鷲宮神社:八雲ニ散ル花 東ノ国篇 06

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古来よりこの池には、龍神様がお住まいになられていると言い伝えられてきました。しかし、永い年月の間に風雨等により土砂が流れ込み、池が埋もれておりました。
境内整備事業の一環として、平成十一年より、古来の御神池に復元すべく土砂の搬出をしておりますと、池から湧水が溢れ出て、龍のような雲が空を覆いました。その時に
「天まで光輝くような池」
というご神託を受け、池の名を光天之池(みひかりのいけ)と名付けました。

– 光天之池石碑 針谷重威謹書 –

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埼玉県久喜市鷲宮に鎮座する鷲宮神社(わしのみやじんじゃ)を訪ねました。
当時一世を風靡した(?)コミック『らき☆すた』のモデルとなった神社で、アニメのオープニングでは当社の一ノ鳥居が背景として使用されました。
が、その鳥居は倒壊(老朽化?)して今はありません。

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赤い灯籠に導かれ、真っ直ぐに伸びた参道を歩きます。

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当社は「関東最古の大社」、「お酉様の本社」を称しており、鷲神社の本社に位置付けられます。

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お酉様とは主に関東方面で催される「酉の市」(とりのいち)で、関西から西日本で盛んな「えびす祭り」と双璧をなすものです。

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酉の市の由来については、神道と仏教の両説がありますが、神道の場合は日本武尊が東征の戦勝祈願を当社・鷲宮神社で行ったのが始まりであるとしています。
これにより日本武尊が亡くなった日とされる11月の酉の日(鷲宮神社では12月の初酉の日)に大酉祭が行われるようになりました。
対して仏教では鷲妙見大菩薩の開帳日に立った市を酉の市の起源としています。

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参道の途中に近年パワースポットとして人気を集めている「光天之池」(みひかりのいけ)があります。

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古くより龍神さまがお住まいになられているという伝承がある池でしたが、雨風などの影響により土砂が流れ込み、長い間池が埋もれてしまっていました。

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これを本来の御神池の姿に復元するため、平成11年(1999年)に整備が始められました。
その時、池から水が湧き出し、さらには龍のような雲が空を覆ったのだと云います。

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ほとりに建つ小さな祠は「御池社」(みいけしゃ)で、彌都波能賣神、湍津姫命・市杵島姫命・田心姫命を祀っています。

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御神池復元以降、『らき☆すた』ブームもあって鷲宮神社への初詣の参拝客数が年々増加、2009年以降は埼玉県内で初詣客数第2位の神社となりました。
これは「龍神さまのご神徳」であると光天之池目当ての参詣者も多いのだとか。

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池の前には久伊豆神社があります。

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「ひさいず」と読みますが、「クイズ」とも呼べることからクイズ出場者に人気の神社です。

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参道側にある他の境内社はスサノオを祀る「八坂神社」。
2棟の御輿殿に挟まれて鎮座しています。

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その奥にタケミナカタを祀る「諏訪神社」があります。

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こちらは社殿はなく、「諏訪大神」と書かれた大きな石碑が祀られています。

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本社へと向かいましょう。

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社伝によれば、出雲族の草創に係わる関東最古の大社とされ、神代の昔に天穂日命と御子神の武夷鳥命が東国を経営するため、お供の昌彦・昌武の父子と出雲族27人の部族と共に当地に到着し、地元の部族と共に当地の鎮守として大己貴命を祀ったのに始まると伝えています。
その後、日本武尊が東国平定の際に当地を訪れて戦勝祈願を行い、別宮を建てて天穂日命と武夷鳥命を祀ったと云われており、この別宮が現在の鷲宮神社本殿とされています。
ただし、これらのことは『延喜式神名帳』や『国史』に記載されていません。

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鷲宮神社の本殿は2棟ありますが、左側手前は「神崎神社」で大己貴命を祀っています。
右側奥が鷲宮神社本殿で天穂日命・武夷鳥命を祀ります。

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さてこの社伝と祭神には、大いに異論があります。
なぜならこの「鷲宮・ワシの宮」とは本来、「土師宮・ハジの宮」であったからです。

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当社は崇神帝(物部イニエ王)の時代に河内国から東国へ移住した土師氏が、下総国浅草から古利根川を上って当地に移住した際に先祖を祀ったのが起源ではないかという説が唱えられています。
14世紀ごろに成立した『神道集』によれば、伊予国一宮の大山祇神社の三嶋大明神と摂社の鷲大明神が東征し、三島大明神は伊豆国一宮の三嶋大社に、鷲大明神は武蔵国太田庄の鷲宮神社に移り住んだとされています。

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土師氏は崇神帝の次代、垂仁帝(物部イクメ大君)の時代に活躍した野見宿禰(のみのすくね)を祖としますので、土師氏が当地に定住したのはもう少し後の時代だと思われます。

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野見宿禰とは出雲王国が物部族に滅ぼされなければ、本来18代目の主王・大名持となったであろう富家の当主「富大田彦」(とみのおおたひこ)のことです。
つまり土師氏は正当な東出雲王家の血族であるとなります。

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垂仁帝イクメは出雲王国を攻めるよう命令した張本人でしたが、実際に手を下したのはヒボコ族の田道間守(たじまもり)でした。
イクメが大和を統治するようになると、田道間守も自分が王であるかのように振る舞いだし、これをを疎ましく感じたイクメは富家の大田彦に彼を討伐するよう依頼したました。
大田彦は当初ためらいましたが、大事な臣下を殺し、王宮や神殿を破壊した田道間守に復讐する好機と考え、イクメの命令に従うことにしました。

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多くの出雲族を引き連れて大和入りした大田彦は、見事、田道間守に勝利します。
この史実が、野見宿禰と当麻蹴速(たいまのけや)の日本最初の相撲の逸話に変えられて伝えられています。

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やがて大田彦は出雲への帰還の途につきますが、一部の出雲族はそのまま大和に残り、土師氏となります。
イクメをはじめとする物部王朝は、出雲系大和族に度々東国のエミシ遠征を指示しており、その折に当地に居着いた土師氏が鷲宮を建立したものと思われます。

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物部王朝は東にエミシ、西にツチグモと反抗勢力を蔑称で呼び、徹底して制圧しようと動きます。
しかし東国は、大彦をはじめ、出雲系の豪族らが築いた国です。
王朝の目が届きにくいことを良いことに、土師氏らも本気で東国制圧に加担したのではなく、よろしくやっていたのではないでしょうか。

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拝殿の正面に、小ぶりながらも朱く雅な小社があります。
「姫宮神社」(ひめみやじんじゃ)、活玉依姫命(いくたまよりひめ)を祀ります。
活玉依姫は富家の8代目少名彦・事代主(八重波津身)の后のおひとりで、三嶋の溝咋姫(みぞくいひめ)のことです。

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本殿の左側から裏にかけては、末社群が鎮座する杜となっています。

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応神天皇を祀る「八幡神社」(はちまんじんじゃ)は、杜の中で独立した参道を有しています。

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どことなく南国を思わせる雰囲気。

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ここに祀られるのが竹葉瀬ノ君ならば、その雰囲気にも納得。

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彼は九州の日向にあった、龍宮の末裔だからです。

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もう一つの杜の参道は半円を描く回廊のように通り抜けることができます。

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鷲宮神社は「関東最古の大社」を名乗っていますが、歴史資料に当社が現れるのは『吾妻鏡』の建長3年(1251年)の記載が最初であり、この主張は根拠を欠いているのだといいます。
かつては延喜式内社・前玉神社論社に比定されていたそうですが、明治以降はそれを名乗らなくなり、「関東最古」の呼称のみが残った感じです。

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しかしながら近年の発掘調査によって、当地には縄文時代の遺跡(鷲宮堀内遺跡)が見つかっており、古くから住民がいたことがわかっています。

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それは大彦の時代よりも古く、姫宮神社に活玉依姫命が祀られていることから、富家の親族・三嶋家が進出していたことを示しているのではないでしょうか。

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彼らなら、光天之池の地に龍神を祀ったとしても納得です。

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しかしながら、社伝の「神代の昔に天穂日命と御子神の武夷鳥命が東国を経営するため云々」というのはいただけません。
ホヒとタケヒナドリ親子は、出雲族ではないばかりか、出雲の偉大な主王と副王を暗殺した張本人だからです。

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彼らは出雲族を率いることもできませんでしたし、出雲を離れて当地に至るはずがありません。
社伝の話は後世に改竄されたものであると言わざるを得ません。

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杜の参道から少し離れると、環濠集落の痕跡を示す小さな堀がありました。

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故郷を離れた出雲族がたどり着いた東国。
ここには大きな集落があったのでしょう。

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杜の参道を抜けた本殿の背後に「粟島神社」(あわしまじんじゃ)がありました。
10社が合祀され、祭神は「授田毘古神」(さるたひこのかみ)、「武内宿禰」(たけのうちのすくね)、「天太玉命」(あめのふとたまのみこと)、「豊宇気毘売神」(とようけひめのかみ)・「大年神」(おほとしのかみ)、「木花開耶姫命」(このはなのさくやひめのみこと)、「奥津日子命」(おきつひこのみこと)・「奥津比売命」(おきつひめのみこと)・「軻遇突智命」(かぐつちのみこと)、「湍津姫命」(たぎつひめのみこと)・「市杵島姫命」(いちきしまひめのみこと)・「田心姫命」(たごりひめのみこと)、「八千矛神」(やちほこのかみ)、「大山咋神」(おおやまくいのかみ)、「大己貴命」(おほなむぢのみこと)と多岐にわたっています。

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が、「粟島」とは東出雲王家の事代主がお隠れになった神跡の名称です。
ここには八重波津身が本来祀られていたのでしょう。
その社は、鷲宮神社と神崎神社の本殿の先にある、姫宮神社を眺めるように鎮座していたのでした。

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23件のコメント 追加

  1. 匿名 より:

    narisawa110
    ぷっ。自分の昔のコメント忘れてたw

    いいね: 1人

    1. 五条 桐彦 より:

      あるあるですね😆

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  2. 匿名 より:

    narisawa110
    鷲の名の付くここも既に回られていたのですね

    出雲族は数度にわたって入植したと思われ、それが後年の土師氏の話になったのかもしれません。
    しかし、本来は、わし、が語源なのかもしれませんね。
    本殿向かって左の木崎宮が元からある建物でオオナムジ。後年にホヒが祀られます。
    関東出雲族は物部のフリではなく、ホヒの血縁のフリをする事を選んだのだと思います。
    日鷲は、出雲族なんじゃないかと。
    確かに忌部氏は富家の分家なんじゃないかなーと思うお宮です。

    四国にもホヒの降臨伝承があったので、もしかしたら、忌部氏の創設そのものが出雲族の政策的な側面もあるのかなと思う次第です。

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    1. 五条 桐彦 より:

      日鷲と鷲宮、土師氏をつなげるわけですか、なるほど🤔

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  3. まゆら より:

    先日アップされた『伊勢稲荷 白姫 番外』に少し関係あるかなと思ったのですが、私が前に書き込んだ、楠木正成の一族(前は家来と書いたのですが間違いでした)が開拓した袋山の久伊豆神社について、氏子総代の方が今年の地区年報のエッセイで、
    「袋山久伊豆神社は越ケ谷の久伊豆神社から分家したのではなく伊勢大神宮が大元である。」と書かれていました。
    確かに袋山の方は御祭神が大巳貴命で越ケ谷久伊豆神社(大国主命・言代主命)とは違います。
    同じ出雲系ということであまり気にしていなかったのですが、調べてみると総本社の玉敷神社や岩槻久伊豆神社など大巳貴命の所が結構あります。

    袋山の場合、境内の説明板や公式の文書には伊勢との関わりを書いたものは見たことがなかったですが、もしかしたらこういう由来のお宮は他にもあるかもしれませんね🤔

    『いわんどさま』の件、説明板デビューおめでとうございます🎉
    はじめ「ん❓」と思いましたが、ご本人がニコニコされているので大丈夫ですよね😆

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    1. CHIRICO より:

      まゆらさん、こんにちは😊
      そうなんです、僕もこの考えに行きついてから、大己貴=大国主と安易に考えることはできないと慎重になるようになりました。それにしても伊勢大神宮が大元だというカミングアウトも気になりますね。なんとなく予感めいたものではありますが、これからだんだん、社家や宮司家で隠されていた事実などが明るみになっていくのではないかと感じています。

      いわんどの件は僕も驚きましたが、もともと誰かが利用していわんどをPRしてくれたいいなと思いながら書いたものでした。まさか本家で載せてもらえるとは思っても見ませんでしたが、龍も寂しさが少し和らいだことでしょうし、謹んで奉納させていただきます。
      地元のおじいちゃんがお孫さんと訪れて、「昔はここに神様と龍がいたんだよ」って話をするときに、僕の書いた物語を話して聞かせるのかと思うと面白いですよね😄

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  4. まゆら より:

    何かお役に立つ情報でしたらうれしいです😊
    ただ、越ケ谷久伊豆神社の神主家は、七星氏→松井氏から池田氏(明治以後)→小林氏(戦後)と代わっているのですが、池田氏と小林氏は応仁年間の勧請説には否定的で、小林氏は「三島明神=久伊豆明神」も根拠が見当たらないとおっしゃっているようです…
    (三島神社勧請説と三島=久伊豆説は、平田篤胤が越谷滞在中に土地の人々から聞き書きしたものの中にあるそうですが現在は閲覧不可とのこと)

    あと、先のポストで説明不足の上に私の勘違いがあったのですが、(ご存知だと思いますが)久伊豆神社の総本社は玉敷神社なのですが、元々玉敷だったのがいつの時代かに久伊豆に変わっていて、明治以後に総本社だけが元の名称に戻したという経緯があります。
    どこかの社が久伊豆に変えて、それが有名になったので他の社も変えたんじゃないかと推測されているのですが、詳しくはわかっていません。私は越ケ谷推しなので、勧請があったかもしれない応仁年間かも、という感じに書いてしまいましたが、それ以前に久伊豆の名前が出てくる文書があるのでその可能性はありません…長々とすいません🙇

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  5. まゆら より:

    系図の件ありがとうございました。
    楠木氏は越智氏と関係があるのですね。これから気をつけて見るようにします。
    越ケ谷の久伊豆神社には参道のところに榛名神社の石碑があるので、何か関係はあると思うのですがお水やお塩はお供えされていないので、お祀りはされていないかもしれません。(近くの岩槻のお宮にはあるようです)
    本殿の後ろといえば、平田篤胤奉納の天岩戸(天照大神の姿は描かれず岩戸から光が洩れている図柄)の大絵馬のレプリカが飾られているのですが、平田氏は地元の伝承などをよく聞く人だったようなので「このお宮には別の神様も隠れていらっしゃいますよ」という匂わせなのかなとも思ったりしています。

    私のひとつ前のポストなのですが、返信をいただけたのがうれしくておかしなテンションで今見て辛いので、そっと消していただけたらうれしいです。
    😿

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      系図はどうですか、見難いでしょ😄
      おかしいといえば、僕はもちろん、ここにコメントをくださる方の中にも、ちょっとおかしな人たちがちらほらいらっしゃいますので、全く普通に見えますよ😁マニアと変態は神一重です。でもそっと消しておきますね♪

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      1. まゆら より:

        そっとご対応いただきありがとうございます✨
        系図はPCでは問題なく見られました。ただ、印刷は1枚のプリントだと文字が潰れるので、3~4分割してプリントアウトして1枚につなげたら見やすいかなといろいろやってみたのですが、私のPC技術では無理でした。
        皆さんはどうしておられるのでしょうか🤔

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        1. CHIRICO より:

          系図はですね、PC画面で拡大したりして見ていただくことをお勧めします。
          一度拡大コピーして繋ぎ合わせたことがあります。
          6×6、36枚分に拡大して、やっと文字が読めるくらいの大きさになりました😅
          つくづくとんでもないものをこさえてしまったと、苦笑いしています。

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          1. まゆら より:

            巨大なのですね…😅
            でもともかく「縦だけでなく横のつながりも見られたら…」という(たぶん)みんなの願いを叶えてくださってありがとうございます!

            いいね: 1人

          2. CHIRICO より:

            ちなみに、まだまだ成長過程です😁

            いいね

  6. まゆら より:

    はじめまして。
    こちらに出てくる久伊豆神社さんですが、越谷市にもあって昔から「さいじんさん」と呼ばれています。
    大元出版の本は最近読み始めたのでまだ数冊しか読めていないのですが、神社の近くに鼻田→現在は花田という地名があることや、越谷の旧家には新潟にルーツを持つ家が多いことなどから、さいじんさんとはサイノカミのことなのかなと思うようになりました。
    元荒川西岸にのみ点在するお宮で、今一つ由緒がはっきりしていない神社のようなので、自分なりに理解が深まればと思っています。
    興味深い本を出してくださっている大元出版の皆様によろしくお伝えください。

    五条さんの本拝見しました。
    エッセイのような、小説のような感じで、人麿の夢を見たような読後感でした。先に読んだ数冊は、古代史の知識があまりない私にはちょっと難しいところがあったのですが、とても分かりやすいというか、当時の風景が浮かんでくる感じがしました。
    次回作も期待しております。
    (由井正雪、知識がおぼろげすぎてちょっとググりました!)

    あと、ひとつ質問があるのですが、漢皇子の父の石川臣武蔵は斉明天皇の最初の夫と言われている高向王の本当の名前ということでしょうか?それとも別の人物なのでしょうか。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      まゆらさん、こんにちは。ようこそ『偲フ花』へお越しくださいました。
      越谷市の久伊豆神社、本殿の後ろに榛名神社が鎮座しているのですね。他の摂社も含めて興味深いです。さいたま市は調神社も気になっており、いつか合わせて参拝させていただきます。

      私と富先生との邂逅は驚くべき奇跡でしたが、その時におっしゃられたのが、多くの人が読みやすい本を書いてほしいとのものでした。大元出版の世界の入口になっていただければとの思いで書いた本ですが、まゆらさんのようなご感想をいただけると、とてもホッとします。ありがとうございます♪
      僕の場合は、その場所に実際に立って、帰宅後写真を整理し、いざ執筆という時にふわっと降りてくるイメージを紡ぐスタイルです。ですので読者の方がその情景が浮かんでくるというのは僕の試みが成功していると言えるのかもしれません。
      その点で言うと由比正雪は伝承が限定的で巡礼する聖地もほぼ皆無、僕には苦しい課題でした。それも先刻の記事に書いたように、大根地山山中で啓示のように突然降りてきて、ある点と点がつながりエンディングまでが一気に見えるという出来事がありました。あとはそれを紡ぐだけですが、なんとか年内には初稿を書き上げたいと思っています。

      石川臣武蔵は斉明天皇の最初の夫と言われている高向王の本当の名前かというご質問ですが、僕はそのように受け取っています。高向王の父は当麻皇子で、母は蘇我稲目の娘・石寸名になります。武蔵の乳母が高向氏であったので、高向王と呼ばれたようです。

      このブログはコメントを含め、大元出版の関係者の方もたまにご覧いただいているようです。誰とは申し上げませんが、まゆらさんの思いも、きっと届いていることと思います😊

      いいね

      1. OSAMARU より:

        こちらにコメントさせてください。久伊豆神社やさいたまの土師氏については私も気になっています。

        さいたま市岩槻区宮町にある久伊豆神社の由緒に、
        「今から約千五百年前の欽明天皇の御代(539~571)、出雲族の土師氏が東国へ移住するにあたりこの地に出雲族の親神たる大已貴命(大国主命)を勧請したのが始まりとされています。」
        と出雲族の移住についてはっきりと書かれていました。

        また、ちょっと離れますが、埼玉と群馬の県境に廣野大神社(埼玉県神川町)/土師(どし)神社(群馬県藤岡市)があり、廣野大神社の由緒を調べてみると、
        「上野国に属していた時は、緑野郡土師郷の内であった。土師郷の名が示す通り、この地には土師部が居住した所で、かつて地続きであった神流川対岸の藤岡市本郷には、土師神社が祀られ、神流川沿いには多くの古墳群があり、古代の土師部の活躍がうかがえる。」
        とあり、氷川神社や鷲宮神社など、このあたりにかなりの出雲族・土師氏が移住して、また、いくつかのルートでサイノカミ信仰も伝わってきているのかなと想像しています。

        いいね

        1. CHIRICO より:

          OSAMARUさん、いつも興味深いコメントありがとうございます。
          群馬までいくと豊系の影響を強く感じますが、それでも下地には出雲族の気配が残り、広い範囲にまで出雲族が移住していた姿が偲ばれます。
          土師氏は古墳作りに長けていたので、群馬などの古墳群も彼らの手によるものなのかもしれません。そうなると、豊彦の古墳なども土師氏が手助けをしたのだろうと思いますが、出雲と宇佐(豊)との和睦した姿が彷彿とされて個人的には嬉しいでです。

          先のコメントで返信させていただきましたが、私の執筆の遅れから富先生に対する気遅れがあり、ずいぶん遅くなってからOSAMARUさんの情報を手紙にしたためさせていただきました。
          お返事の手紙の文章は短いものでしたが、大変興味深く感じ取っていただけたようでした。
          つい先日、由井正雪のことで尋ねたいことがありお電話を致しました。ようやく執筆に向かい始めたことをお伝えすると、「それは大変良いですね♪」とまだまだ変わらぬしっかりとしたお声でおっしゃっていただけました。

          いいね

        2. まゆら より:

          はじめまして。
          返信ありがとうございます。

          先に書いたものを読み返してみて
          久伊豆神社全体の由緒についてとしか読めず、完全に書き間違えなのですが、越ケ谷久伊豆神社の由緒というつもりで書いていました。ご指摘ありがとうございます。
          越ケ谷久伊豆神社の創建年代ははっきりしていないようで、平安中期以降という説や、応仁年間に伊豆国宇佐美の領主がこちらに移って来たときに三島神社を勧請したという説があるそうです。(三島明神の別名が久伊豆明神とのこと)
          後者が本当なら「久伊豆神社」の名称は越ケ谷がはじまりということになるかもしれません。

          先にも書いたのですが、大元本初心者なのでいろいろ教えていただけたらと思います。よろしくお願いいたします🙇

          いいね: 1人

          1. CHIRICO より:

            「三島明神の別名が久伊豆明神とのこと」、これは今の僕にとってタイムリーな情報ですね♪
            何か閃いたら、僕からもコメントいたします!

            いいね

  7. narisawa110 より:

    最近、しげしげと出雲伝承の系図を見ていたんですがね
    今更ながら富士林先生の系図を見て、目が飛び出たわけですよ
    それがサマナ姫
    ホヒ家の姫と出ています
    つまり、ホヒは、ヤッコに落とされましたが、比較的早期に復権を果たしているという事なのでしょう

    きっと、相当の美人だったのではないでしょうかww
    冨家の人がベタ惚れで王家にお願いしまくったのかもしれませんw

    つまり、磯城登美家の祖である建飯勝の母系の系図が母になっているわけです

    それを踏まえるのなら、関東国造家が家名を守るため、記紀に服属してホヒやタケヒナドリを系図に組み入れて祖にする場合、他の家の人間を矢面にする必要もなく、妙な因縁も生まれません
    関東国造家は、磯城登美家や、ヌナガワワケ、島根の出雲兵からなる集団だったと思われるからです

    ホヒがイクメに対してついた嘘、太田彦さんがホヒ家の家の人間だという話が結局記紀にまで書かれているのですから、千家の工作は凄いですよね

    あの集中力だけは本当に侮れない

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    1. CHIRICO より:

      気が遠くなるような年数を経て、執念で現状は出雲の支配層と言える立場になっているのですから、相当なものです。

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  8. 8まん より:

    ホヒとヒナトリ・・・CHIRICOさんには仇みたいな(笑)
    書紀で語られる血筋ではホヒやヒナトリはノミノスクネの始祖とされその血筋が土師氏に繋がり、大江氏やら菅原氏云々・・・。
    裏歴史の事を正史として残せない以上、こういう祭祀となるのも致し方ない部分もあるのかも知れません。
    なんせ埼玉は世渡り上手に生きてきた県民性なので。東の古い歴史で有名なのは武蔵国造の叛乱くらいなもんで、後の世に関東が出てくるのは、
    将門の反乱とか時代が平安期に至るまで出てこない。東に田村麻呂が出征し、アテルイ、モレノと戦って朝廷に首を取られた後でも10年平定に時間がかかるほど蝦夷の民達も強かったですからね。その前は朝廷は負けっぱなしだったから、恥を隠したかったんでしょう。
    歴史の闇は深いです。
    さて埼玉で紹介出来る古い社はあとは児玉の二の宮、金讃神社くらいですか・・・埼玉はビミョーで申し訳ない。(笑)アニメが好きなら秩父神社、
    椋神社。椋神社の龍勢祭りもなかなかの祭り。ここも行ってくださいまし。ああいかん、平和バスターズが(笑)

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    1. CHIRICO より:

      古代の殺した殺されたなどというのは時の事情があるもので、安易に今の感情だけで考えるべきではないと思っています。
      が、僕は出雲派なので、穂日家の行いだけは心穏やかではありません。殺しまくった物部に関しては、ある程度理解もするのですが。
      出雲大社も、すでに大国主は祀られていないそうです。大国主の位牌のようなものが本殿内に祀られていましたが、それは破棄され、今は社家の先祖が祀られているのだとか。これは富氏が、確かな筋の情報として得ている話です。
      まあそんなことをしているからか、社主は今、広島の精神病院医に入院中だという話も聞いています。
      出雲に旅して、出雲大社にだけ参拝しても、なんのご利益もないのです。

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