貫前神社:八雲ニ散ル花 龍宮ノ末裔篇 09

投稿日:

b190487-2019-12-5-21-30.jpeg

上毛野国国造家の竹葉瀬ノ君、齢7つなり。
同じ頃、三韓征服から帰国した息長足姫の息子・誉田別皇子が7才で夭折した。
皇子は姫と武内襲津彦の間に儲けられた子であったという。
息長足姫は皇子が夭折したことを知られるわけにはいかなかった。
それで秘密裏に養子として迎えられたのが竹葉瀬ノ君である。
彼はのちに応神帝と呼ばれた。
竹葉瀬は豊彦の末であり、親魏和王・宇佐の姫巫女「豊玉女王」の子孫であった。
すなわち、大和国15代大君こそ、龍宮ノ末裔である。

c1d-2019-12-5-21-30.jpg

b190515-2019-12-5-21-30.jpeg

信州街道に面する群馬県南西部、世界遺産・富岡製糸場から車で10分の場所に、上野国(こうずけのくに)の一宮「貫前神社」(ぬきさきじんじゃ)があります。
貫前神社は形式として珍しい「日本三大下り宮」の一社とされる神社です。
神様は通常、高いところに祀られるものです。
神棚を家庭で祀る時も、極力高い場所に祀るようになっており、止む無く上階に人が住むような場所に祀る場合は、神棚の上の天井に「雲」と書いた紙を貼ると良いです。

b190514-2019-12-5-21-30.jpeg

なので神社も基本的には山の上・丘の上など、高い場所に建てられています。
しかし稀に高いところから下っていく神社が存在します。
その代表とされるのが日本三大下り宮、ということなのでしょう。

b190513-2019-12-5-21-30.jpeg

しかし貫前神社に関していえば、長い上りの道と階段の参道を行った先に、下りの階段がありました。
三大下り宮の他の二社、宮崎の「鵜戸神宮」、熊本の「草部吉見神社」はひたすらに、下りの階段があるばかりでした。

b190499-2019-12-5-21-30.jpeg

貫前神社の総門横、上りきった所の脇に、末社群がありました。

b190511-2019-12-5-21-30.jpeg

そこの銀杏の紅葉が見事だったので、自然と足が向きます。

b190506-2019-12-5-21-30.jpeg

貫前神社の境内には、天然記念物に指定される巨木も多数見られます。

b190507-2019-12-5-21-30.jpeg

この黄金色の大銀杏は富岡の名木10選の1つ。

b190509-2019-12-5-21-30.jpeg

またその横には同じく富岡の名木10選の1つ、神々しい樹齢1000年のスダジイの巨木が根を張ります。

b190500-2019-12-5-21-30.jpeg

広めの敷地に鎮座する末社群は、社領内に祀られていた各社を寛永12年の造営時に一棟にまとめた「二十二社」、

b190504-2019-12-5-21-30.jpeg

寛永12年以前の本社の旧本殿を移築し、大山祇神ほか17柱を祀った「日枝神社」、

b190503-2019-12-5-21-30.jpeg

伊勢屋敷に鎮座していたものを寛永12年に遷宮したと伝わる「伊勢内宮・外宮」になります。

b190501-2019-12-5-21-30.jpeg

c1d-2019-12-5-21-30.jpg

b190462-2019-12-5-21-30.jpeg

それでは総門をくぐります。

b190463-2019-12-5-21-30.jpeg

そこから先は、見事な下り宮。
深海に沈みゆくように、足を進めます。

b190496-2019-12-5-21-30.jpg

と、総門のすぐ横に「蛙の木」という木が立っていました。

b190497-2019-12-5-21-30.jpeg

この木はタブノキで、太平洋戦争末期に蛙に似たサルノコシカケが出現したのだそうです。
祭神の経津主神が勇武に優れていたことから「勝ってかえる」「勝ちかえる」として兵士・家族の信仰を集め、今では交通安全の守護「無事かえる」として信仰されています。

b190465-2019-12-5-21-30.jpeg

階段の途中、手水舎の上に「月読神社」(つくよみじんじゃ)が鎮座していました。
シンプルな造りですが、朱色が雅さを醸し出しています。
他の末社群が階段の上に置かれていたのに対し、この月読社だけは本社の前の重要な場所に置かれています。
それが意味するところはなにか。

