鈴鹿明神社:八雲ニ散ル花 愛瀰詩ノ王篇 番外

投稿日:

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欽明天皇の御代、伊勢の鈴鹿から座間に遷ってきた鈴鹿神は、持参した財宝もあって豊かに暮らしていた。
その頃、勝坂にいた有鹿の蛇神はこの財宝を横取りしようと鈴鹿の森に潜み機会を狙っていた。
これに諏訪明神と弁財天が鈴鹿神に加勢し、三神がそれぞれ大蛇に変身して有鹿神と戦った。
争い敗れた有鹿神は上郷へ追い払われ、それ以来、勝坂へ帰ることができなくなったと云う。

– 『座間古説』 –

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縄文時代中期の大規模集落「勝坂縄文遺跡」の谷側に美しい田園がありました。

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非常に貴重な動植物の宝庫のようで、鳩川・縄文の谷戸の会の方々が大切に守ってあるそうです。

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それにしても滔々と湛えた豊かな清水、

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その水源がこの奥にあります。

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そう、再びやってきました、「有鹿神社奥宮」。

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今回の目的は、前回失念していた御神体「有鹿窟」です。

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奥宮一帯を潤す水の出どころがここ、

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有鹿窟となります。

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窟と呼ぶにはささやかですが、小さな穴からは清らかな水がこんこんと溢れ流れています。

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有鹿神社の例祭「水引祭」(みずひきまつり)では、4月8日に本宮よりこの有鹿窟へ霊石が運び込まれ、6月14日に還御するのだそうです。

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この水が鳩川に流れ、その水は相模国の田園を潤してきました。

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まさに命の源である有鹿窟は御神体として、古くから大切に祀られてきたのです。

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見れば他の場所でも水が湧き流れています。

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この丘の上には縄文時代中期の大規模集落があったのですが、そこに住んでいたのは、祭祀に関連した有力豪族であったことが想像されます。

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さて、有鹿の本宮と奥宮のちょうど中間あたり、座間市に「鈴鹿明神社」(すずかみょうじんしゃ)が鎮座しています。

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祭神は「伊邪那岐命」(いざなぎのみこと)と「素戔鳴尊」(すさのをのみこと)の二柱。

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このうち素戔鳴尊は、当地で疫病が流行った際に鎮まることを祈って京都祇園の八坂神社より勧請されたとのことです。

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入り口側にはサイノカミが掘られた石祠があります。
ここも出雲系なのでしょうか。

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ところが当社には「竜神いじめ」という雨乞い神事が行われていたと伝えられていました。
神職が雨乞いの祈りを捧げた後、氏子たちが御神酒を頂き、さらに底に竜を彫った敷石がある弁天池の水を汲み出すことによって水を干された竜神に雨を降らせるという神事でしたが、詳細な資料は現存していないということです。

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その竜の敷石が今も沈んでいるというのは厳島神社の池だと云います。

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確かに出雲族は龍神信仰を持っていましたが、彼らがその神をいじめる祭りを果たして行うだろうか。

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また、『座間古説』や当社の由緒として、有鹿神社と争った説話縁起「有鹿と鈴鹿の神争い」の話が存在しています。
伊勢神宮のある鈴鹿からやってきた鈴鹿神はたくさんの財宝を持っていて、それを有鹿神が奪い取ろうとして敗れたという内容です。
それによって有鹿神は奥宮のある勝坂へ帰ることができなくなり、仕方なく追い払われた上郷(海老名)の総鎮守となったという話です。

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この話を調べれば調べるほどに、違和感を感じてしまいます。
相模国に古くから定住していた一族は有鹿族のほうであったと、これは容易に想像つきます。
そこへある時、鈴鹿族が移住してきた。

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有鹿神社の由緒書『有鹿神社略記』によると、祭神の有鹿比古命は太陽神の男神であり、有鹿比女命は水神の女神であるとされています。
御神体が湧出する清水であることから、農耕と生命の守護神である側面を窺わせます。
また、その姿は蛇であるとも伝えられ、全てが出雲族の信仰に合致しています。
故に有鹿神社が寒川神社の元宮であるという可能性にも納得するものです。

