御頭御社宮司総社(ミシャグチ社):八雲ニ散ル花 愛瀰詩ノ王篇 24

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桓武帝の御代、奥州に悪事の高丸という朝敵がいて、人々を苦しめていた。
帝は田村丸に将軍として高丸を征伐するよう命じた。
田村丸は清水寺の千手観音に願掛けをし、その七日目の夜半にお告げを受けた。

「鞍馬の毘沙門は我が眷属である。この天王に願え。奥州に向う時は山道寄りに下るようにせよ。そうすれば兵を付き副わせよう」

田村丸将軍は鞍馬に参詣すると「堅貪」という三尺五寸の剣を授かった。
お告げに従い山道寄りに奥州へ向うと、信濃国伊那郡で、梶の葉の水干に萌黄縅の鎧、藍摺の水干に黒糸縅の鎧の二武者に出会った。

高丸の居城戦で田村丸将軍は苦戦したが、そこへ二武者が駆けつけ、助勢した。
田村丸が海上の船から誘いをかけると、 それを見た高丸の左目を梶葉水干の武者が見事射抜く。
その時、田村丸が抜いたが堅貪の剣は、高丸に切り掛かりその首を切り落とした。
その後は城内に乱入し、高丸の八人の子供もついに討ち取った。

凱旋の途上、信濃国伊那郡に着いた時、梶葉水干の武者が話した。

「我は諏訪の明神である。清水観音の計らいにより将軍に随行した。我は狩猟を好むので、狩の祭を望む」

「なぜ菩薩でありながら殺生を好むのか」

田村丸が問うと、明神は

「我は殺生を生業とするものに利益を施し、畜生は神前の贄とする事で成仏が叶う」

と答えた。
田村丸は諏訪の地を明神に寄進し、秋山の祭りとして深山の狩を始めた。
その縁日は悪事の高丸を亡ぼした七月二十七日である。

その後、藍摺水干の武者も「我は王城守護の住吉大明神である」と云って姿を消した。

・・・

さて、諏訪大明神は高丸の十六歳の娘を捕らえていたが、やがて娘は身篭り、一人の王子を産んだ。

「我には姿がない。我の代わりにこの子に”神”の氏を与え祝となす。」

これが、大祝の始めであると云う。

『神道集』第十七 信濃鎮守諏訪大明神秋山祭事

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茅野市宮川、諏訪大社上社の本宮と前宮のちょうど中間あたりに、神長官「守矢史料館」があります。

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ここに「大祝」(おおほうり)と神長官たる「守矢氏」の関係の秘密があるように思われます。

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タケミナカタが諏訪盆地にやって来た時、先住の民族「洩矢族」が抵抗し、争いになったと云います。
しかし言葉による説得で領地を広げることに長けた出雲族出身のタケミナカタは、やはり洩矢神(王)も説得し、彼らを重用することで共に諏訪に王国を築くことを了承させたと思われます。
そうして洩矢の子孫「守矢氏」は、諏訪において祭祀を司る豪族として勢力を高めていきました。

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ある時、一人の子供が生き神「大祝」として出現します。
その子はタケミナカタの子孫として「神」(みわ)の姓を賜り、やがて「諏訪氏」となっていきます。
そして大祝に神を降ろしたり上げたり、祭祀の一切を司る神長官として守矢氏が就任するのです。

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冒頭の『神道集』に語られる田村丸は「坂上田村麻呂」をモデルとしていることがその内容から知れます。
そして悪事の高丸とは蝦夷の「阿弖流為」(アテルイ)がモデルだと云います。
とするなら、初代大祝といわれる「有員」(ありかず)はアテルイの孫だと云うことになるのでしょうか。
「神氏系図」によると有員はタケミナカタの末裔と記されており、また他に桓武天皇の皇子とする説もささやかれています。

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有員は8歳の時に大祝に任命されました。
『諏訪大明神絵詞』には「祝は神明の垂迹の初、御衣を八歳の童男にぬぎきせ給ひて、大祝と称し、我において躰なし、祝を以て躰とすと神勅ありけり。是則御衣祝有員神氏の祖なり」と記されています。

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中門を過ぎたところにある奇抜な建物が守矢資料館です。
大祝になるのは、神・諏訪氏の子孫とされる8歳の男児が選ばれました。
この男児は即位式に先立って22日間、厳重な潔斎をおこなわなければなりませんでした。
それが終ると、「柊の宮」とか「楓の宮」と呼ばれる「鶏冠社」に赴き、神が降りるという大きな石の上に立ち、神長官が男児に山鳩色の装束をつけさせ、秘法を行います。
これにより男児は諏訪神の御正躰とみなされ、大祝の即位の式を終えるのです。
当然、男児の身に降ろされた神はタケミナカタであろうと思われましたが、実は違いました。
大祝に降ろされた神は洩矢の神「ミシャグチ神」だったのです。

