倉賀野神社:八雲ニ散ル花 龍宮ノ末裔篇 04

投稿日:

a060417-2021-05-27-07-10.jpeg

今から二千年の昔、第十代崇神(すじん)天皇の御代、国中に悪疫が広まり、帝は倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)に祈願してようやく国家の災厄を鎮めることができた。
やがて皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)は父帝から東国の平定を命ぜられる。そして出立のとき、帝から御愛石(大切にしていた亀形の自然石)を授けられた。
社伝によれば、豊城入彦命は陣中すなわち今の境内に松樹をお手植えになり、都から捧持してきた亀石を御霊代(みたましろ)として祭祀をおこなわれた。
この石は倭大国魂神の御分霊と伝わり、「御神体のクニタマさま」として今も御本殿に奉安される。

~ 倉賀野神社 御由緒 より ~

c1d-2021-05-27-07-10.jpg

a060419-2021-05-27-07-10.jpeg

群馬県高崎市倉賀野町の「倉賀野神社」(くらがのじんじゃ)を訪ねました。
当シリーズではここからしばらく、上毛野国(かみつけぬのくに)の豊彦の痕跡を辿ります。

a060420-2021-05-27-07-10.jpeg

倉賀野神社の祭神は「大國魂神」(おおくにたまのかみ)で、大国主の荒魂(あらみたま)であると云われています。

a060423-2021-05-27-07-10.jpeg

社伝によると、崇神・イニエ王の時代、豊城入彦が陣中(当社境内)に斎場を設けて松樹を手植えし、亀形の御愛石を御魂代として祭祀したのが始まりであると伝えます。

a060424-2021-05-27-07-10.jpeg

しかしそこに祀られる主祭神が大国主の荒御魂とはいかなるものか。
豊彦が当地で祭祀したなら、祀る神は母・豊玉姫もしくは月神であるはずです。

a060425-2021-05-27-07-10.jpeg

江戸時代に中山道倉賀野宿と近隣七ヶ郷の総鎮守として崇敬を集めた当社、その旧社名は飯玉大明神(いいだまだいみょうじん)と呼ばれていたそうです。
明治10年に大国魂神社と改称し、同43年に近隣の数社を合併して倉賀野神社と改称されました。

a060421-2021-05-27-07-10.jpeg

今も地元の人に「飯玉さま」と愛称で呼ばれるその「玉」に、月神の片鱗を垣間見ることができます。
すると当社に伝わる「飯玉縁起」に興味深い話がありました。

a060422-2021-05-27-07-10.jpeg

『光仁天皇(771~780)の御代、群馬郡の地頭群馬太夫満行には八人の子がいた。末子の八郎満胤は、芸能弓馬の道にすぐれ帝から目代の職をたまわるようになった。
ところが兄たちは八郎を夜討にして、鳥啄池の岩屋に押しこめた。
三年後、八郎は龍王の智徳を受けて大蛇となり、兄たちとその妻子眷属まで食い殺した。その害は国中の人々まで及ぶようになったので、帝はこれを憂え、年に一人の生贄を許した。
やがて、小幡権守宗岡が贄番に当たる年、十六才の娘海津姫との別れを共々に嘆き悲しんだ。都からやってきた奥州への勅使、宮内判官宗光はこれを知り、海津姫と共に岩屋へ入った。
頭を振り尾をたたく大蛇にむかい、一心に観世音菩薩を称名、琴を弾いた。これによって、大蛇は黄色の涙を流して悔い改め、神明となって衆生を利益せんと空を飛んだ。
烏川の辺に移り、「吾が名は飯玉」と託宣し消え失せた。これを見た倉賀野の住人高木左衛門定国に命じて、勅使宗光が建てさせたのが「飯玉大明神」であるという。』

a060426-2021-05-27-07-10.jpeg

この縁起の前半は、兄神の八十神に迫害される大国主の神話によく似ていますが、岩屋(窟)に幽閉されるところは、富家に伝わる史実に通じるものがあります。
また後半はスサノオの八岐大蛇神話によく似ていますが、大蛇は最後に観世音菩薩の名と琴の音によって改心し、神に昇格するという違いがあります。

a060428-2021-05-27-07-10.jpeg

飯玉大明神とは兄の嫉妬を買って当地に追いやられ、兄帝治める大和に牙を剥いた豊彦を指しているのでしょうか。

a060430-2021-05-27-07-10.jpeg

東国で先に大きな勢力を築いたのは、大彦(おおひこ)の末裔たちでした。
大彦は磯城・大和王朝の正当な後継者でしたが、大和入りした物部勢に圧され、信濃国の篠ノ井布施の山里で亡くなりました。
息子の沼川別は伊豆方面から東国に入り、出雲系クナ王国を築いたと考えられます。

a060431-2021-05-27-07-10.jpeg

そこへ豊彦勢が逃げ込んできました。
大彦勢と豊彦勢、最初は諍いもあったことでしょうが、二者は次第に習合し共存することを選んだでしょう。
なぜなら両者には共通する敵が存在したからです。そう、大和の物部勢です。

a060432-2021-05-27-07-10.jpeg

そのあたりの変遷が飯玉縁起の元になったかどうかは、まあよく分かりません。
が、東国の豊彦系の神社では、出雲の大国主や事代主も祀ってあることが意外にも多いのです。

a060433-2021-05-27-07-10.jpeg

倉賀野宿(くらがのしゅく)は、明治に鉄道が敷設されるまでは水運の川岸舟場として栄え、料理屋や遊郭などもあり、たいそう賑わっていたそうです。
その飯盛女(めしもりおんな)たちの信仰を集めていたと言う冠稲荷も、境内の隅に合祀されていました。

a060434-2021-05-27-07-10.jpeg

2608e58089e8b380e9878ee7a59ee7a4be-2021-05-27-07-10.jpg

2件のコメント 追加

  1. KYO より:

    こちらに来られていたんですね!
    倉賀野はごく近所ですが、行ったことがありません。近いうちに訪ねてみようと思います(^-^)

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      KYO様、こんにちは!
      お伺いしたのは、御朱印にあるように昨年の10月になります。ようやくアップできました。
      倉賀野神社の拝殿の向拜に、信濃の彫師・北村喜代松の作と伝わる琴を弾く宗光の彫刻があるそうです。残念ながら僕はそれをよく見ることなく立ち去ってしまいました。
      まあ、またきっと群馬に旅する機会もあると思いますので、その時忘れていなかったら参拝したいものです。
      日本中旅していますが、中でも群馬と山形に惚れ込んでいます♪いつか妻も連れて行ってあげたいと思っています。

      いいね: 1人

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください