胡宮神社 前編:八雲ニ散ル花 番外

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青龍山の頂上に大きな岩がある。
大昔からこの岩を磐座とよび深く信仰して龍宮を祭り、長寿、豊作、雨乞の祈願をした。
これを原始信仰と云い、麓から遥拝するため社殿を造ったのが胡宮である。
磐座は胡宮の奥宮であり、多賀大社の奥の院と呼んだ時代もある。

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滋賀県犬上郡多賀町にある「胡宮神社」(このみやじんじゃ)を訪ねました。
当社は多賀大社の奥の院であるという話を聞いたからです。

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しかし驚きました。

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その紅葉の美しいこと。

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神仏習合の名残を色濃く残す神社ではありますが、境内全体が静謐で神々しいのです。

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社伝によれば、第30代敏達天皇の勅願所であり、飛鳥時代に聖徳太子によって創祀されたと伝えられる当社。

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鎌倉時代の頃からは、当時隆盛をきわめた敏満寺の守護神として祀られ、中世以降はその鎮守社として「木ノ宮」と称したと云います。

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敏満寺は聖徳太子開基と伝わる天台宗の寺院で、創建の時代は飛鳥時代から奈良時代に変わる頃。
正式には「清涼山敏満寺」(せいりょうざんびんまんじ)という巨大な寺院だったようです。

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近江国の守護職「佐々木左衛門之尉」(ささきさえもんのじょう)はじめ、歴代佐々木家の守護本尊として当院の不動明王は深い信仰を受けることになります。
近江の佐々木氏といえば、あの大彦の子孫。

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敏満寺周辺は、六角氏と京極氏・浅井氏の権力の境目にあたり平安時代も末期になると当地は領地争いの最前線となりました。
こうした中、敏満寺は人や土地、富や権力を守るために武装化し城塞化していきます。そしてやがて、敏満寺城と呼ばれるほどになりました。

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境内にある「銅製五輪塔」(どうせいごりんとう)は、重源上人が東大寺修復に感謝して敏満寺に贈ったもので鎌倉建久九年のものだそうです。

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これほど栄華を誇った敏満寺も、戦国時代に浅井長政・織田信長の兵火により焼失、廃寺となりました。
今は胡宮神社境内とその周辺に、わずかに痕跡を残すのみ。
敏満寺の焼き討ちの数日前に佐々木隼人庄宰相(ささきはやとのしょうさいしょう)が、霊夢霊感によってこの災厄を事前に察知し、本尊の不動明王像を持ち出して山のふもとに安置したので戦禍を免れたのだそうです。

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荒廃した境内には、後に神社だけが再建され、今の胡宮神社になっていきます。

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胡宮神社社殿は戦国時代に浅井長政・織田信長の兵火によって焼失した後、豊臣秀吉が再建したがこれも焼失。
現在の本殿は江戸時代初期の寛永15年(1638年)に多賀大社大改修の折、徳川3代将軍・家光によって再建されたものと云います。

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祭神は「伊邪那岐命」(いざなぎのみこと)と「伊邪那美命」(いざなみのみこと)、それに「事勝国勝長狭命」(ことかつくにかつながさのみこと)を配祀します。
事勝国勝長狭命は一説にはシオツチノオジの別名とされる神。

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この祭神に関しては多賀大社との関係が深く示唆されます。
『延喜式』の「近江国多何神社二座」とは多賀社・胡宮社両社の併称であり、多賀社に伊邪那岐命、胡宮社に伊邪那美命が祀られていたという説もあるようです。

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一時期、多賀社の末社とみなされていた胡宮社でしたが、社側はこれを否定、当社は多賀社の奥之院と称しての独立性を主張しています。
明治2年(1869年)にはそれまで「多賀大社胡宮大明神」と称していたのを「胡之神社」と改称し現在に至っています。

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社伝は聖徳太子の創始とする胡宮神社ですが、多賀大社含めここが聖域とされたのはもっと古い時代のことであろうと推察されます。
それは両社ともに神体山と位置づけ、その奥に鎮座する「磐座」を信仰の起源とし、それぞれ山麓の遥拝所として神社が造られていることに表れています。

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神体山山頂の磐座を両社とも「奥宮」とし、禁足地として大切に守ってきたのでした。
それは大彦の時代に始まったのか、もしくは出雲王国時代に始まったのか。
クナトの由来を持つ車戸氏は、古事記の制作者の意図に準ずるという残念な選択をしていますが、佐々木氏はこの聖地の本来の姿を知っていたからからこそ、当地を大切に守り続けたのではないか。

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祭神の真の姿は、イザナギはクナト大神、イザナミは幸姫であり、事勝国勝長狭はサルタ彦であったとしたなら、非常に納得がいくものなのです。

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さて、その磐座登拝に向かう前に、境内外れの敏満寺遺跡「石仏谷」(いしぼとけだに)に足を伸ばすことにしました。

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案内板に従い、細い道に入っていくと、

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オーマイガー!シャットアウト!!

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というのはブラフで、鎖を解いて中に入れるようになっていました。

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しかし剥き出しの高圧線が恐ろしい。。

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やがて見えてきた広場が石仏谷のようです。

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敏満寺青龍山の山腹斜面に広がる中世墓群が石仏谷。その広さは7000㎡にわたっています。

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ここでは蔵骨器と見られる壷の破片や焼けた骨片、多くの石造物や石仏見つかっており、今も調査中であるとのことです。

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社殿に戻ってきてウロウロしていると

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長寿石と枕石というものを見つけました。

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そこにはいくつかの石があり、どれがどれかイマイチ分かりません。

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が、寿命石は俊乗坊重源が銅製五輪塔を贈った時に大願成就までの延命を願ったと云われるもので、この三角の岩ではなかろうかと思われます。

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また枕石は長さ30cmほどの石と伝えられ、この石を枕にして寝ると長寿が得られるのだそうです。

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この寿命石は多賀大社にも同じ由来のものがあり、伝承は後付けの逸話である可能性が濃厚です。
思うに、この後向かう山頂の磐座は、古代出雲の二墓制の埋め墓にあたり、両社の寿命石はその拝み墓だったのではないでしょうか。
先祖の魂を遥拝した岩が、寿命延命の逸話と変えられたのではないかと思い至るのです。

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