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守矢資料館の先、小高い丘の上に「御頭御社宮司総社」(おとうみしゃぐちそうしゃ)と呼ばれる社が建っています。
諏訪各地に残るミシャグチ神を祀る社の総社とされます。

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あまり聞きなれない「ミシャグチ神」とはどのような神なのか。

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「ミシャグチ」の語源は「シャクジン・石神」であると考えられていて、樹や笹や石を通して生神大祝に降りてくる精霊のことだと云います。

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ミシャグチ神は「御作神」「御左口神」「御社宮神」「御社宮司」「御射軍神」「佐久神」「石神」「尺神」 「赤口」「裂口」、そして「洩矢神」などと表記され、その呼び方も「ミシャグジ」であったり、「ミサグジ」「サングージン」 「シャクジン」「オサモジン」などと呼ばれる場合もあるそうです。
ミシャグチは穢れた者を祟る「祟り神」としての一面もあり、その祟りは一族、家に飼う犬鳥にまで下るとされてきました。

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大祝は生き神・現人神であり、御神体そのものでした。
位はもちろん神長官より上でありますが、実際は神長官の傀儡だったと言えます。
ミシャグチを降ろされたり上げられたり、時には神が憑依しやすいように餓死寸前まで食事を制限されたようです。

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タケミナカタの血統であるという肉体を利用され、その身にはミシャグチを降ろされる。
幼い大祝を良いように利用し土着の祖神をまんまと祀り上げたのが神長官守矢氏ということになるのでしょうか。

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御頭御社宮司総社の先には大祝・諏訪家の墓所があります。

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ここは本来は神長官の廟所でしたが、諏訪氏にこの墓地が求められ、守矢氏は熊野堂と呼ばれる村の共同墓地へ移ったと云います。
これについて面白い説を「八ヶ岳原人」氏がそのサイトで解説されています。

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上社本宮の拝殿を参拝すると、その奥には「神居」と呼ばれる杜があるのですが、更にその先にはこの墓地に行き着くのだそうです。
つまり諏訪明神タケミナカタを拝したつもりが、神長官の先祖も同時に拝するシステムを造り上げていたということです。
しかも更にその先にはミシャグチの祭祀を行っていたと思われる前宮もあるのです。

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しかしある時、なんらかの権力が働き、当地を諏訪家に譲ることになりました。
ここに大祝の意趣を返すことができたのです。

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大祝の墓地を抜け出し、坂道を歩いていると、何かありました。

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まるでジブリに出て来そうな奇想天外な建物、「藤森照信」氏作の茶室「空飛ぶ泥舟」です。

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またアメリカのTIME誌で「世界でもっとも危険な建物トップ10」に選ばれた茶室「高過庵」もあります。

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氏の生まれは茅野市で、高校まで諏訪で過ごされたそうです。
建築家・建築史家であり、2010年までは東京大学の教授でした。
先ほどあった守矢史料館も、藤森照信氏のデビュー作だということです。

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さて冒頭の神道集の内容ですが、坂上田村麻呂に協力した「諏訪大明神」は狩を好むので狩の祭を行うよう強いています。
諏訪大社上社にある狩の神事に「蛙狩」と「御射山祭」があります。
蛙狩は名の通り、神官が蛙を捕らえ射殺し、神前に捧げるものです。
蛙は蛇の好物でもあることから、龍神(蛇神)信仰を持つタケミナカタに、洩矢神が忠誠の贄を捧げる儀式と見ることができます。
しかしそれが狩の祭りかと言われれば、いささか弱い気がします。

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それに対し御射山祭は、諏訪明神の御狩場と伝えられる八ヶ岳西南麓「神野」と呼ばれる原野で実際に狩が行われ、その首が前宮に捧げられたと云います。
また「御頭祭」という同じく狩の祭りでは捧げられた鹿・猪の首の数は、実に75首だったとか。
その首が捧げられた場所というのが本宮ではなく、前宮だったということがポイントでもあり、その祭祀はタケミナカタに対するものではなく、ミシャグチ神に対するものであったと云うことです。
この壮絶な狩が行われた山を御射山と呼んだことから、洩矢神をミシャグチと呼ぶようになったのではないでしょうか。

