なんと、警固神社には奥宮があった!
・・・いや元宮か。
福岡のラブスポット警固公園の隣に鎮座の「警固神社」(けごじんじゃ)、そこは下社であり、南区の警弥郷に上社があると言うので行ってみました。
てか、警弥郷って言ったらおいらの出身地の近くばい。今まで知らんかったとぉ。
で見つけた~!と思ったら
脊振神社でした。
祭神は宗像三女神の「多岐理姫命」「市杵嶋姫命」「多岐都姫命」そしてよく市杵嶋姫と同一視される「弁財天」です。
筆頭が市杵嶋姫でなく多岐理姫なんですね。
享保より以前の時代に「背振神社下宮」から勧請し奉祀したとのこと。
多岐理姫(たぎりひめ)とは田心姫(たごりひめ)のこと。宗像三女神の長女で東出雲王家の大名持・天之冬衣(あめのふゆきぬ)に嫁ぎました。
末妹の市杵嶋姫は徐福に嫁いで物部家始祖の彦穂屋出見(ひこほほでみ)を産みましたので、九州では市杵嶋姫を祀る神社が多いですが、ここでは長女を筆頭にしているんですね。
背振神社の先に「警固神社」がありました。
祭神は天神の警固神社と同じ「神直日神」(かんなおびのかみ)「大直日神」(おおなおびのかみ)「八十禍津日神」(やそさがつびのかみ)。
『警固大明神記録』によると警固神社がはもともと那珂郡警固村に祀ってあって、由緒ではそれが当地であると記しています。
神功皇后が三韓出征の際に勝利を祈り、この三神を下警固村の福崎に祀りました。
その福崎とは福岡城本丸辺りになります。
黒田長政によって福岡城築城がなされる時、さらに天神に小烏神社を合祀して遷座されることになりました。
由緒は「下警固村の警固神社よりも古くから此の地に祀られていたのが当警固神社である」としながらも「下警固の方は歴代藩主の尊崇厚く造営修繕等から神事に至るまで藩庁からの公費が支給されたが、こちらは上警固村の氏神であり数少ない氏子の農民で祭り継がれてきたのである」と綴っています。
そこには優遇される下社と対照的な悲哀、それでも守り繋いできたのだと言う氏子たちの誇りを感じさせます。
それにしても当地の地名である「警弥郷」は警固から来たものでした。
当地には警固田もあったと云われています。
“筑前続風土記の上警固の項に「村名は警固神社のいますによりてか、又は警固田の置かれし故に言之り」とあり、また三大実録に「警固武衛の必要があり警固田からの租税を警固所の雑用に当てた」とある”
当社の由来にはこのようにも記されており、当地には九州博多地方を警固するために警固所が置かれ、さらに警固田からの租税が警固所の雑用に当てられたそうです。
“祭神三神とも疾病災厄罪科を祓いて禍を転じ幸福となし、悲しみを変じて吉慶となし給う崇高なる御神徳にて国家安泰、社会浄化の守護神として崇敬篤きなり”
考えてみれば今も昔も、九州北部は海を隔てで大陸に対して身を曝け出しているわけで、国防の要として重要視されていたのでした。