一関にある「菅公夫人の墓」に向かっている途中、「伝母禮屋敷跡」という場所を見つけました。
この辺りは岩手県奥州市前沢町の「生母」(せいぼ)と呼ばれる地域です。
母禮(モレ/モライ)はエミシの英雄アテルイと共に大和に立ち向かったと伝えられる闘士。
大和は11代イクメ・垂仁帝の物部王朝以来、東北の部族を大和にまつろわぬ民・エミシであるとして度々征伐を行いました。
50代桓武天皇の時代、エミシ征伐の征夷大将軍に任命されたのが坂上田村麻呂でした。
彼は五万の兵を率い、アテルイとモレに対し戦を仕掛けます。
一時は優勢であったエミシ軍ですが、度重なり長引く戦争に奥州の豊かだった土地は荒廃し、民も疲弊していきます。
そこへ田村麻呂は敵の懐柔作戦に出て、エミシの中でも離反するものがあり、ついにアテルイとモレは奥州の民たちの安寧を守らせることを条件に投降しました。
田村麻呂はその両雄の志に感銘して、朝廷に助命を嘆願しますが受け入れられず、結局二人は京で処刑されたのです。
そのモレが住んだと云う屋敷跡は、今はだたの平地になっていました。
さらに車を走らせていると、道脇の赤い鳥居が目に留まりました。
車を止めて川べりまで降りていくと、
小ぶりな滝のそばに不動明王が祀られています。
小さいながらも龍神が棲まうが如く美しい滝壺。
この辺りの地盤は「母体変成岩類」と呼ばれるものだそうです。
この「母体」(もたい)というのは当地の古い呼び名であり、今の生母地区の呼称の由来にもなっています。
滝から少し進んだところで「アテルイの里へようこそ」という看板がありました。
この辺はアテルイのゆかりの場所だそうです。
そして塚のような丘の上に鎮座する「八重垣神社」がありました。
通りすがりの神社に一々立ち寄っていたら、僕の旅は間に合いません。
が、この神社が妙に気になり、いちど過ぎてから戻って来てしまいました。
立ち止まっていても吹き出す汗、それを拭いながら階段を踏みしめていきます。
階段途中に社殿のようなものが見えましたが、階段は真っ直ぐ伸びていたのでそのまま登っていきます。
雷神の石碑があるところで突き当たり、右に折れます。
若木山神社という石碑もありました。
その先はもはや道と呼べないほど草が生い茂り、ヤブ漕ぎ状態。
雷神の突き当たりからぐるり半周して丘の頂部に至ると社殿も見えて来ましたが、やはり荒れた雰囲気です。
しかし驚きました、
そこに奇岩の磐座と、たっぷり水を湛えた池がありました。
反り返ったクマの掌のような岩。
狛犬や
石の祠も置かれています。
水は澄んでいるわけではありませんが、とても神々しい。
池の横の岩の上にも石の祠が立っています。
ここはいったいどういう神社なのでしょうか。
境内に由緒書のようなものは見当たりません。
帰宅してネットで調べるも、情報は非常に少ない。
その僅かな情報によれば、当社の創建は906年ごろまたは947年といわれますが定かではないそうです。
大正7年に八幡神が合祀され、現在は2柱を祭祀しますが、本来の祭神は菅原道真公なのだとか。
なぜここに道真公が祀られているのかといえば、それはやはり妻・宣来子が当地に逃れて来たことにあるようです。
菅原道真が大宰府へ左遷された際、夫人の宣来子・吉祥女は奥州胆沢郡の当地に落ちのびました。
そして夫の死を聞いて間もなく、彼女も若き命を散らしたのです。
宣来子は娘二人と息子の一人とともに当地に至りましたが、彼女らの母の体が埋葬されたこの地を人々は母体と呼びました。
八重垣神社の縁起によると、最初は菅公夫人を祀るために創建されたと伝承されているそうです。
小さな滝と清らかな川が流れるそばの、小高い丘。
宣来子たちが住んだ場所がここであったのではないか、と思われたのでした。
今は人にあまり知られることのない小高い丘の聖域にある池は、日照のときでも枯れたことがないと言い伝えられていました。
八重垣神社の丘を降りていると、行きがけに見えた社殿があります。
立ち寄ってみるとこれまた驚きの光景がありました。
何が祀られているのか分からない、その社の裏には大きな岩盤があります。
隣には、なぜかむき出しの壊れた風呂。
裏の岩場に登ってみると、
いったいこれは何でしょうか。
巨石を支えるように立てられた二つの石柱。
まああまり意味はなさげですが。
その下は写真からはわかりにくいですが、水が流れています。
よく見てみると岩の一部に文字が彫ってあります。
「当金剛山開湯者」とありますが、元は温泉だったのでしょうか。
温泉には思えませんが。
修験の某かがこの神水を発見したのでしょうが、この水を下の風呂で沸かして湯に浸かれということなのでしょう。
詳細は分かりませんが、それにしてもその重厚さに圧倒された磐座だったのでした。