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とするなら、諏訪大明神とはミシャグチ神を表しているのではないかという疑惑が湧きます。
蝦夷の王アテルイを示す悪事の高丸は、『諏訪大明神絵詞』では、「安倍高丸」と称されているそうです。
するとアテルイ=高丸は「大彦」(長髄彦)の子孫であると言えるのかも知れません。
ひいては初代大祝「有員」は、タケミナカタの血族ではなく、大彦のそれだったと。

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蘇竜聖園』の紫竜氏は、有員について、蝦夷討伐の命を受けた桓武朝の大将軍「坂上田村麻呂」が、諏訪一族の血を引く少年を連れて来て、当時諏訪で力を持っていた「金刺氏」や「守矢氏」を納得させるために、桓武天皇の皇子と偽って上社の最高職に就けたのではないか、という可能性を説いておられます。
田村麻呂は蝦夷のカリスマ、アテルイの攻略において、蝦夷に農業技術や仏教を伝え、彼ら東北人を懐柔する戦略で臨み、結果、精神的にアテルイを追い込んで行くことになりました。
なので田村麻呂が大彦の子孫を見つけ、「神氏」(みわし)と称させ大祝とすることで、先住族「守矢氏」と下社の「金刺氏」を懐柔しようとしたという可能性は高いように思いました。

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こうして上社の大祝は、代々神氏・諏訪族の8歳の男児から選ばれるようになり、15歳頃に退位するまで、その厳しいしきたりの中で暮らすことになります。
上社大祝は諏訪郡の外には出てはならないという禁制の中で過ごさなければなりません。
神長官・守矢氏はミシャグチ神を扱うことができる唯一の人物とされ、一子相伝にて信仰と政治の一体化した諏訪祭政の主体を担い続けました。
しかし明治5年、神官の世襲制が廃止され神長官の職も抹消、その栄華は「76代」を最後に幕を降ろすことになったのです。

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ところでタケミナカタの血族の存在はどうなってしまったのでしょうか。
御頭御社宮司総社の丘をずっと登っていった先に、タケミナカタの父親、事代主を祀る蛭子社がありました。

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諏訪に王国を築いたタケミナカタでしたが、元来人の良い性格の出雲族ですから、アクの強い先住族、後から入国して来た一族らに圧され、その存在は希薄なものとなってしまったのではないでしょうか。
ただ、決して血が途絶えたのではなく、他族との婚姻により混血していったと。

諏訪氏が受け継いだ大祝も、当社が明治維新で国家管理されるとともに、大祝の世襲制は廃止されました。
つまり、宮司は中央から任命され、大祝は神事に関わることができなくなりました。
そして「生き神」と称された大祝は、平成14年9月1日、「諏方弘」氏がお亡くなりになったことで、ついに断絶してしまったと云うことです。
少子化・後継問題が頻発する昨今、ここにも貴重な日本の血統が途絶えたことになります。

なだらかな丘を下っていると、初代大祝有員も眺めたであろう、諏訪平野の景色が広がっていました。

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15件のコメント 追加

  1. NARISAWA110 より:

    鉄の輪が藤の弦に負けてしまう。そんな記述が彷彿とされます。
    塩尻には勝弦(かっつる)という地名があり、小野神社区域の北方に位置します。
    封印には同じ血が居る。そんなイメージがあります。
    そういえば辰野病院近くの矢島祝の諏方神社の西方にも、清明の掘り込みのある元神社のエリアがあります。

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    1. CHIRICO より:

      確かに鉄の輪が藤の弦の話は、何か意味深なものを感じますね。
      narisawaさんが情報をたくさんくださるので、諏訪に行きたくなりました😄1ヶ月くらい住み込んで、じっくり検証してみたいです。
      あと紅葉姫の伝承地がちょっと気になっています。

      いいね

  2. narisawa110 より:

    おお、やっと規制を潜り抜けることが。何回かチャレンジしてますが、外部リンク参照はNGの様ですね。
    続きです。

    という事で、洩矢神をWIKIってみてください。
    ・・・・・
    どうでしょうか?どう考えても「事代主の系譜は神長官」の方ですよね。千鹿頭神から祭祀を奪ってそこに土着した事を無理なく説明しているんじゃないかと思います。

    それでもおかしなことがあります。これは千家でも同様の事が起きています。
    先代伝承者の富正雄さん登場の「1980年出版の謎の出雲帝国」において、トオチネの子孫、秋上氏の伝承。
    千家の先祖は代数が足りない。実は天コヤネは、中臣家の先祖ではなく、千家の先祖で、出版当時の代数は千家が83代。それに対し、皇族は124代でした。
    その不足の代数40代を埋めるのがツヤハムスビ系であるコヤネ系との事です。
    さて、守矢早苗さんは78代目なんですよね。