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これに対し鈴鹿明神社の創建年代は不明ですが、神争いによると欽明天皇の御代(539~571年)には当地に鈴鹿族が移住していたことを物語ります。
また鈴鹿明神の祭礼では、神輿が毎年6月7日に鈴鹿の森を出て大川原(相模川原)へ「浜降り」をし、14日まで宮川家前で休息してその後に還御するそうです。
この宮川家というのは鈴鹿明神が当地に移住する際、伊勢の宮川から付き添ってきた人々の子孫だという話です。
宮川家の名の由来となる伊勢宮川は豊受大神宮(外宮)の禊川であり、かつては「豊宮川」と呼ばれていたそうです。
豊受大神宮は本来、豊家の月読神を祀っていましたが、今は豊玉姫の娘「豊姫」(豊鍬入姫)を豊受大神として祀っています。

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鈴鹿にある椿大神社は、大和入りした物部イクメに裏切られて逃げた豊姫が匿われた社であり、そこでイクメの刺客に暗殺された場所でもあります。
豊姫を受け入れた椿大神社の宇治土公家は、三輪山の登美・賀茂家の分家にあたり、やはり出雲系の豪族でした。
宇治土公家はサルタ彦を祭祀する家柄でしたが、豊姫の死を悼み、敷地内で彼女を天鈿女(アメノウズメ)として祭祀することにしました。

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つまり当地に移住してきた鈴鹿族とは、豊族を従えた宇治土公家の末裔であるというふうに考えることができます。
しかし僕が抱く違和感は、「竜神いじめ」の神事に加え、肝心のサルタ彦祭祀の痕跡が当社神域に窺えないことにあります。
彼らが宇治土公家であるなら、その主神を真っ先に祀らぬはずがありません。
唯一出雲を連想させるものは、参道入り口にあったサイノカミの石塔くらいのものでした。

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有鹿神社の「水引祭」(みずひきまつり)では、4月8日に本宮より奥宮傍の「有鹿窟」へ霊石を運び、6月14日に還御します。
これは「有鹿さまの水もらい」とも呼ばれる神事で、霊石が「有鹿窟」に安置されている約2ヶ月間はかつて、鳩川の水の利用権が海老名周辺の人々に優先され、座間郷の人々が利用できなかったと云われています。
これに対し、鈴鹿明神の祭礼では、神輿が6月7日に鈴鹿の森を出て、同じく14日に還御します。
この際、有鹿の神は鈴鹿の神輿の引き上げるのを待ってからその後を通るのが習わしであったそうですが、有鹿の氏子を困らせるため、鈴鹿の神輿の出発をわざと遅らせる事もあったと伝えられています。

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このように神争い以降も争いが続いた双方ですが、享保の頃から有鹿神社の水引祭の神輿が勝坂に向かうのに際して、河原宿の南で鈴鹿明神の神輿が出迎えて先導するようになり、勝坂にて祭を共にするよう和合したそうですが、これも明治初期に鈴鹿の氏子が離れると、有鹿と合同の神輿渡御は行われなくなったと云うことです。

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有鹿神社の程近く、住宅街の一角に「三王三柱神社」があります。

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そこに「有鹿の井戸」と呼ばれる遺跡がありました。

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この辺りの鳩川用水から中新田と河原口に分流する地点が袋状だったので、「有鹿袋」とも呼ばれていました。

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また、有鹿の池より出現した神体石をここで洗ったという伝承から、「有鹿姫の化粧井戸」とも伝えられていました。

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10件のコメント 追加

  1. OSAMARU より:

    最近調べていました、私の身近なところの神奈川県秦野市の情報をコメントします。
    市の名前からして秦氏の色合いが強そうな所で、斎木雲州氏も江ノ電沿線新聞の徐福伝説の座談会アーカイブで「徐福の子孫は西暦800年頃には富士山の麓に住み、秦氏と名乗っていましたが、延暦大噴火の際に今日の秦野市や寒川町の辺りに避難してきました。」とコメントされているところです。それでも出雲色もあるところです。

    まずは出雲系について。
    ◆クナトノ大神の角柱塔/自然石
     「久那斗神」角柱塔  (神奈川県秦野市平沢1223 御嶽神社境内)
     「久那斗大神」自然石(神奈川県秦野市平沢1715)
     「久奈斗大神」自然石(神奈川県秦野市寺山495)
     秦野市もサイノカミの石像(地元では道祖神と呼んでしまっている)が300基以上あり多いところですが、その中にクナトノ大神の文字が書かれた角柱塔/自然石が3箇所あります(秦野以外では検索しても見つからなかった)。地元の資料では、明治以降の比較的新しいものと書かれていましたが、クナトノ大神というのはどこから伝わったものなのでしょうか。これらの角柱塔/自然石のある地域からは、大山(大山祇大神を祀っている大山阿夫利神社が鎮座)が望めます。
    ちなみに本日、大山阿夫利神社(伊勢原市)へ参拝してきました。

