三夜沢赤城神社:八雲ニ散ル花 龍宮ノ末裔篇 07

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群馬県前橋市三夜沢(みよさわ)町に鎮座する「赤城神社」(あかぎじんじゃ)は、関東地方を中心として全国に約300社ある赤城社の本宮とされる一社です。

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長女某姫宮が粕川下流の月田に建てたという近戸神社に対し、粕川上流の赤城山の中腹に豊城入彦命が永く居住した御殿にあたる場所です。

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境内に足を踏み入れてすぐ右手、池の上に手水が設けられていました。

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この池は粕川から引き込まれているのか、はたまた赤城山の大沼・小沼信仰を表しているのか。

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豊かな水の気配を感じとります。

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三夜沢赤城神社は明治以前は大沼・小沼を信仰の対象とする「西宮」と、地蔵岳の地蔵菩薩を信仰の対象とする「東宮」があったと伝えられます。

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明治2年(1869年)の廃仏毀釈の際、東宮の竜赤寺と西宮の神光寺という2つの神宮寺が廃寺となり、2社は東宮に合併し、今の三夜沢赤城神社となりました。
その後、西宮跡には建築物は建てられず、鳥居跡の礎石のみが残っているそうです。

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拝殿手前の右手に

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神代文字(じんだいもじ)が刻まれているという石碑がありました。

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神代文字は漢字が伝わる以前に存在したといわれる古代文字で、この碑は復古神道の遺物として明治3年3月に建碑されたそうです。
碑文は平田鐵胤(平田篤胤の養子)、神文は延胤(鐵胤の子)による撰文。
神文「マナヒトコロノナレルコヱヨシ」は対馬の阿比留家に伝わる阿比留文字で書かれているとのこと。

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神代文字が存在したかどうかは真偽分かれる所ですが、なぜ阿比留文字なのか。
豊国文字であったなら、ふむふむと思えたものです。
それにしてもハングルっぽいなと思っていたら、なるほど阿比留家は対馬由来でした。
かの国は歴史の捏造でも有名ですので、その悪影響が阿比留家に及んでいたとしたらゲンナリです。

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拝殿が見えて来ました。

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創建は不詳ながらも、上代に豊城入彦命が上毛野国を支配することになった際、大己貴命を奉じたのに始まるとされる神社。
祭神は「豊城入彦命」(とよきいりひこのみこと)と「大己貴命」(おおなむちのみこと)になります。

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本殿はほとんど見えませんが、県の有形文化財に指定され、正面三間・側面二間、切妻造平入の神明造で銅板葺。
千木は内削ぎで、8本の鰹木をあげています。

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中門前の杉の大木は「俵杉」(たわらすぎ)と呼ばれています。
藤原秀郷(俵藤太)が平将門討伐のため上野国府に向かう途中、献木として植えたと伝えられるもので、群馬県の天然記念物に指定されています。
ちなみに同様の伝説は一之宮貫前神社の「藤太杉」にも伝わっていました。

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赤城神社と貫前神社の関係については、次のような伝説があります。
赤城神は当初、上毛野国の一之宮でしたが、機織りをしたときに「くだ」(糸)が足りなく なってしまい、貫前神に借りてようやく織り上げることができたのだそうです。
それに感謝して、貫前神社に一之宮を譲ったのだとか。

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また、財力に富んだ貫前の女神を他国に渡してはならない と、赤城神が貫前の女神に一之宮を譲ったが故に、赤城神社は二之宮になったのだと云います。

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貫前神を祀っていたのは、信濃国から西上州に進出した 帰化人集団の抜鉾氏であるそうです。
赤城神を祀る上毛野氏は優れた抜鉾氏の技術を得たかったので経津主命と姫大神(養蚕機織の神)を祭祀する貫前神社に一之宮を譲ったとするということのようです。
しかし貫前神社を訪ねてみて、僕は別の考えに行き着くことになりました。

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それにしても、三夜沢赤城神社境内の左奥は、小さな石の祠がたくさん点在しています。

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全国に約300社あるという赤城社のその本宮も、「二宮」「三夜沢」「大洞」のどこかということで度々論争となっているようです。
その中で二之宮の地名を受け継いでいる「二宮赤城神社」は当社・三夜沢赤城神社の御神幸があったことや近辺には近戸神社群が鎮座していることから有力視されています。

