『八雲ニ散ル花 愛瀰詩ノ王篇』の後半、『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』のミシャクジ祭祀の一端を訪ねる旅の締めくくりに、諏訪大社上社・本宮を再訪しました。
その目的は境内に祀られる磐座、『硯石』(すずりいし)を再確認するためです。
この硯石は当社の御神体に匹敵する雰囲気を持ち合わせ、かつ諏訪七石のひとつに数えられていますが、往古にはそれほど重要視されておらず、かつ高さを嵩上げしていじっているのだそうです。
神聖な御神体であるなら、そのような手を加えることは普通はしません。
そこで思い当たったのは後に当地に侵略してきた物部族が、殊更この岩をとりたてて、御神体としたのではないかということです。
物部の本拠地、九州にはいくつか物部系と思われるストーンサークルが存在し、その中心の屹立した岩の頂部は窪んでおり、そこには水があって金魚が棲んでいると言い伝えられています。
その金魚を覗き見ると目が潰れてしまうとまで云われていますが、これは道教の蓬莱信仰が元になっているのではないかと僕は考えています。
そしてこの硯石、みるからに頂部が窪んでいますが、岩自体は平坦で高さが足りない。そこで嵩上げされたのではないかと。
諏訪大社上社・本宮から車で数分のところに、大祝の屋敷跡がありました。
敷地内は建物の外周を一周できるように開放されています。
大祝は有員を始め、上社前宮の「神殿」(ごうどの)に居住していましたが、天正年間に織田信長の侵攻により焼失。
大祝の屋敷はは大祝・頼広(高島藩初代藩主諏訪頼水の弟)によって当地・宮田渡に移され、以後代々の大祝が居住したのだそうです。
その大祝邸も平成14年(2002年)9月1日に諏方弘氏の死去により諏方氏は断絶。
現在は無人の屋敷となっています。
『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』他、日本原初考の2冊を手にした時から始まったミシャクジ信仰の旅。
それは深い深い深淵の、ほんの上澄みを浚ったものに過ぎません。
本格的にミシャクジの旅に出かけるなら、それはもう長野に定住しなければなし得ないのです。
大祝やおこうさまの密殺の歴史、今なお犠牲者を出しながも続けられる御柱祭、それが是か否かを問う気持ちは僕にはありません。
ただここに立っていると、全てはいつか風化するものだという気持ちに、少し寂しさを感じたのでした。
定住しているから見えないことや言えないこともありますよ・・・ むしろ、外からの意見を公表していただくことが大事かと思います。。これからも機会があれば諏訪や信州について書いていただきたいと願っています。。 私も、いずれ信州から出ます。また外から諏訪を眺めるべき時が近付いてきているように思えます。。
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長野にはまだまだ訪ねたい場所がたくさんありますので、いずれまた。
早く自由に旅できるようになるといいですね。
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