    ◆社護神社(神奈川県秦野市堀山下)
     祭神: 波比伎神/足羽神/生井神/栄井神/津長井神
     由緒は明らかではないですが、寒川神社を創建した足羽氏とのつながりを持った氏族が住んでいたのでしょうか。地理的には、諏訪の地から南方面で寒川神社の地へ進もうとすると、秦野市は通り道で盆地/平地が開け始めたところかなと思います。
    参拝してみると、境内に三峰神社もありました。足羽氏と三峰神社というとCHIRICOさんが三峰神社の記事でコメントされていました「あの「ごもっともさま」を見て僕がイメージしたのは、諏訪のタケミナカタ一族のことでした。」ともつながるでしょうか?

    秦氏について。
    ◆ 加羅古神社
     加羅古神社(神奈川県秦野市横野608) 祭神:事代主命
     加羅古神社(神奈川県秦野市菩提1880)
     曽屋神社(神奈川県秦野市曽屋) 明治六年、加羅古神社他を合祀
     新編相模風土記に「古くは唐子神社と表記せし如く。昔唐土より飛来せし神なりという」とあります。祭神が事代主命になってはいますが、神社に掲示されている由緒の最後に「付記 当社は市内における古社の一つで古くは、唐子明神と称し由緒や縁起について口伝や文書があって文人の「夢多く、ゆめ膨らむ」関心の深い社である。 」とあります。
    地元の伝承を調べてみると、秦野市横野の加羅古神社周辺には、「からこさま」が丹沢から山を降り秦野に着いたという伝承があります。彼らは村のために尽くしたので村人は神として崇めました。それが唐子明神社(加羅古神社)だとされています。唐子明神社の縁起によれば、「むかし、毎夜山に光るものが現れ、不思議に思った村人が登ってみると、突然空に御神燈が光り、次に奥の山上に、また奥の山上にと光輝き竜馬に乗った神童が現れ神像を渡し祀るようにと云い、村人は最初に燈った山麓に加羅古神社を建立したという」。また、加羅古神社の祭神がカラコと称する女性の神なので、神輿はいらないとされてきたそうです。秦氏が富士山延暦大噴火の際に秦野市に避難した話とつながるでしょうか?
    曽屋神社:往古より井明神社と称されていたものを明治6年に伽羅古神社(唐子神社)などを合祀し、曽屋神社となったそうです。こちらの伽羅古神社には唐子(からこ)さんが大磯に上陸して乳牛(ちゅうし、秦野市曽屋付近)に定着したとの伝承があるそうです。これらからすると秦氏は陸上ルートと海上ルートのそれぞれから秦野に入り、定住したという伝承のようです。

    ◆白笹稲荷神社(神奈川県秦野市今泉)
     祭神: 宇迦御魂命/大宮売命/猿田彦命
     由緒「創建の年代については詳らかでありませんが、この地先住の古代水田農耕民族は、その水田耕作に不可欠の水源に、また人間の生存の礎となる衣食住の源としての「水源(みなもと)」に、清らかに神奈備を覚出しました。(中略) 秦野は古代大和豪族・秦氏にゆかりの地であるといい、『風土記』によれば、稲荷信仰を広めたのも秦氏で、秦公(はたのきみ)が山城国に「伊奈利(伊奈里)」を」祭祀したことに始まるといわれています。 」
    猿田彦命も祀られています。関東三大稲荷だそうです。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      OSAMARU様、またたくさんの情報、ありがとうございます。
      角柱塔は天照大神や猿田彦大神と彫られたものをよく見かけますが、クナト大神はまだ見たことがありませんね。配置も気になります。
      後世に建てられたものだということは、その時代にも出雲王国を知るものがいたということでしょうか。
      他の女方を含め、神奈川に飛びたい気持ちが高まります。

      秦氏については、徐福が関わる初期の秦氏と、神功皇后時代の弓月君を祖とする秦氏とが存在していると考えていますが、未だによく分かりません。
      とりあえず「謎のエリア」発掘が始まった吉野ヶ里をぶらり見てこようかと思っています。
      神奈川には夏頃、行けたら良いな。

      いいね

  2. OSAMARU より:

    はじめまして。大学時代山陰に住んでいて、それ以来出雲系の神社/歴史に興味があり、大元出版の本やこのブログを読ませていただいています。もちろん「人麿古事記と安万侶書記」も読ませていただきました。今は神奈川に住んでいますので、神奈川の神社についても紹介いただきありがとうございます。
    伝承では景行天皇の時代に出雲族が南関東は進出し、当時「第二の出雲王国と言われた」とあり、それなら何か痕跡があるのではないかと思い、神奈川の神社を見ていて、気になった神社をピックアップしました。以下の中で、興味のある神社がありましたら考察いただけると嬉しいです。