b190464-2019-12-5-21-30.jpeg

見事な楼門。
下り宮の深海の奥底にあったのは龍宮城でした。

b190467-2019-12-5-21-30.jpeg

貫前神社の祭神は「経津主神」(ふつぬしのかみ)。
物部氏の祖神で、神代三剣の一振り「布都御魂剣」の威力を神格化した武神とされます。

b190495-2019-12-5-21-30.jpeg

祭神のもう一柱は「姫大神」(ひめおおかみ)。
不詳の神とされますが、一説には、綾女庄(当地の古い呼称)の養蚕機織の神とされています。
また、『一宮巡詣記』では「本尊稚日女尊、相殿経津主命」と記載されており、女神の方が主神であることを匂わせています。

b190466-2019-12-5-21-30.jpeg

当社に伝わる特殊神事としては「鹿占神事」(しかうらしんじ)、「機織神事」(はたおりしんじ)、「御戸開祭」(みとびらきさい)、「御鎮神事」などがあります。
鹿占神事は鹿の肩骨を清浄な火で焼き、錐でそれを突き刺すというもの。
すんなり貫ければ大吉、そうでなければ小吉か凶、錐が立たない場合は大凶となります。

b190493-2019-12-5-21-30.jpeg

また非常に特異的な神事が「御鎮神事」で、これは神事奉仕中に、絶対に口をきいてはいけない、口を利けば死ぬと伝わるものです。
言い伝えられるところによると、ある宮司がこの神事で「火は大丈夫か」と漏らしただけで翌日急死し、あっと叫んだだけで急死した人もいるとのこと。
いなないた神馬も即死、咳払いですら死ぬと、非常に恐ろしげな神事なのです。
この御鎮神事で使用した草履は、神聖な魔除けになると云うことです。

b190494-2019-12-5-21-30.jpeg

c1d-2019-12-5-21-30.jpg

b190468-2019-12-5-21-30.jpeg

楼門で囲われた聖域の中に鎮座する社殿。
入母屋造の社殿は、寛永12年(1635年)、江戸幕府第3代将軍徳川家光により造営されたと云い、元禄11年(1698年)、第5代綱吉による大規模な修理で極彩色の漆が塗られ、現在ように華麗な造りになりました。

b190470-2019-12-5-21-30.jpeg

本殿向かって左脇に鎮座するのは「抜鉾若御子神社」(ぬきほこわかみこじんじゃ)。
祭神の御子神を祀る摂社です。

b190473-2019-12-5-21-30.jpeg

社伝によると、創建は安閑天皇元年(534年)3月15日とあり、「鷺宮」(安中市の咲前神社に比定)に物部姓磯部氏が氏神である経津主神を祀り、鷺宮の南方に位置する蓬ヶ丘綾女谷に社を定めたのが始まりとしています。

b190488-2019-12-5-21-30.jpeg

本殿は「貫前造」と呼ばれる独特な造りになっています。
本殿内部は2階構造になっていて上段に神座が据えられ、稲含山に向けて「雷神小窓」が設けられています。

b190474-2019-12-5-21-30.jpeg

この雷神小窓、お分かりでしょうか。
拝殿の屋根の上あたりに、四角い小さな窓が取り付けてあります。
四角い枠の中には風神雷神の雷神が描かれており、雷神小窓と呼ばれています。

b190491-2019-12-5-21-30.jpeg

さて、社伝では「安閑天皇」の時代に 物部氏が祖神を祀ったことに始まったとしている当社。
物部氏といえば「秦氏」(はたし)の一族です。
「秦氏」にはいくつかの流れがありますが、主には丹波の「海部家」、尾張の「尾張家」、筑紫の「物部家」などになります。
秦氏の「秦」とは支那の「秦」のことで、徐福とともに出雲に上陸した一族が「海部家」、2度目の徐福の航海で佐賀平野に上陸した一族が「物部家」となりました。
尾張家は畿内葛城の大和入りした海部家が名を変えたものです。

b190469-2019-12-5-21-30.jpeg

秦氏とは正確には、秦国人ではなく、秦に最後に滅ぼされた「斉」の人たちです。
斉人は失われた十支族の末裔の血を引くもので、日本の古い神社に六芒星など、イスラエルの痕跡が残るのはそういう理由だと云います。
また「秦」を「はた」と呼ぶのは、秦氏が機織りの技術を日本に伝えたからというのが由来のようです。
普通に考えれば、「秦」を「はた」とは呼ばないですよね。
かの富岡製糸場もすぐ近くにあり、当社に伝わる「養蚕機織りの神」は秦氏・物部の祀る神がその正体か、と納得するものです。

