母木神社:八雲ニ散ル花 荒覇吐篇 04

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伯耆国の西部の方には、ホウキ(宝木)という高い神木が生えていた。
「ホウキ」とは、「ハバキ」の発音がのちに変化したものであった。
それで国の名前をつけるときに、そのホウキに当て字して、伯耆の国となった。

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鳥取市気高町宝木に鎮座の「母木神社」(ははきじんじゃ)に向かいました。

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途中の海岸に鳥居が浮かんでいたので思わず立ち寄り。
夫婦岩、なのかな?
どちらかというとカニのように見えます。

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鳥取県東伯郡北栄町大島に「宮崎神社」があるというので、ちょいと立ち寄りました。

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田園にぽつりとたつ神社。

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しかしその設えは、なかなか荘厳です。

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なぜこんなところに宮崎が。

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由緒によれば日本武尊西征の折、台風により御船を悩ましたが、不思議な力、神助により引寄せるように本社地の北東の地に着御せられたとのこと。
そこで、尊は大変よろこばれて、「此の様に清らかな地の海面に浮出づるのは、これは浮き舟ではないか。」とおっしゃって、これより此の地を称して浮舟の社と呼ぶようになったと云います。

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舟の中央に大麻を立てて、尊は自ら御飯を炊いて二尊を祭り神助に感謝しました。
この御飯を炊いた所は飯ノ山と呼ばれています。

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やがて波も静かになり、日本武は船に乗って出発したのでした。
この時の小船が石と化して今の社地にあり、石船の神と呼んでいると言い伝えられます。

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石船の神、探してみますが見当たりません。

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しかしなぜヤマトタケルが宮崎と繋がるのでしょうか。

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ここは物部とともに出雲に侵攻した豊家が至った場所なのではないでしょうか。

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境内を歩いていると、どことなく日向の海の風を感じたのでした。

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母木神社は宝木小学校に隣接して鎮座していました。

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小高い丘の横に参道が通っています。

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由緒には、創建時期は不詳で、古くは八幡宮といって母木村(現宝木)の氏神であった旨が書かれています。
しかし八幡信仰が当地に根付くより遥か昔から、ここは母木(宝木)神社だったのです。

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当地にはかつて、宝木(ほうき)という高い神木が生えていたのだそうです。
このホウキとは、出雲の藁の龍蛇神が巻き付けられた神木「ハバキ」の発音がのちに変化したものであったと云うことです。
それで国の名前をつけるときに、ホウキに当て字して、伯耆国となったのでした。

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古代には、幹が直立し上部で枝が広がる木が神木に適していると言われており、 箒と形が似ているので、同じ発音になったらしいとのこと。

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伯耆国風土記には、手摩乳、足摩乳の娘の稲田姫を八岐大蛇が喰らおうとしたため、山へ逃げ込んだ。その時母が遅れてきたので姫が「母来ませ母来ませ」と言ったことから母来(ははき)の国と名付けられ、後に伯耆国となったと記されています。

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ヤマタノオロチ神話が創作である以上、これは明らかに真実ではありません。
現存する風土記の多くは記紀の制作以降に手を加えられ、忖度して書かれている可能性が濃厚です。

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伯耆国は出雲王国領であり、出雲文化圏でした。
それは出雲のサイノカミ信仰に由来する四隅突出型墳丘墓が当地にも築かれていることから明白です。

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しかし出雲と同様、鉄器の製造が盛んであり、出雲王国滅亡後は大和政権の原動力の一つとして重視されてきました。
そのため、伯耆の国の由来も大和色に染める必要があったのかもしれません。

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拝殿の前に神木がまっすぐ天に向かって聳えていました。
これが伝説の宝木というわけではないでしょうが、藁蛇を巻きつけてサイノカミの祭祀を行う伯耆人の姿が目に浮かぶようでした。

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