    現在ではリンク切れになっているとあるHPでは、その昔「タテミナカタの入諏時期」に関して伝承を纏めていました。
    重要な点は、「諏方氏が入諏した際には、すでに事代主が居た」という伝承に触れているところです。
    現在はその根拠に関して不可掘りすることはできませんが、概要のみ、抜粋できます

    抜粋
    「甲斐国の開拓が軌道に乗った時、饒速日尊(私の注釈:海幸彦+山幸彦=物部合流→天孫?)が次に進んだのは、信濃国である。信濃国は後に越国を統治していたはずの建御名方命がやってきて開拓を行っている。建御名方命がやってくる前に「諏訪大社の位置には事代主命がいたようで」、「建御名方命は事代主命から統治権を譲り受けているようである」。信濃国には謎が多く、まず、神社の実態をそのまま示すことにする。」

    つまり、出雲族と諏訪族なのか、諏訪族を偽装した「天孫」と諏訪族なのかは判然としませんが、国譲りが諏方でも起きたという事は確かな事であるようです。最後の仕上げの国譲りは天孫がやったという事が書かれている。諏訪伝承ですと、最終的な国譲りは関東、鹿島などでもおぼろげながら残っています。タテミナカタは関東に最終的に行ったと。

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    1. CHIRICO より:

      narisawa110さん、おはようございます♪

      そうですか、タケミカヅチも関わってきますか。
      有員=タケミカヅチ、守矢=事代主、失われた代数、、
      大彦も物部も安曇もやってきている痕跡があり、おそらく豊彦も関わっていると思われる諏訪・信濃。
      いったいそこに何があるのでしょうか。
      ただ、洩矢の祭祀と出雲がつながることに違和感はあります。
      もちろん出雲を美化しすぎることには注意が必要ですが、洩矢の祭祀の異様さはどこから来るのでしょうか。僕はアイヌではないかと考えていましたが、ある方はイスラエル、つまりユダヤだと言っておられました。

      先にコメントをいただいている紫竜さんは、当初は大元本に沿った考えて考察されていましたが、次第に違和感を感じられて、タケミナカタはそもそも存在したのか、という方向で今は考察されているようです。
      諏訪は多くの糸がもつれ合っていて、それを解きほぐすのは不可能なのではないかとさえ思えます。

      諏訪に関しては何度も考察を繰り返し、再考に再考を重ねる必要を感じていますが、その時間がなかなか取れないでいます。僕は今の土雲族を終わらせて、次は江戸をやらなくてはなりません。
      江戸はちょっと専門ではなく、知識も一般人以下なのですが、それが富氏のご希望なので。
      本業経営もアウト側ギリギリなので、ほんと参ります。

      しかしアンテナを張っておけば、諏訪も何か思いつくことがあるかもしれません。
      諏訪の糸が少しでも解ければ、そこから新たな古代の真実が見えてくるのかもしれませんね!

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  3. narisawa110 より:

    事代主と守矢家の謎

    narisawa1110でございます。大祝家の諏方氏と、神長管家の守矢家
    通説ですと、タテミナカタの子孫が諏方家で、鴨氏の様に神家を名乗りました。あの家は、記紀に従い、イキガミである内は諏訪から出ず、引退後に仏門に入ることで士族化をしていきました。
    実は守矢家も神氏を名乗っています。
    上社は諏方氏、下社は金刺氏という事になっていますが、諏方氏も同じ金刺氏、阿蘇系の八井耳系譜、つまり多臣家系から来たという説があります。
    出雲伝承を知る我々は、どうでしょうか?
    ヤフー検索「歴史探訪問 池生神社19 諏訪大社大祝・諏訪氏と金刺氏2」
    概要「「金刺連」となった「オオ氏」の一族で、下社の「御衣木祝」家の一員だった有員は、上社の大祝になって(なるために?)「神氏」の一族の「諏訪氏」を名乗ったようです。タケミナカタの子孫の「神氏」だとか、桓武天皇の子孫だとか、清和源氏の源満快の子孫だとかと名乗っていたという諏訪大社大祝の「諏訪氏」は、そのいずれでもなくタケミカヅチの子孫だったのです(^o^)。
    諏訪大社の大祝は、「初代大祝となったタケミナカタ」の子孫から平安時代にタケミナカタの子孫達を滅ぼした天津族のタケミカヅチの子孫に変わっていたのですね。」
    書籍「古代豪族系図集覧」によると、神武天皇→八井耳→金刺舎人→で、神社社家と、下社社家は同じ系図です。
    神武と書いてあれば記紀成立後の系図であることが分かります。仮に、素戔嗚であっても同じでしょう。