b190475-2019-12-5-21-30.jpeg

ところが話はそう簡単ではなさそうです。
当社の謎の祭神「姫大神」と同じ神を祀る有名な神社が九州にあります。
「宇佐神宮」です。

b190476-2019-12-5-21-30.jpg

宇佐神宮の主祭神は八幡神「応神天皇」ということになっています。
しかし真の祭神は謎の神「比売大神」です。
この「比売大神」は一般に「宗像三女神」のことであると解釈されていますが、実のところは邪馬台国の卑弥呼と呼ばれる「豊玉姫」だと、富王家の伝承は説きます。

b190477-2019-12-5-21-30.jpeg

宇佐一族は月神信仰でした。
月読命は豊玉姫、そして豊姫が祭祀した神です。
貫前神社楼門前に、末社の中で特別な社殿を持って祀られていたのが月読命でした。

b190479-2019-12-5-21-30.jpeg

当社は物部によって祭神が書き換えられている可能性が濃厚であり、本来の祭神は豊玉姫(もしくは娘の豊姫)と月読命であったのではないでしょうか。

b190485-2019-12-5-21-30.jpeg

そしてnokanannさん曰く、ここが竹葉瀬ノ君の宮であったのではとのこと。
全く同意です。
竹葉瀬(たかはせ)は豊彦の子孫でした。
彼は後に15代大君「応神帝」となる人物です。

b190481-2019-12-5-21-30.jpeg

息長足姫・神功皇后の三韓征伐は、辰韓が滅び新羅になる時、辰韓の王子「天日槍」の子孫たる自分の相続権(新羅国の年貢を受け取る権利)を主張するための遠征でした。
その権利を見事勝ち取り帰国した皇后でしたが、皇子の誉田別(ほむたわけ)が7歳で夭折(死去)してしまいます。
誉田別は皇后と武内襲津彦(武内宿禰)との間に生まれた皇子でした。
もし皇子(後継者)の死が知られると、新羅が年貢を送ることを渋ると考えた皇后は皇子の死を隠しました。
そして当時親交のあった上毛野国(群馬県)国造家の皇子「竹葉瀬ノ君」が同じ7歳というのを知り、秘密裏に呼び寄せ、息長家の養子としたのです。

b190482-2019-12-5-21-30.jpeg

このことは、出雲王国末裔の「富・向家」と、天日槍の末裔である「神床家」の両家に一致する伝承として伝えられていると富氏は語ります。
また、宇佐家の古伝によると、「武内宿爾と神功皇后との不義密通のあいだに生まれて、4歳にして早世した誉田天皇ではなく、神武天皇と菟狭津媛命とのあいだに生まれた宇佐都臣命が、越智宿爾の女常世織姫命に要って生まれた神武天皇の皇孫で、本当の応神天皇実は宇佐押人命である」とし、欽明帝32年(570年)2月初卯の日に、大神氏の後裔で朝鮮流シャーマン大神比義の心眼に、3歳の童子の姿となって竹葉の上に立って幻じ、「われはこれ、護国霊験威力神通大自在王菩薩、わが名は誉田天皇広幡八幡麻呂なり」と僣称して出現した、と宇佐公康氏はその著書の中で記しています。

b190484-2019-12-5-21-30.jpeg

敦賀の氣比神宮の伝承によると、敦賀の仮宮で、伊奢沙和気大神が武内宿禰の夢に現れ、「私の名を御子の御名に変えたい」と告げたという話があります。
武内宿禰は「畏れ多いことです」と謹んで承諾すると「明日の朝、浜へお出かけなさい。名を変えたしるしの贈り物をさしあげましょう」と神のお告げを受けました。
翌朝、武内宿禰が浜へ出てみると、鼻の傷ついたイルカが浦いっぱいに集まっていたので「神が私に食料の魚を下さった」と神の御名を称えて「御食つ大神」と名付けたと云います。
この神の名の交換神話は、皇子が秘密裏に入れ替えられたことを示しています。
竹葉瀬ノ君はここから北の居多神社に移り、そこから敦賀へ向かうのでした。

b190492-2019-12-5-21-30.jpeg

2318e8b2abe5898de7a59ee7a4be-2019-12-5-21-30.jpg

7件のコメント 追加

  1. nokanann より:

    こんばんは。
     竹葉瀬ノ君(一族)は、ここなんじゃないかと密かに思ってます。
    元、お寺の在った場所、あの場所がずっと気になってました。
    そうなのです。私はここ数年、桜の時期に訪れています。
     なぜ、ここで(なんとなく)月読神社なのかと、思っていた疑問が、かの本に依って解決したのであります。

     摂社末社に重要な鍵が有ることも楽しみの一つです。
    日本のそこかしこに隠れた出雲族の痕跡を探すのも旅を一層、より深い楽しみに導いてくれます。

     面白い話で、お客様がDNA鑑定をしたそうです。(その方は、津軽出身です)
    最初、インドの血が数パーセント入ってると云う結果を聞いた時、その鑑定間違いじゃ?と思いました。
     インドから来たドラヴィダ族と云う話を読んだ後で納得です。
    日本人に多い型だと書いてありました。興味深いですよね。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      ああ、そうか、竹葉瀬ノ君、そうですね。
      そこまで思い至ってませんでした!
      確かにそうです、ぴったりです!
      はぁ〜なんで思い至らなかったんだろ。
      いやそうですね、めっちゃ興奮してきました。
      もう一回行き直したいっ!(笑)

      氣比神宮まで少々距離はありますが、秘密裏に事をなし得るにちょうど良い距離でもあります。
      そうか〜。
      でもあの月読社は後の再建でしょうから、真の歴史を伝承している人が、そこにいるのだろうと思いますよね。

      ドラヴィダ族が日本最初の人類というこではないのは確かで、宇佐族は彼らよりも早く日本に定住していたと伝わっています。
      さらに沖縄の港川人始め、様々な原始人がこの島国に至っていたというのは科学的に証明されています。
      その後にやってきた秦族、日矛族、いろんな国の血が複雑に絡み合って僕らはここに立っています。
      ただ秦族・日矛族は、今の情勢を見ても分かるように、好戦的な民族でした。
      日本人の穏やかさを形成できたのは、ドラヴィダ族のDNAが大きいのではないか、と思っています。

      世界的評価では、君主制国家よりも共和制国家の方が優れている、とされているようです。
      それは世界の君主は、国民から搾取する事しかしてこなかったからです。
      やがて国民はクーデターを起こし、君主のすげ替えということが繰り返されてきました。
      2度の大戦は、君主制国家と共和制国家の争いという一面も持っており、これにより多くの君主国家が滅ぶことになったそうです。

      が、共和制を超える、理想の君主国家がありました。
      それは君主が民から搾取することなく、また民も無償の愛を君主に向ける、そんな関係性です。
      それが日本です。
      万世一系を唱える天皇制が今に続くのが、その証です。
      世界の極東の小さな島国にこの君主制が生き残っているのは、まさに奇跡というほかありません。
      そんな日本を残してくれた、古代人とこの国土に感謝の気持ちが絶えません。

      いいね

  2. CHIRICO より:

    出雲族の先祖はインドのドラヴィダ族、ということです。
    好戦的な狩猟民族アーリア人の侵攻で、温厚な農耕民族だったドラヴィダ族は殺され、奴隷として捉えられたそうです。
    ドラヴィダ族の一王だったクナトは民を連れて、それまで耳にしていた東の海の果てにある温暖な島を目指すことにしました。
    他民族に出会って抗争にならないよう、寒い北方の道を進み、樺太半島から北海道に移り、東北を抜けて出雲に至りました。
    なぜ出雲に定住したのか、というと、そこには良質な砂鉄を大量に含んだ黒い川「斐伊川」があったからだそうです。
    故郷に比べて、出雲は広葉樹に覆われており、春に一斉に芽吹くその姿が目に焼きついて、その定住の地を「出芽」と呼んだそうです。
    それが出雲の語源だと。

    出雲族の子孫は偉大な王を祖神「クナトの神」と崇めました。
    またその后を「幸姫」「キサカ姫」などと呼び、二人の子神としてインドのガネーシャを当て、この3神を「幸神」(サイノカミ)として信仰したそうです。
    長いという言葉はドラヴィダ語では「サルタ」というので、ガネーシャは日本では「サルタ彦」と呼ばれました。
    クナト神は記紀でイザナギ、幸姫はイザナミと表記されることもあります。
    また幸神は出雲の女神「神皇産霊神」としても表記されます。

    幸神信仰は男女の交わりをシンボルとしていました。
    古代には乳幼児の死亡率が異常に高かったので、生命誕生の行為は神聖視されたといいます。
    性器のような岩を御神体とするのは、出雲族が行なった祭祀の名残です。
    出雲から出土する青銅器に×の刻印があるものがありますが、これは東出雲王家「富家」の紋であり、サイノカミが交わる姿を表しています。
    この×は東出雲に多く見られる四方突出型古墳も同じ意味であり、和歌山花の窟の垂れ下がるロープにも見受けられます。

