伊豆半島の最南端に位置する石廊崎の聖地を訪ねました。
遊覧船乗り場に広い有料の駐車場がありますが、早い時間であれば、店先の無料駐車スペースに駐めることもできます。
石廊崎(いろうざき)まではしばし歩くことに。
10分ほどですが、割ときつい坂道を登っていきます。
と、道の駅のようなスペースが建造中でした。
1ヶ月後くらいには、車で楽々石廊崎までやってこれるのかもしれません。
しかし苦労があるからこそ、ご利益もあるのだと負け惜しみつつ、鳥居のある場所までやって来ました。
そう、この先には「石室神社」(いろうじんじゃ、いしむろじんじゃ)があるのです。
灯台と海が見えて来ました。
海風が心地よいです。
などと海の景色に見惚れていると
いきなり断崖絶壁に立つ神社が。
そして神社から岬まで道が伸びています。
この岩に張り付くように鎮座するのが「石室神社」。
誰がこのような場所に神社を築いたのか、由来や創建時期には諸説あり、必ずしも定かではないと云います。
社伝によれば文武天皇大宝元年(701年)に堂が建てられ、後に役小角が神託を受けて伊波例命を祀ったと伝えます。
拝殿内に展示されている「石廊山金剛院縁起」によると、役小角が伊豆大島へ流されたとき、十一面施無畏(せむい)の神力を得てこの地に至ったとか、文武天皇4年(700年)の大地震の際にも、龍と白鳥が現れてこの地を守ったと記されています。
また、村人の一人が、海中より宝殿が浮かび上がって岬の岩窟に座す夢を見たため、行ってみると宝殿が出現し中に十一面観音が安置されていたと云う話も記されていました。
社殿床の一部がガラス張りになっています。
崖の恐ろしさを体感させるものかと思いましたが、どうやら一本の柱を見せるためのものでした。
これは千石船の帆柱だといい、次のような話が伝えられていました。
昔、播州から塩運搬の千石船が航海中、石廊崎の沖で嵐に遭いました。
船頭は祈り、千石船の帆柱を石廊権現に奉納することを誓うと嵐は治り、無事に江戸に到着することが叶います。
船頭はすっかり帆柱奉納のことを忘れて帰路の航海に出ると、今度は当社の沖で船が進まず、暴風雨になりました。
誓いを思い出した船頭が慌てて千石船の帆柱を斧で切倒すと、帆柱は波に乗って当社社殿まで到達し、船は無事に播州へ戻ったと云うことです。
『延喜式神名帳』には、伊豆国賀茂郡に「伊波例命神社」があったことが記されており、一般には当社のことであるとされています。
現在の祭神は「伊波例命」(イワレノミコト)となっていますが、この神は三島神であると云う話もあります。
イワレノミコトというと「カムヤマトイワレヒコ」(物部族)、いわゆる神武天皇を連想します。
また三島神と本后の阿波神の子「物忌奈」(モノイミナ)は、秦の始皇帝5世孫と云われ日本に帰化した「弓月君」(ユツキノキミ)のことであるとする説もあり、秦族が伊豆にやって来た可能性は高そうです。
岬の先端までやってくると、海に向かって縁結びの神の祠が建っていました。
これは「熊野神社」だそうです。
むかし、石廊崎近くの長津呂の郷に住む名主の娘「お静」がいました。
お静は、漁師の「幸吉」と恋に落ちましたが、それは身分の違う許されぬ恋でした。
密かな恋が知れると、二人は引き離され、幸吉は神子元島に流されてしまいます。
幸吉を忘れられないお静は、毎夜ひっそりと石廊崎の先端へ赴き、火を焚いて神子元島の幸吉と愛を確かめ合っていました。
ある晩、いつものようにお静は石廊崎へ向かいますが、遠く目を凝らしても、神子元島の火が見えません。
心配になったお静は、荒海の中、小舟を出して神子元島に向かいます。
しかし風は強く、波は高く舟は一向に進みません。
お静は一心不乱に神に祈り、そして舟を漕ぎ続けたのです。
気がつけば、お静の乗った小舟は、神子元島に漂着していました。
そこに幸吉も駆けつけ、無事二人はめぐりあい結ばれました。
その後は親たちも、二人の恋を許すこととなり、お静と幸吉は末長く幸せに暮らしたということです。
お静が火を焚いたところに熊野権現の祠が祀られ、以来縁結びの神として、今に知られることとなったのです。
👍👍
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しかし、凄い場所に建てられたものですね!
興味深く拝読させて頂きました。
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日本には、なぜそこにっ!て場所にある神社がいくつかあり、参拝も苦労します。
だからこそ、どうしても参拝してみたいと燃えてくるのですが(笑)
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