静神社:八雲ニ散ル花 東ノ国篇 09

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茨城県那珂市の常陸国二宮「静神社」(しずじんじゃ)を訪ねます。
この神社の由来について富氏は、伯耆国の倭文神社から移住して来た建葉槌の末裔が建てたのだと話してくださいました。

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銅の二の鳥居から先は、それなりにきつい階段を昇ります。

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登った先にもう一段。

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社側によると創建は不詳。『新編常陸国誌』では大同元年(806年)に創建されたと伝えています。

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『常陸国風土記』久慈郡の条に「静織の里」(しどりのさと)とあり、上古に綾織り職人が当地にいたことが記されています。
『和名類聚抄』には常陸国久慈郡に「倭文郷」(しどりごう)の記載があり、この「シドリ」が縮まって「静」(しず)の地名・社名になったと思われます。

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神門前には東京織物卸商業組合が寄進した「織姫」像があり、

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なぜか恵比寿像も鎮座しています。
静神社の使いは白い機織り物が長くのびる様子を表した「白蛇」とされており、恵比寿=事代主であること考えると、実は静神社にも出雲の痕跡が残されていることになります。

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主祭神は「建葉槌命」(たけはづちのみこと)、別名を「倭文神」(しどりのかみ)と呼ばれています。
相殿神に「手力雄命」(たぢからをのみこと)「高皇産霊命」(たかみむすびのみこと)「思兼命」(おもいかねのみこと)を配祀。

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主祭神の建葉槌は、アニメ映画「君の名は」でヒロインが巫女をする宮水神社の祭神であるようですが、『日本書紀』の国譲り神話において、武甕槌・経津主の葦原中国平定に先立って従わぬ星神「香香背男」へ派遣され、これを平定した神として記されます。

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東出雲王家の富家伝承によれば、建葉槌は秦国から徐福とともに渡来した海家の一族の一人で、大国主から娘の下照姫を后にもらい受けたと伝えられます。
静神社の元宮になる伯耆国の倭文神社の社名は、下照姫命が出雲から羽合町宇野に御着船され、御冠山に登って現在地に住居を定め、人々に倭文織りを教えたことに依ると伝えられていました。

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建葉槌は日本書紀の中でアメノワカヒコという名でも記されています。
アメノワカヒコはアメノホヒの次に出雲にやってきて、出雲の王になろうとして8年過ごしていますが、自らが放った矢で死んでしまいます。

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しかし日本書紀はおかしな事を書いており、国譲りの話になると今度はタケハヅチという名で再登場させるのです。

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『フツヌシとタケミカヅチは不順(まつろ)わぬ鬼神等をことごとく平定し、草木や石までも平らげたが、星の神の「天香々背男」(アメノカガセオ)だけは服従しなかった。そこで倭文神の建葉槌命を遣わし懐柔した』と本文に書いています。

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天香々背男は星の神であり、別名を「天津甕星」(アマツミカボシ)といいます。
日本書紀の第二の一書では天津神となっており、フツヌシとタケミカヅチが、まず高天原にいる天香々背男という悪い神を誅してから葦原中国平定を行うと記しています。

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古事記・日本書紀は、時の権力者の意向で真実を、特に出雲王国の存在を隠す方向で編纂が進められました。
しかし製作者・筆記者は、真の出雲史をなんとか後世に伝えようと、過酷な監禁状態の中で密かに、神話の中にヒントを残したと云います。

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国譲り神話はとはいわば物部東征による出雲王国滅亡を物語るものですが、建葉槌は大国主の息子・味鍬高彦と親友となり、大国主から娘の下照姫を妻に迎えているにも関わらず、王国を攻撃する側に加担した疑いがあります。
これに対し、同じ海家の天香々背男は、おおらかで懐の深い出雲王国に傾倒し、子孫は出雲王国を守る側に付いたことを表しているのではないでしょうか。

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フツヌシを祀る物部族が出雲を攻めた時、香々背男の一族は最後まで抵抗し、その彼らを懐柔するため、または誅するため白羽の矢が立てられたのが天稚彦の子孫で健葉槌と名を変えた一族だったというのが真相ではないでしょうか。

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境内の端に「手接足尾神社」への参道がありました。

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山中へなだらかな道を歩いていくと

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程なくして社殿が見えて来ます。

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手足の健康を守護する神として、手差しや草履を納めて祈願する風習が残っているそうです。

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静神社は中世には佐竹氏が当地を領有し、佐竹貞義によって静神社境内に弘願寺・西方寺・静安寺が設けられました。

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江戸時代には、慶長7年(1602年)に徳川秀忠から神領150石が寄進され、その後は水戸徳川家の祈願所とされ、以後も徳川氏から崇敬されてきました。

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しかし天保12年(1841年)の火災で社殿の多くが焼失。
徳川斉昭(水戸第9代)によって再建がなされています。

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なお、その火災で燃えた神木の切り株は現在も境内て保管されていました。

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2件のコメント 追加

  1. 8まん より:

    ここの神社は私が真面目に神様の名前や古事記、日本書紀に向き合うきっかけを頂いた社です。御朱印を始めたばかりの私は無知でタケミカズチもタケハズチもタケミナカタもごっちゃになってました(笑)その状態で宮司さんに色々言われて困惑するだけで1時間は修行に付き合わされた気分でした。
    CHIRICOさんは宮司さんとお話されましたか?なかなか迷走したトンデモ話に付き合うことになること請け合いです。(笑)
    富家を知る人にとっては、んーどうでしょうと苦笑いになる事態に。
    静神社はタケハズチが陣を張った場所とも言われてます。紙や絹(しずおり)は文化侵略にも多く携わってます。
    群馬の赤城神社(郷土系)と貫前神社(渡来系)の一の宮争いなどにその様子が窺えます。
    東国はごちゃごちゃです。まあ今、生きて行くには多様性の認められる良い土地にはなりました。
    難問は多いでしょうが楽しんで頂ければ何よりです。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      宮司さんは次から次に書かされる御朱印に、あまりご機嫌が良さそうではありませんでした(笑)
      お話ししてみたかったですね。
      FBグループでも、とんでも話盛りだくさんなのでもう慣れましたが、でも富家伝承が絶対だとも思っていません。
      伝承なので、どこかで歪んでしまっている可能性は否定できません。
      結局古代のことは良く分かりませんし、東国はほんとわけが分からないですね😅
      それがロマンというやつなのでしょう♪

      いいね

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