    徐福は最初に故郷の童男童女2000人を連れて出雲に至り、なぜか一度国に戻ります。
    大した成果もないのに秦国に戻れば、気性の荒い始皇帝・嬴政に処刑されるかもしれないのに。
    そして再び3000人の童男童女を連れて、佐賀平野に至り、そこで死ぬまで暮らしました。
    彼は始皇帝に不老不死の妙薬を持ち帰るためでなく、始皇帝から故郷の民を守るため、危険を冒して2度日本にやってきたのだと、僕は推察しています。

    いいね

  3. 8まん より:

    ゆかりは古し貫前神社。上毛かるたで詠われる群馬の一の宮。
    斉。ニヤリ。秦になる前に中国では春秋戦国時代があり、呉、越、楚と滅亡した国がありました。最後に秦。
    日本に落ち延びた民たちがあるそうです。記紀にしても出雲伝承にしても関の東の伝承には足りてない。そう思えました。
    それは、古くから岐阜を境に関の東を劣った場所と伝えられてきた為なのかと。
    果たして関の東は出雲や大和の東征前に、文化や国が無かったのでしょうか?忌部一族が千葉に至る前に・・・。坂上田村麻呂の時代まで屈していない蝦夷の民。
    日本には3~4万年前くらいから人間が住みついていたそうです。D2遺伝子といわれる縄文人。狩りには長野の得産物で黒曜石が物々交換の形で
    各地に伝わってます。ミシャクチの神様在りし地、諏訪。アラハバキ在りし蝦夷。そうそうクナト神・・・アイヌでは「ク、ナドゥ」と表現されるらしい。
    「ク」は性器。「ナドゥ」はその行為。らしいです。榛名神社さんで見られましたかね。昔は自然の森羅万象崇拝と性に対しての崇拝、故国先祖神崇拝。
    出雲平野に人が住み始めたのはBC3000年くらい前とされてます。稲作青銅器BC600年に伝わった。
    徐福はBC210年位に秦の皇帝に不老長寿の薬を求められ日本に至ったとあります。
    日本で当時、不老長寿の薬とされたのは、朱に混ぜる水銀(体にマーキングしたり化粧したり)だったそうな。当時はニウツと呼ばれ和歌山の丹生比女神社の略記で水銀の事を知り、和歌山にも徐福伝承が残っていることから、誰かが丹生の事を秦に伝えていなければわざわざ秦から来ることもない。おそらく和歌山で特産物であった水銀は物々交換でも当時は高価であったのかもと。
    話が逸れた。
    私はいろんな人から可能性の過去を伝えてもらって考察してます。古代は勝者よりも消された敗者が多い。順序も大事。
    色々なアプローチが大切です。
    ここしばらく離れます。

    地震絡みのほうにしばらく行ってきます。では。

    いいね: 2人

    1. nakagawa より:

      横からお邪魔します。
      関の東のことをもっと知りたいと思っている一人です。
      主体が限られた伝承や文字資料では足りていないというのは、本当にその通り。
      有珠モシリ遺跡の貝輪、東日流日下王国、などなど。
      8まん様の探究が進まれますことをお祈りいたします。

      いいね: 1人

      1. nakagawa より:

        余談ですが、「クナト」は今読んでいる地元の伝承にも登場する言葉で、地名にもなっています。(修験道が入ってからは「不入道」という地名に変わっていますが。)
        意味は計算上大事な定数の置き換えとのこと。
        元々は違う言葉だったのが、現代に至る間に同じ発音になったのかもしれませんが、土地土地で「クナト」に意味を見いだしているのが興味深いと思っているところです。

        (って、こんなこと言ったら「クナトはドラヴィダ族の王じゃぁぁぁ。何度言ったらわかるんじゃい。」とCHIRICOさんに怒られそうですね。)

        いいね: 1人

        1. CHIRICO より:

          怒ったりしません(笑)
          古代のことなんて、絶対的な正解を導き出すことなんで不可能だからです。
          長ーい時間の中で、いろんな思惑がごちゃまぜになっていますから。
          僕ごときが歴史の深淵の一端でも解き明かせるのなら、とっくに歴史問題は解決しているはずです。

          これまでも時々書いていますが、大元出版本も完璧ではありません。
          矛盾が多いことも知っています。
          が、今まで自分で歩いてみて、疑問を感じていたことが、見事に辻褄合う内容だということも確か。
          まあ、ここは僕のフィールドなので、僕の主張をやや強引に押させていただいています。
          他所で「何度言ったらわかるんじゃいっっ!」なんて言いませんよ(笑)

          いいね

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください