ヤマトタケル伝承の「姉埼神社」(あねさきじんじゃ)を訪ねてみることにしました。
そこは千葉県市原市姉崎になります。
参道に入ってすぐ左手に鳥居がありました。
その先にあったのはなんと「龍宮神社」。
祭神はあの「豊玉姫」です。
社のそばでは水が湧き出ており、霊水として祀られています。
たまたま水の神=豊玉姫としてまつられているのか、豊族が祀ったものか定かではありません。
一口含むと、優しい味がしました。
階段を昇ります。
姉埼神社は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)ゆかりの神社ということになっています。
記紀によると、景行天皇40年(110年)、ヤマトタケルは東征の折、走水の海(浦賀水道)で暴風雨に遭遇します。
尊らの乗った船があわや転覆の危機になると、妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)がその身を海中に捧げ、無事上総の地に着くことができました。
ヤマトタケルはこの宮山台において、弟橘姫を偲び、以後の航行安全を祈願して風神の「志那斗弁命」(しなとべのみこと)を祀ったのが当社創始と伝えられています。
その後「日本武尊」、「天児屋根命」(あめのこやねのみこと)、「塞三柱神」(さえのみはしら)、「大雀命」(おおさざきのみこと/仁徳帝)が合祀されました。
塞三柱神とは「八衢比古命」(やちまたひこのみこと)「八衢比売命」(やちまたひめのみこと)「久那斗命」(くなどのみこと)を指します。
姉埼神社は、海抜約50mの宮山台にあり、近郊には4~6世紀に造られたとされる古墳群があります。
境内にも、一号(宮山古墳)、二号(白波塚古墳)、三号(浅間神社)の三基の円墳を見ることができます。
これらの古墳群は、上海上国造(かみつうなかみくにのみやっこ)として勢力を持っていた忍立化多比命(おしたちけたひのみこと)およびその一族の墳墓と考えられるとのことです。
この聞き慣れない「忍立化多比」とはいったい誰なのか。
『古事記』では天菩比命(あめのほひ)の子・建比良鳥命(たけひらとり)を上菟上国造の祖としており、『先代旧事本紀』「国造本紀」によると成務天皇の時代に天穂日命の八世孫の忍立化多比命を国造に定めたと記されています。
そう、上海上国造家とは穂日家の末裔なのです。
これは一気にキナ臭い話になりました。
しかし社伝によると、後に天児屋根と塞三柱神を当社に合祀したのは忍立化多比なのだと伝えられています。
天児屋根はヒボコ系の神であり、塞三柱神はそう、古代出雲族が信奉したサイノカミ三神になります。
アメノホヒとタケヒナドリは秦国からきた渡来人親子ですが、世話になった出雲族を裏切り、時の王と副王を暗殺した張本人です。
その末裔が、遠く離れた東国の片隅に出雲族の神を祀ったというのは、どういうことなのでしょうか。
東国は出雲族、海部族、物部族の他に豊族やヒボコ族の神が混在していて、その流れを読み解くことが実に難しいです。
ただ房総半島は「富」の字を用いた地名が多いことからも出雲ブランドが重宝されていたと考えられます。
そこへホヒ家の子孫がやってきて、出雲の神を祭祀したとしても不思議はないのかもしれません。
ただそれが、北島家のように真に崇敬して祭祀したのか、千家家のようにいかにも自らが出雲族の祖であると言わんばかりに主張するためのものだったかは分かりません。
姉埼神社には次のような話も伝えられていました。
主祭神の志那斗弁命(しなとべのみこと)は女神であり、夫神の志那津彦命(しなつひこのみこと)の帰りを待ちわびていましたが、「待つは憂(う)きものなり」と歎(なげ)かれ、同音の「松」を忌むようになりました。
以来、境内はおろか氏子地域でも1本の松を見ないのだと云います。
さらに正月の門飾りには門松ではなく、竹と榊を使った門榊(かどさかき)を用いるのだそうです。
また新年の挨拶状、家具や服の模様などにも一切松を使用しない氏子もいるといわれています。
姉崎(姉前)という当地の地名もこの伝承が語源となっています。
姉埼神社が鎮座する市原には「戸隠神社」があっておすすめだと言われたので訪ねてみました。
こちらも古墳の上に建っているそうです。
創建は天平12年(740年)、国分寺守護のために降臨した戸隠大明神を奉斎。
その後923年には、上総国の諸神を集めて総社としたとあります。
祭神は信濃国の戸隠神社と同じく、「思兼命」「天手力雄命」「表春命」の三柱です。
「表春命」(うわはるのみこと)は思兼神の御子神とされ、饒速日が天降った時に護衛として随従した32神のうちの1柱と設定されています。
さて古事記の悲劇のヒーロー・ヤマトタケル。
富家の伝承によると、そのモデルとなっているのは景行帝とその皇子・ハリマタケルなのだと云います。
大和は11代イクメ・垂仁帝の時に物部王朝となりましたが、これは大和の出雲族には人気がありませんでした。
それは秦国の渡来人である物部族が、大和に奴隷制度を持ち込んだことが大きな理由の一つでした。
『日本書紀』に次のような記事があります。
「垂仁大君の時代に、大君の母の弟・ヤマト彦が亡くなった。身狭桃花鳥坂墓(むさのつきさかのはか)に葬った。このとき召使いの者たちをすべて集めて、前方後円墳の方部に立ったまま首を出して生き埋めにした。数日が過ぎても死ぬことはなく、昼も夜も泣き叫んでいた。ついに息が絶えて、腐り果てた。犬やカラスが群がり、その首の死肉をついばんだ」
この話は史実だったようで、富家でも同じ話が伝えられているそうです。
支那渡来系の物部政権は奴隷制社会で、召使いは家畜のように主人の財産であったので、主人の死とともに埋められたのです。
また古代支那国では、死者の近くで人が大声で泣くと、死者が慰められるという考えがあり、泣き方の激しい「泣き女」が大和でも使われたと云います。
この物部族の風習が、大和の出雲族には嫌われたのです。
それで物部王朝の2代目大君オシロワケ・景行帝の時代には出雲族を中心とした反物部政権勢力に圧され播磨国の加古川右岸・都染(都住)に都を移さざるを得ませんでした。
景行帝は在位2年に、播磨の稲日大郎姫を后に迎え、大碓と小碓の双子の皇子を儲けました。
大碓は後にワカタラシ・成務帝となる人で、穏やかな性格で争いごとを好まず、景行帝からはあまり期待されなかったそうです。
一方小碓は後に「ヤマトタケル」になったと一般的には言われていますが、彼は播磨で生れて大和には一度も入ることができなかったので、「ハリマタケル」と呼ぶのがふさわしいのです。
ハリマタケルは勇ましい性格で景行帝に気に入られましたので、彼は大君の命で東国征服の旅に出ることになるのでした。
ヤマトタケルこと、ハリマタケルが当地に至った可能性は高いと思われます。
しかし彼はアイヌなどの聖域である貝塚を壊して回り、それがきっかけで死をもたらされることになるのです。
当地も本来は出雲系豪族の土地だったものが、ハリマタケル率いる物部族によって聖域を塗り替えられたのかもしれません。
神社の高台のの麓には、ひっそりと道祖神像が祀られていました。