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ところがこの二宮赤城神社の祭神は「大己貴命」であり、上毛野氏の始祖である「豊城入彦命」が社伝に書かれていながら主祭神として祀られていません。
これについて東京福祉大学・大学院紀要第8巻第1号にある『人々を楽しませる赤城山の魅力 3 – 赤城神社(二宮・三夜沢・大洞)の歴史的背景 –』に面白い考察がありました。

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これは三夜沢赤城神社の東宮と西宮の影響によるもので、 「赤城山南麓の赤城神社の祭神は、1868(明治元)年の群馬県 神社明細帳をみると、三夜沢赤城神社からみて南東側は 大己貴命が、南西側には豊城入彦命が祀られ、赤城山の中心 軸を境として東西で異なる分布をしていた。これは東西 2 社あった三夜沢赤城神社の東宮が大己貴神を、西宮が豊城入彦命を祀っていたため、自社の影響下にある分社を、東宮と西宮がそれぞれ把握していた。」というものです。

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思うに、豊城入彦、つまり親魏和王・豊玉姫の長男「豊彦」が、一応は出雲の血を引いていたとしても、出雲神を祀ったとは考えにくいのです。
彼は出雲系大和族を攻め、その聖地・三輪山を荒らしました。
彼が祀るなら、それは何をさておき月神もしくは母神・豊玉姫であったはずなのです。

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しかしここ群馬に、豊城入彦命が大己貴神を祀ったという伝承が多く残されているというこは、先住の大彦系の一族と豊彦系の一族が習合共存したことを示しています。
先の東京福祉大学の説は、この両者が往古に住み分けて暮らしていたことの名残りではないかと思われました。

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もう1点興味深いのは、三夜沢赤城神社から約1.3km、1時間ほど山を登ったところに「櫃石」(ひついし)と呼ばれる磐座祭祀遺跡があるそうです。
長さ7cm以上もあるヒスイの勾玉や土器、模造鉄剣などが多数出土したらしく気になります。
今回は行きませんでしたが、近々最トライしたいと思っています。

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帰り際、ふと気になった小道の先は

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滔々と流れる御神水。

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一口含めば、濁酒の香りがしたような、しなかったような、そんな気がしたのでした。

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4件のコメント 追加

  1. れんげ より:

    返信ありがとうございます。
    私もたまたま大学で第二外国語に韓国語を選択し、わずかに習っただけですが、そんな程度でもこれはもうハングルのパクリでしょう、と言えてしまいます(^^;)。

    ハングルはローマ字と同じで子音と母音の組み合わせというシンプルな作りなので、例えば「マ」が「◻︎|-」みたいに書かれていますが、◻︎=m、|-=aという感じです。
    ※記号で無理矢理ハングル的な字を作ったので変でスミマセン。

    そんなわけで、日本語をローマ字表記する感覚で日本語をハングル表記することは割と簡単にできます。

    対馬でハングルを覚えた人が江戸なりに行って、「これは阿比留家に伝わる…」なんて言ったら、信じちゃったかもしれないですね。

    出雲八重書きが残っていて欲しかったですね。ユフだけでなく銅鐸にでも残してくれたら良かったのに。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      なるほど、ハングルのわかりやすい解説ありがとうございます😊
      銅鐸には線画が刻まれていましたが、八重書きの内容も文字というより、もっと抽象的なものだったのかもしれませんね。
      豊国文字というものもあるのですが、これも少々怪しいもので、のちの人がさもそれらしく伝えたのかもしれません。

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  2. れんげ より:

    神代文字、おっしゃる通り、ハングルですね。少〜し違うところもありますが、日本語をハングル表記しただけです。
    李氏朝鮮の時代に作られたものを神代文字とは、何ともですね(´Д` )。
    市指定とはいえ、重要文化財…う〜ん?と思ってしまいました(^^;)。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      れんげさん、ありがとうございます。
      僕は外国語が苦手で、もちろんハングルも詳しくはないので、考証が捗ります。
      出雲王国時代、大分の由布院で作られたユフという紙のようなものに、八重書きという掟を記したと富家に伝わっていますので、何かしらの文字が存在していたとは思われます。
      おそらくは象形文字のようなものかと。
      しかしそれは、数十年・数百年と保存可能なものではなく、詳細を知ることはほぼ不可能なのではないでしょうか。

      古代にロマンは欠かせないのですが、あまり露骨な作為は勘弁して欲しいものです😅

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