くもらしな 真澄の鏡 かけそふる 樟葉の宮の 春の夜の月
~ 一条実経『続古今和歌集』
石清水八幡宮にほど近い大阪府枚方市楠葉丘、そこに鎮座する「交野天神社」(かたのあまつかみのやしろ/かたのてんじんじゃ)を訪ねました。
住宅街の中にある当社、その入り口の脇には稲荷社がありました。
一ノ鳥居から先は迂回するように参道が続いています。
2018年9月の台風21号では境内の樹木が多数倒壊する被害が出たそうですが、今は綺麗に整備されています。
杜に囲まれた境内は心地よく、昭和59年に制定された「ふるさと枚方」の枚方八景、「大阪みどりの百選」に選ばれています。
『続日本紀』及び『岩清水神宮 縁起』によると、桓武天皇が延暦6年(787年)、長岡京の南郊の地である交野を選び、父・光仁天皇を祀るための郊祀壇(こうしだん)を設けたとあり、それが当社創建の由来となっています。
郊祀壇とは支那国の皇帝が毎年冬至に都の南に天壇を設けて天帝を祀った事に倣うものです。
当社主祭神は第49代「光仁天皇」(こうにんてんのう)になり、天児屋根命と菅原道真が後に合祀されています。
拝殿の奥には一間社流造、檜皮葺の美しい本殿が二つ並んでいますが、右側のひとまわり小さな社殿は誉田和気命(ほむたわけのみこと)を祀る末社「八幡神社」になります。
交野天神社の境内の裏手にもう一社、末社があります。
「貴船神社」ここが今回、僕が訪れた目的の神社になります。
小高い丘の上にあるこの末社は、越前三国の「男大迹王」(おおどのおう)が樟葉で西暦507年に即位して第26代継体天皇となり、5年にわたり宮を営んだ場所であると伝えられます。
『日本書紀』によれば506年に武烈帝が後嗣を定めずに崩御、次期帝として白羽の矢がたったのが男大迹であったと記しています。
男大迹王は「性慈仁ありて、孝順ふ。天緒承へつべし」と群臣たちはかしこまり、忠誠をつくそうとしましたが、当の男大迹は群臣のことを疑い、大君に即位することを承知しなかったと云います。
そこで群臣の一人、男大迹の知人である河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)が密使を送り、3日の説得の末、男大迹は即位を決意しました。
男大迹は507年、58歳にしてこの河内国樟葉宮(くすはのみや)にて即位し、武烈天皇の姉にあたる手白香皇女を皇后としました。
しかしなかなか大和に入れず、511年に筒城宮(つつきのみや)、518年に弟国宮(おとくにのみや)を経て、ようやく526年に大和の磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)に遷り都を定めました。
この男大迹こそ、東出雲王家本家の末裔であり、越国の蘇我振姫の元に婿入りした「富彦太」でした。
当社には継体帝が即位した樟葉宮の宮跡を祈念し、当地の氏神である高龗神(たかおかみのかみ)を移し祀ったと伝えられています。
高龗神は雨乞いの神でもあり、旱天の時にこの貴船神社に雨乞いの祈りをすると、慈雨が降ったと言い伝えられていました。