げられた鳥居がありましたが、その先はのっぱらにお墓が立ち並ぶばかり。

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一番奥に一応神社らしき祠がありました。

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さて、この宗任神社を訪ねたきっかけは、当ブログ『偲フ花』への「8まん」さんのコメントによるものでした。

「祭神は阿部宗任(あべむねとう)。四男坊に鳥海三郎がおりまして、大和政権にこの一族は敗れ、鳥海三郎は大和政権に下り文官に。んで、気付いたんですが鳥海山大物忌神社の鳥海は偶然?大物は王様。忌は忌部一族。??となりました。」

ということで、ふむふむなるほど興味深い。

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阿部宗任は平安時代後期に陸奥国でおこった「前九年の役」(ぜんくねんのえき/1051-1061年)で活躍するも、源頼義(みなもとのよりよし)の軍勢に敗れた武将です。
敗れた武将を祀ったというと、なにやら怨霊鎮魂的なニュアンスもあり穏やかではありません。

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参道を歩いていると「子宝神社」なるものを発見。
比較的新しい、立派なサイノカミが祀られています。

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サイノカミと阿部氏。
そう阿部氏はあの大彦の末裔でした!

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エミシとして制圧され続けた大彦の子孫「安倍家」は、安東氏と名を変え、鎌倉時代後期には北条執権政府の支配下に入りました。
その頃、日本存亡の大危機である「文永」と「弘安」の二回の蒙古襲来があります。
この歴史について、私たちは学校の授業で、二回とも神風が吹いて蒙古軍船を撃退したという奇妙な話を教わりました。

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しかし、実際は執権政府の要求に応えて、津軽の安東水軍等が海上で懸命なゲリラ戦を繰り広げ、蒙古船を追い払ったと、土地の古老は伝えているそうです。
また、阿部宗任は前九年合戦で敗れた後肥前松浦に移って、子孫は「松浦党」という水軍になりました。
彼らも蒙古軍船撃退に活躍したと云います。
しかし、当の鎌倉幕府は恩賞を与えることを嫌い、安東・松浦水軍の活躍を無視し、神風の奇跡として歴史を捏造したのです。

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僕らは時の権力者のつまらない都合で歴史を改竄され、正しく先祖を敬う機会を数多く失しています。
大彦の子孫は歴史最大の国難に対して果敢に挑んだのでした。

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先ののっぱらにあった鳥居の神社、「宗任山霊神社」がありました。

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社殿は例の場所から平成28年(2016年)に遷されたようで、産土を祀る社のようです。

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宗任神社は別名を「宗道神社」(そうどうじんじゃ)とも称しています。
祭神は阿部宗任公の他、兄の阿部貞任公(あべさだとうこう)を祀ります。

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阿部宗任は戰に敗れた後公死一等を減じられ、はじめは伊予国(現 今治市富田地区)に流されました。
その3年後の治暦3年(1067年)に九州の筑前国宗像郡の筑前大島に再配流されます。

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公はその後、嘉承3年(1108年)2月4日に七十七歳で亡くなります。
するとその夜、松本七郎秀則の夢の中に、宗任公の霊魂が妙音を以て次のように告げたと云います。

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「是より南尽未来際に鎮衛、有緑の地有り。
抑も汝秀則、秀元父子は、是れ則ち我が家臣の末裔なり。
且つ将に落葉の諸臣処処に漂泊して、在在に沈没す。
其中に於て、稀に我が祖先の恩顧を追憶し、志を一にし、信を凝らす者有り。
昔年我が著くる所の青龍と名づけし甲冑、封じて今現に鳥海の古城の石窟に在り。
尋ねて探索し出だして各々護持し、以て南方に行くべし」

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天仁2年(1109年)、阿部氏の家臣であった「松本七郎秀則」とその息子「八郎秀元」父子は、宗任公の神託を受け、旧臣の二十余名等と共に宗任公の遺物を奉じ出羽国鳥海山麓を出立しました。

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厳しい旅路の苦難を乗り越え、一行は野州二荒山麓にから下総国に至り、下妻までやってきました。
黒巣郷で一行は郷長の屋敷に宿泊しました。
するとその夜再び、秀則は宗任公の信託を夢見ました。

「我、兼て吾が子に示す所の処は、即ち此れ是の境地なり。
一基の神祠を祝祭すべし・・・」

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翌朝、秀則は郷長にこの話をし、一社を造建して宗道郷鎮守宗任大明神と称したのが縁起に伝わる創建となります。

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境内の裏手に、初代宮司・松本七郎秀則の像がありました。

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宗任公の霊は鎮座するにあたって秀則に、

「天の道、人の道を 行くを宗とする意味で宗道と地名を改めれば、人はすこやかに、地は栄えるようになるであろう」

と告げたとあります。

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阿部宗任公は戰に敗れましたが、その後怨霊になったのではありませんでした。
後世の人々の繁栄を願って神託を残したのです。

が、なぜ自らの子孫ではなく家臣に神託し、当地に自らを祀らせたのかは謎が残ります。
まあこのような違和感の裏には、やはり当時の人の思惑が絡んでいるのだと思われます。

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境内裏の末社の一つに水神が祀られていましたが、そこに蛇神が祀られていたのが少し印象に残りました。

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2件のコメント 追加

  1. 8まん より:

    小さな社ではあってもこの地に鎮座し幾星霜。掘り起こしありがとうございます。蒙古時代・・・結構若い時代だったんですね。
    私が訪れた時は、和歌のある碑はなかったんですが、訪れない間にまた変わったものだと(笑)
    茨城は忌部の血筋が千葉方面からも流れて来たり蝦夷に流れる民達も朝廷に敗走しながら東北に追いやられるまでは、この辺りに住んでいたようです。三毛(縄文血筋)の人達も。オカルト大好きな私は茨城の日立にも豪族があって一つの国があったことを信じてて、この辺りは名残の一つの場所だと思ってました。
    またここの宗任さん・・・なんの偶然か九州は宗像大社の中津宮がある島にお墓が建てられていて???
    元寇が絡んでいたのだと目から鱗でした。感謝です。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      日立は国がありました。
      日が立つと書いて日立ですから、出雲系の王国です。
      おそらく大彦の息子ヌナカワワケの子孫らでしょう。
      日本国というのは日立のあたりから生まれた名前だそうです。

      いいね

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