    ◆富塚八幡宮(神奈川県横浜市戸塚区)
    八幡さまを祀っている神社でありますが、応神天皇に加えて富属彦命が祀られています。近くに富属彦命の墓と伝えられている富塚古墳があります。
    由緒「前九年役平定のための源頼義、義家父子が奥州下向の途次、当地に露営し、夢に応神天皇及び富属彦命の信託を蒙り、その加護によって戦功を収めたので、延久四年(一〇七二)富塚山中腹に社殿を営み両祭神を勧請したものである。(中略) 富属彦命は相模国造弟武彦の二世の孫で、境内山頂の古墳がその墓と伝え、これを富塚(トミツカ)と称し、やがて「トツカ」となったのが「戸塚」の地名の起りと伝える。」
    「出雲と蘇我王国」斎木雲州著などによると相模国造弟武彦は出雲王家の末裔とされていて、その二世の孫が富属彦命となると、東出雲王家(富家)の末裔なのでしょうか? 富属彦命は、当時富姓を名乗ることができたんですね。

    健御名方命の諏訪進出ルートや出雲王国を想像させる由緒を書いている神社を見つけました。
    ◆諏訪大神社(神奈川県横須賀市)
    由緒「健御名方命は、(中略) 信濃に入り、蝦夷の牙城をおとして諏訪の神となった。事代主命は、北九州博多から出発し丹波・丹後地方を勢力範囲とした漁猟部族の蜑族(たんぞく)の祖神である航海と漁猟を得意とした部族なので、自然と貿易によって富裕となった。(中略) 蜑族は、富山から姫川を逆上って上高地の下の旧湖水で生活していたが、後にサイ川をさき切ってここを干潟して農地としたので農業神としても崇敬された。ここから諏訪湖に移って水上生活をした部族である。」
    富家の伝承、健御名方命の諏訪進出ルートを想像させられる記載ですね。また、神奈川県神社庁のサイトの諏訪大神社の由緒には、出雲王国の存在を想像させるような以下記載が追記されています。
    「健御名方命は、大国主命のみ子で、事代主命はおん兄神さまに当る。そして、日本先住民族蝦夷を征服して、出雲という部族連合国家を建設し、日本古代国家の基礎を築いた方である。」

    さらに、神社の由緒に出雲族の神奈川進出・開拓の記載がある神社を見つけました。
    ◆六所神社(神奈川県中郡大磯町)
    由緒「人皇十代崇神天皇の頃、出雲地方よりこの地に氏族が移住せられ開墾開発された。そしてこの地を「柳田郷」と名付け、彼らの祖神たる櫛稲田姫命、素盞嗚尊、大己貴尊(又の名 大国主命) を守護神として、石上台、又の名伊勢神台 (当鎮座地北西一kmの台地) に祀り社殿を結構し柳田大明神と称して・・・。(中略) 柳田大明神の御加護の元に氏族の人々は心を一つに和して開墾開拓に辛苦努力を重ねられ、東国開発の基礎を固められ又相模国の形成に多大なる貢献をなされた。」

    ◆高森神社(神奈川県伊勢原市)
    由緒「御祭神味須岐高彦根命は、日本に稲作を拡めた加茂族の首長でありました。(中略) その高彦根命が、いつどんな経過で、この高森に鎮座されたか、明らかではありませんが、おそらく古い時代、葛城にゆかりのある人々がこの地に来て開拓、農耕殖産の道を教え、五穀豊穣を願い、郷里にちなみ、心のよりどころとしてここに高部屋の社を建て、祖神の高彦根命をお祭りしたものと思われます。」

    また、個人的には大山祗大神(久那斗大神)をお祀りしている大山阿夫利神社(神奈川県伊勢原市)への出雲族の関わりがどうだったかも興味があります。大元出版「サルタ彦大神と竜」谷戸貞彦著に「幸の神は全国各地でみられるが、特に大切にされているのが、神奈川県伊勢原市の大山だ。・・・」と少し書かれているのは見つけましたが、それ以上は分かっていないです。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      OSAMARU様、ようこそ『偲フ花』にお越しくださいました♪
      そして拙著もお読みいただき、ありがとうございます。

      それにしても、詳しい情報の数々、ずいぶんお調べになりましたね。どれも僕の知らない情報ばかりなので、とてもありがたいです。さっそくマイマップにマーキングさせていただきました。
      とくに富塚八幡宮、たまたまなのでしょうが、僕が斎木雲州氏と初めてお会いしたのが戸塚でした。あの場所にそのような由来があったとは、感慨深いものがあります。
      すぐにでも神奈川に出かけて全て訪ねて回りたいところですが、旅のタイミングが難しい時代になってしまいましたね。
      神奈川で最も印象深い神社は寒川神社でした。
      ぜひ日を見つけて、神奈川再訪させていただきます。
      ちなみに今、江ノ電沿線新聞さんでコラムを掲載させていただいております。
      神奈川は縁深いものを感じているところです。

      いいね

  3. narisawa110 より:

    うぬぅ。
    これを読んでて「有鹿」と諏訪の「有賀」は近いんじゃないかと思いました。
    他にも、志賀など、安曇系の地名も諏方にはあります。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      有鹿も諏訪に繋がりますか、果てしないですね😌

      いいね

  4. 8まん より:

    こんばんは。CHIRICOさん。旅から戻りました。
    今回、私が訪れたのは岡山県の牛窓神社、御朱印は頂けなかった(時間に間に合わず)縣主神社。
    そして移動して佐賀県は陶山神社、有田焼の御朱印帳を頒布するあちこちが有田焼だらけの神社。長崎は唐津神社。福岡は紅葉八幡宮。(AR御朱印が有名) 山口は松陰神社。島根にて再訪、出雲大社、日御碕神社。長野にて再訪、諏訪四社。にて埼玉に帰りました。
    車で一人で向かったため、帰って来てから寝込んでました。(笑)
    今回は地域の居酒屋で地酒というのは諦めました。リスクは出来るだけ避けようかと。
    有田焼の街にて、ぐい呑み位は購入しようと、ご年配の夫婦のお店に入って冷汗を掻く。「ぐい呑み高っ。」この周辺の有田焼の街は人気が無く閑散としていて、ご夫婦ともお話したのですが、コロナの影響で陶器市も出来ない上、人も来ない。本当に死活問題なんだとか。情にほだされてそこそこする値段のものを購入。きちんと箱があって、但し書きのついた由緒正しい焼き物。・・・旅の路銀が・・・。有田焼の価値が分からないけど使い勝手の良いものを購入してるし、ちょっとでも有田焼の業界に貢献出来るのならそれで良しと。
    本来ならもう少し九州を堪能してから帰るつもりだったのですが予算面で帰宅が早まりました。
    そうそう、CHIRICOさん、諏訪四社参りの授与品が変更になってます。なんと時節柄のマスク。また、奉賛金も募集していて、3000円からだと梶の葉紋の帽子。8000円からだとネクタイ。今まで、出雲さんと阿蘇さんに奉賛金納めてみましたが返礼品が出たのは初めてだったのでちょっとびっくり。

    んで、帰宅して早々にオイル交換やら何やら。車のメンテ済ませて、今日まで引き籠りました。気分的には疲労感でいっぱいで明日からの仕事に大きな支障があるのですが、久しぶりの神社巡りと御朱印巡りで、憑き物は取れてる感じなんで頑張ります。明日から。
    旅の報告でした。(笑)

    今回はコロナによって色々な所が本当に打撃を受けているなと実感しました。一年も経っているのにPCR検査を国民に徹底出来るようにしておけば、
    ここまでの状況悪化を出すこともなかったろうに。オリンピックなんて諦めてしまえばコロナにもう少し対応できるだろうに。
    ちとぼやきます。
    CHIRICOさん、変異コロナは大事になりそうですよ。この国でも。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      8まんさん、すごい長旅でしたね、お疲れ様です。
      リフレッシュできたようでなによりです。

      この国は国民に過酷な努力を強いていながら、いまだ毎日2000人の外国人を受け入れているのです。
      そりゃ変異株も猛威を振るいますよ。
      僕らの努力は何なのでしょうね。

      でも混乱してパニックになるのは思う壺。
      違和感の裏には人の思惑が隠されているものですが、このコロナの大狂乱は違和感の総合デパートです。
      冷静に、気長に根気強く向き合っていくほかありません。

      いいね

  5. CoccoCan より:

    文字通り「清水」ですね。日本の土地の豊かさと繊細さを感じます。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      コメントありがとうございます♪
      神奈川の街中に、古代から滔々と溢れ続ける清水、まったく素晴らしいの一言でした。
      近代化の中で消えゆく史跡も多いのでしょうが、少しでも多く、このような場所が残り続けてほしいと願います。

      いいね: 1人

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