豊彦の古墳を探して、群馬を旅しました。
その一つ「郷見神社」(さとみじんじゃ)は群馬県高崎市下里見町にあります。
こんもりとした丘の上にある当社、この丘自体が古墳なのでしょうか。
一段登って開けた場所には、赤茶色の建物の中に社殿が保管されています。
これらは合併した神社の社殿だそうで「八幡宮」「月読宮」「諏訪大明神」「天満宮」となっています。
それぞれの社殿を作った年代は正確には判明しておらず、徳川初期から中期のものと考えられています。
この中で月読宮と諏訪大明神が合祀されているのは非常に興味深い。
本殿へはさらに階段を登るのですがその下に祀られる小さな石の祠は、屋根の横に鬼が彫られた珍しもの。
その彫刻を撮り忘れてしまいました、テヘペロ。
郷見神社の創立・由緒は不詳で、 一説には豊城入彦命の古墳を守るために郷見神社の元となる諏訪神社が建てられたとの伝承があるものの、それを証明する古文書は失われていました。
なぜ豊彦の古墳を守るために諏訪神が祀られたのかという疑問が湧きますが、豊彦が東国に敗走する際、諏訪の千鹿頭神族と集合したと考えると、ギリギリ許容できる考察ではあります。
祭神は、建御名方神のほか、月讀尊、八幡神、菅原道真の三柱。
八幡宮では里見義俊が源家の氏神である岩清水八幡宮を勧請したと伝わっており、その子・里見義成が築いた里見城が隣接しています。
この里見氏が新田氏になるそうで、当地は新田義貞公の生誕地であると語り伝えていました。
この本殿の裏手に古墳とされる丘陵があり、古老たちが次のような話を伝えているといいます。
「豊城入彦命が、病を得て薨去されるや、崇神天皇はいたくその死を悲しまれ、せめてその遺体だけでも都へ運び、天皇の側近に葬りたいものと考えられて都から多数の人を遣わせて、命の遺体を都へ運ばした。
上野の人民は、この地方開拓の恩人であり、威徳の高い命の遺体をこの地に葬り、長く懇ろにその霊を弔いたいと懇願したが、この切なる願いも入れられず、遺体は都へ運ばれていくので、ついに堪りかねた民衆は遺体を碓氷峠で奪い返し、本街道よりそれ、しかも朝日差し夕日輝く丘を選んで葬った。その地が郷見神社裏山の古墳である」
この伝承は記紀に即したものでしょうが、実際は豊彦が亡くなるより前に九州の地で崇神イニエ王は亡くなっており、また後任の垂仁イクメ帝は豊彦を東国に追いやった張本人なので、豊彦の遺体を大和が引き受けて葬ろうなどと考えるはずがありません。
当地では豊城入彦命の墓守として富沢一族が任じられ代々その墓守の役につき、里見村七代目の村長・富沢柳太郎がその子孫であると伝えられていました。
この古墳は、きわめて質素な自然石をもって作られた袖形石室で、覆土も少なく小規模のものだそうで、すでに盗掘・発掘されつくし、今日では出土品もなく立証すべき何者もないのだそうです。
明治23年(1890年)6月21日付けの官報で「豊城入彦命の陵墓を知るものは申出るべき」旨の告示がでた時、当代の富沢柳太郎は先祖伝来の槍、鏡等をもって出頭しました。
しかし四代前の祖先の時に、この墳墓に関する古記録を古物商に売った者がいたため、正確な資料がなく当墓を豊城入彦命のものであるとはされず、ついには悶死し、その後継者である富沢新一郎も遺志をついで古文書の捜索に尽力したが、やはり見つからず死亡したとのことです。
古墳の隣に公民館らしき建物が建っていましたが、
その脇にはサイノカミの道祖神がひっそりと祀られていました。
群馬県前橋市総社町植野にある「総社二子山古墳」(そうじゃふたごやまこふん)も豊彦の墓と伝わる古墳です。
当墓は全長約90mの前方後円墳で、6世紀末のものとされます。
墳丘は東西方向に伸び、前方部を西に向けています。
前方部幅60m、高さは8.0mあり、前方部と後円部の両方に両袖型横穴式石室を持っていますが両者は工法を異にしているといいます。
石室はともに江戸時代に開口し、勾玉、金耳環、銅製六鈴釧、鉄鏃、脚付長頸壺などが出土しています。
1874年、教部省によって当墓は、上野毛下野毛の始祖・豊城入彦命の陵墓として認め、翌年には教部省から豊城入彦命の墓に墓掌・墓丁がおかれました。
しかし1876年に宮内省からの給料をめぐり村内で紛糾が起こり、墓掌・墓丁が辞職し自然解消のやむなきに至ったといいます。
その後再度調査が行われましたが、豊城入彦命の陵墓として認定されるには至っていないようです。
総社二子山古墳の裾野にも、ひっそりと道祖神が祀られているのを僕は見逃しませんでした。
群馬県前橋市西大室町にある大室古墳群の一つ、「前二子古墳」(まえふたごこふん)にやってきました。
大室公園として整備された敷地内にはいくつかの古墳が存在し、その南端にやや小ぶりの当墓が位置しています。
主軸を北東70°に向けた前方後円墳で墳丘は全長94mの2段構築。
墳丘の一部は地山を削り出して造成され、周囲を二重の堀で取り囲みます。
明治11年(1878年)3月に大室古墳群の前二子古墳と後二子古墳の石室が発見・開口されました。
明治9年(1876年)に前橋市の総社二子山古墳の豊城入彦陵墓治定が解除されていましたので、当墓の石室が開けられてから1ヶ月後の4月に前二子古墳を豊城入彦命の陵墓として上申しましたが、決定的な根拠を欠くとされ、当時の陵墓認定は失敗に終わりました。
石室から出土した副葬品は、装身具をはじめとして膨大なもので、古墳墳頂や外堤からも円筒埴輪や人物埴輪、家型・大刀などの形象埴輪が見つかっています。
これらの副葬品には朝鮮半島とのつながりを匂わせるものが多く含まれていました。
結局のところ、どこが豊彦の墓であるのか、はっきりとしていません。
今回巡った古墳のいずれかがそうなのかもしれませんが、そうでないのかもしれません。
しかし上毛国に大和に匹敵する巨大な古墳群があり、朝鮮半島と国交があった形跡もありました。
その強大な第二の大和ともいうべき王国の礎となった人物に、龍宮の乙姫・豊玉姫の息子、豊彦の存在があったことは間違いなさそうです。