猛島神社:八雲ニ散ル花 木ノ国篇 筑紫番外編04

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島原駅から徒歩で約5分、猛島海岸に鎮座する「猛島神社」(たけしまじんじゃ)へ立ち寄ります。

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城壁のような壁からは水が湧き出ております。

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創建は不詳ですが、1618年に島原城(森岳城)が築城される以前よりこの地にあり、島原の鎮守として地元の人々に崇敬されてきたと伝えられています。

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二の鳥居を過ぎると広い敷地があり、

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コの字のように回って社殿が建っていました。

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境内の先は港になっていて、青い海が広がっています。

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この猛島神社は、島原城築城以後、城の鬼門を守る神としての役割も担ったそうです。

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三の鳥居の横には、某かの銅像と

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「美音の滝」なるものがあります。

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境内から水が湧き出ているのかは分かりませんが、

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この時は水も枯れており、美音を聴くことは叶いませんでした。

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少し階段を登って拝殿へ。

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祭神はスサノオの子とされる「五十猛神」(いそたけるのみこと)のほか、「大屋津姫神」(おおやつひめのかみ)「抓津姫神」(つまつひめのかみ)となっています。

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この有明海地区から糸島方面にかけて、新羅を意味する「白木神社」群などで五十猛が祀られているのは、『日本書紀』の一書にスサノオとともに新羅に渡ったと記されていることに由来するものかもしれませんが、僕は海部族が九州まで進出していたことの痕跡ではないかと考えるようになりました。
少なくとも五十猛自身が九州にいたという歴史的事実はないようです。

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スサノオ=徐福は2度日本に渡来しましたが、1度目の渡来地・出雲で出来た子が五十猛(海部族)であり、2度目の渡来地・佐賀で出来た子が穂屋出見(ほほでみ/物部族)です。
なので本来、当地に祀られるのは物部系の神であるはずなのです。

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しかし九州で勢力を拡大する好戦的な物部族を、大和を中心として勢力を維持する海部族が警戒しないはずはありません。
そこで九州に軛(くびき)を打つために送られた勢力が湯布院の宇奈岐の一族であったと僕は想定しています。

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海部族は出雲族と長く親交していたので、出雲的な一面を有しており、実際に出雲族とも婚姻関係を深く結んでいました。
故に宇奈岐日女の後裔である豊家は、物部的と言うよりは出雲的な一面を多く持っていたと感じます。

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境内を散策していると、当社はとても出雲的であると感じます。
天満宮にエビス神、

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そして九州ではあまり見かけない道祖神もありました。

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猛島神社では『旧島原藩薬園跡御神体』なるものが保管されているそうですが、それがどんなものなのか、気になります。

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五十猛と共に当社に祀られている大屋津姫と抓津姫、このうち姉神の大屋津姫は、五十猛の妃で大国主の孫娘の「大屋姫」のことであろうと思われます。

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大屋姫は大国主の息子「味鍬高彦」(アジスキタカヒコ)と出雲楯縫郡の御梶姫(みかじひめ)の間に生まれました。
彼女は五十猛との間に、後に紀伊国の祖となる高倉下(タカクラジ)を産みました。

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しかし五十猛はこの後、物部族の姫・穂屋姫を妃に迎え、大和王国初代大君となる天村雲を儲けます。
穂屋姫は徐福と宗像の市杵島姫の間に儲けられた娘ですので、二人は異母兄妹で結婚したことになります。
宗像氏も出雲王家の親戚ですので、徐福と出雲王家の血を濃く受けつぐ初代大君が大和に誕生したということです。

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しかし一方、大屋姫と高倉下は大和に留まることはできませんでした。
彼らは南方の、深く厳しい山と森、そして少ない平地しかない木ノ国へと移住せざるを得なかったのです。
なので大屋姫とその子孫は物部族に恨みを抱いていると思われます。
ここが物部の勢力下であったのなら、やはり彼女が祀られていることに違和感を感じます。

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妹神の抓津姫についてはよく分かりません。
実在の人物なのか、創作なのか。
ツマといえば宮崎の都萬が思い浮かびますが、そこと関連しているのかどうか。

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しかし当地を訪ねて、海部と出雲の強い繋がりを感じられたのは僥倖でした。

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