    つまり、事代主どこに行ったという事になりますw

    いいね: 1人

  4. 8まん より:

    ミシャグチ、諏訪共に面白い考察でした。ここ、諏訪周辺には狩猟の道具に利用される黒曜石の産出地であったそうです。ここの黒曜石は物々交換にも用いられ各地にて発掘されてるそうな。ここで集落としては頭一つ抜きに出ていましたが、鉄器や稲作栽培のノウハウが西から来て、この地にも変化が訪れたのだとか。NHKより。
    そういえば、諏訪四社の御朱印を拝受すると御柱の栞が確か頂けたはずですが貰えましたか?御利益ありますよ。(笑)

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    1. CHIRICO より:

      栞もらいました!
      ああ、あれは御柱から作られていたんですね、なるほど。
      ミシャグチの祭はまだまだ奥が深く、とてつもない闇が横たわっています。
      とりあえず、そのさわりだけ探ってみようと思います。

      いいね

  5. 紫竜 より:

    諏訪の記事、ありがとうございます。嬉しいです。。
    有員はアルテイの血筋じゃないかと、私も思います。
    もしかしたらある時期、タケミナカタ=タケヌナカワ、という認識があったんじゃないか?と
    そんなことも思います。
    そうそう、蛭子社の前に磐座が横たわっていることに気付かれたでしょうか?
    元々はそれが立っていたようで、その前から、弥生中期の土器と配石遺構(弥生中期)が確認されています。。

     執筆、頑張ってください!

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      紫竜さん、コメントありがとうございます😊

      タケミナカタ=タケヌナカワ、その発想はありませんでした!
      アテルイ=高丸は「安倍高丸」と称されていたそうで、いずれにせよ、有員はタケミナカタではなく、大彦の子孫ということになるでしょう。
      大元出版の『事代主の伊豆建国』にも大彦の子孫が
      長野に移り住んで神氏となったと記してありました。
      紫竜さんと情報を突き付け合わせたら、諏訪の歴史の深淵部に行けそうですね^ ^
      蛭子社の磐座は気付きませんでした!!
      また行きます!
      足長公園の磐座はもう少しお待ちください、また記事を改めてアップします。

      いいね

  6. 高橋寿介 より:

    はじめまして。高橋と申します。ミシャグジで検索して、こちらの記事を拝読させていただきました。とても緻密かつ詳細な情報をわかりやすく書かれていらして、とても感銘いたしました。こちらのページのリンクをわたしのブログにさせていただきたく、ご連絡差し上げました。また誠に勝手ながら美しい写真も借用させていただければと思います。とりあえず近日中にアップする予定なので、こちらをお読みになるの時点で事後報告になってしまうかもしれませんが、もし使用することがダメな場合は速やかに削除いたします。誠に勝手ながら、ご了承いただければ幸いと存じます。 高橋寿介

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      高橋様、ようこそお越しくださいました。
      リンクありがとうございます。
      画像もどうぞご利用ください。
      当記事は出雲王家伝承を追っている中の一記事となっていますので、一般的な解釈とはまた違っているかもしれませんが、その点をご了承ください。
      どうぞよろしくお願いします。

      いいね

      1. 匿名 より:

        ありがとうございます。
        とても深い洞察がなされていて、
        納得することばかりです。

        今後ともよろしくお願い申し上げます。

        いいね: 1人

    2. 紫竜 より:

      本当に、キリコさんとはいつか語り合いたいです!
      また信州へ来られることがあれば是非。。
      また、うちのかみさんの実家が別府ですから、私が九州へ行くこともあるかと思います。。

      そういえば、「事代主の伊豆建国」や他の大元出版の本でも示唆されていましたが、
      実際のタケミナカタの子孫は関東方面へ移住して、諏訪にはほとんど残っていなかったんじゃないか?
      と思うのです(遺跡の在り方からも)。
      ですから、やはりキリコさんがいうように、諏訪氏は大彦後裔と考えて間違いないと私も思います。
      山梨県北杜市の「諏訪中社」の伝承にも、諏訪国造祖が祖父である「タケヌナカワ」を祀った、
      とありますしね。。

      またこれからも宜しくお願いいたします。。

      いいね: 1人

      1. CHIRICO より:

        なるほど、諏訪にタケミナカタの痕跡があまりみられないのは、そう言うことなのかもしれませんね。
        別府でしたら豊王国・邪馬台国ですね♪
        すぐなんでも富家伝承につなげてしまいます^^
        重度の出雲病なので。。

        いいね

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